翌日は〈異法者〉としての仕事はなかった。とはいえ、〈パープルヘイズ〉の昼食時、常連客である近所の住民たちの相手をするだけでも、充分忙しい。

 

 今日のランチメニューは、魚介類の具をふんだんに使ったクリームパスタだ。ヴォルフがこだわって作ったソースは、納得の味だと評判が良い。

 ランチタイムの繁忙時間が過ぎ、店内が落ち着けば、エヴァンも同じメニューを、賄いとしていただくことができる。ずっと動きっぱなしで空腹だったエヴァンは、出されたパスタを瞬く間に完食した。


 食べ終わって食器を片付けようとしたとき、入り口のドアチャイムが小気味良い音を立てた。

「いらっしゃい」

 グラスを磨いているヴォルフが、野太い声で客を迎える。入り口の方を振り返ったエヴァンは、入ってきた人物を見て硬直した。

「あ、い、いらっしゃい」

 なんとか声を絞り出す。来店客はアルフォンセだった。彼女の方もエヴァンを見るなり、さっと顔を赤くして、動きを止めた。

 帰っちゃうかな。そう心配したのだが、アルフォンセは小さく会釈して、店内に入ってきた。

「あの、お席いいですか?」

「ど、どうぞ! そ、そこの窓際の席、日当たりいいよ!」

 エヴァンは慌てて、空いたテーブル席へ彼女を案内する。アルフォンセはヴォルフにも会釈し、勧められたテーブル席についた。

 座ったアルフォンセと、テーブルの側で突っ立ったままのエヴァン。二人の間に微妙な沈黙が流れた。

「おい」

 背後からヴォルフに声をかけられ、エヴァンははっと我に返った。一瞬、頭が真っ白になったものの、すぐに言うべき言葉を思い出す。

「えーっと、な、何に、する……します、か?」

 思いきり声が裏返った。

 アルフォンセは、壁のブラックボードに書かれたメニュー一覧を目で追った。昨今の飲食店のメニュー表示はデジタルボードが主流だが、〈パープルヘイズ〉のように手書きで表示している店も少なくない。

「ベリーティーを、アイスでお願いします」

「ちょ、ちょっとお待ちを」

 エヴァンはそそくさとカウンターに戻り、ベリーティーの準備をした。調理全般はヴォルフが行うが、ドリンク類ならエヴァンにも作れる。

 グラスを持つ手が、かすかに震えていた。グラスを一旦置き、震えを止めるために両手をこすり合わせる。どれだけ大物のメメントと対峙しようが、こんなに震えたことは一度もない。なのに女の子一人を相手に、言葉ひとつまともに紡げないとは。情けなくてため息が出る。

「しっかりしやがれ。こぼすなよ」

 ヴォルフに発破をかけられたエヴァンは、「お、おう」とぎこちなく頷く。両手をソムリエエプロンでごしごし拭いて、なんとかベリーティーを準備し、トレーに乗せて運んだ。

「ど、どうぞ」

 焦るな騒ぐな落ち着け、と自分自身に言い聞かせつつ、いつも以上にゆっくりとした動作で、ドリンクをアルフォンセの前に置く。

「いい香り」

 アルフォンセはグラスを手に取り、さわやかな香りを堪能してから、ストローを口に含んだ。

 澄んだ琥珀色のベリーティーが、ストローを昇り、彼女の口の中に吸い込まれる。飲み物がアルフォンセの喉を通るたび、白い首筋が動く。エヴァンの目には、それがやけになまめかしく映ってしまい、視線のやり場に困った。

「おいしい」

 アルフォンセが微笑み、グラスをコースターに置く。氷がカランと鳴った。

「じゃあ、その、用があったら、よ、呼んで」

 エヴァンは引きつった笑顔を顔面に張りつけ、じわりじわりと後退した。すると、アルフォンセが腰を浮かせて引き止める。

「待って下さい。少しだけ、お話できますか?」

「え? お、俺と?」

「はい。忙しければ、時間を改めますが」

 エヴァンは大いに戸惑い、凄い勢いでヴォルフの方を見た。ヴォルフは太い眉毛を曲げ、ちょっとだけ頷き、片手をひらりと振る。彼なりの激励のつもりらしい。

 エヴァンは遠慮がちに、アルフォンセの向かい席に座った。

 恋焦がれる女の子が、すぐ目の前にいる。こんなに彼女に近づいたのは、初対面のあの日以来だ。心臓が早鐘を打っている。このまま破裂するかもしれない。耳や頬が溶けそうに熱い。今すぐ冷水をかぶってしまいたい。なんなら〈ブリゼバルトゥ〉に斬られてもかまわない。

 しばしの間、お互い無言だった。先に口を開いたのはアルフォンセだ。

「お仕事中にお邪魔してすみません。こちらにお勤めだと聞いて来ました」

「俺を捜して、来てくれたってこと?」

「はい」

「ど、どうして」

「ご挨拶に伺った日のことで」

 来たか、と思った。あの日の無礼を追求されるときがついに来たか、と。エヴァンは内心の焦りを悟られないよう、必死に平静を装った。

 なぜあんなことをしたのか、と訊かれるだろう。そうしたら何と答えればいいのだ。あなたに一目惚れしました、だから思わず触りたくなってしまいました。そんなことを馬鹿正直に言ってしまえば、それこそ嫌われてしまう。拒絶されると考えただけで、背筋が寒くなる思いだ。

 まずは謝らなければ。エヴァンは縫合したように固くつぐんでいた口を開き、深呼吸した。

「ごめんなさい」

 先に謝罪を述べたのは、アルフォンセの方だった。予想外のことに、エヴァンは口を開けたまま目を瞬かせた。

「とっさのことで驚いてしまって、叩いてしまいました。なんてことしたんだろうって反省したんですけど、謝るきっかけを掴めなくて、延ばし延ばしになりました。本当にごめんなさい」

 すまなそうに頭を下げるアルフォンセ。エヴァンは大慌てで首を振った。

「めめめめめめ滅相もない! だ、だってあれはどう考えても俺が悪いんだから、君が俺に謝る必要なんて全然ないよ! 悪いのは俺だから、ごめん!」

 と、今度はエヴァンが頭を下げる。テーブルに両手をつき、額もこすりつけんばかりの姿勢だ。

「お、俺、その、よく言われるけど、馬鹿なんだ。だから何もかもうまくできなくて、周りに世話焼かせてる。ほんと、どうしようもねーんだ」

 だから粗悪体だと言われるのだ、と、心の中で自虐的になる。どれだけ戦闘能力が高くても、軍の厳しい訓練に耐えた実績があっても、肝心なときにうまく立ち回れないなら何の意味もない。だから好きな子の前で、こんな格好悪い姿を晒すはめになったのだ。

「許してくれるんですか?」

「許すも何も、君は悪くないんだから。俺の方が許してくれって言わないと」

「それなら、私の方は、もう何とも思ってませんから」

「じゃあ……」

「はい」

 アルフォンセがはにかんだ笑顔を見せ、小さく頷く。エヴァンは安堵のあまり、テーブルに突っ伏して大きなため息をついた。歓喜の雄叫びを上げたい衝動を、なんとかこらえる。

 ふと、あることが気になり、エヴァンは顔を上げた。

「俺がここで働いてるって、誰に聞いたの?」

「マリーからです」

「え? マリー?」

 エヴァンの脳裏に、小悪魔少女の顔がよぎった。

「あの子と最近仲良くなったんですけど、あなたの話をよくするんですよ」

「どうせ、馬鹿だとかガキだとかなんとか言うんだろ」

「ええ、まあ」

 アルフォンセが苦笑する。

「でも、アパートのゴミ出しや、住民一斉掃除には積極的に参加してくれるって。おじいさまやおばあさまや、他の住人の方からの評判もいいって言ってました」

「へえ……」

 思いがけないところからの高評価であった。いつもは自分をコケにするばかりのマリー=アンが、知らないところでそんなふうにフォローしてくれているとは考えもしなかったのだ。こちらも彼女への評価を改めるべきだと、エヴァンは心の中で、斜向かいの部屋の少女に感謝した。

 アルフォンセはベリーティーを飲み終えると、席を立った。せっかく誤解が解けたのだから、もう少し話していたかったが、休憩時間が終わるからというので、強く引き止めることはできなかった。限られた時間を使って会いに来てくれたのかと思うと、それだけで気持ちが舞い上がってしまうエヴァンである。

 見送りに店先に出たとき、アルフォンセが言った。

「改めて、よろしくお願いしますね。私のことは、アルフォンセで結構です」

「俺もエヴァンでいいよ。あと、敬語も使わなくていいから」

 アルフォンセは笑って頷くと、いとまを告げて去っていった。

 華奢な後ろ姿が、最初の角を曲がって見えなくなった瞬間、

「いいよっっっしゃああああああああい!」

 溜まりに溜まった感情が一気に噴き出した。両腕を高らかに掲げ、あらゆるフレーズの雄叫びを上げ続ける。その結果、

「やかましい! ご近所に迷惑だろうが馬鹿猿! 話が済んだらとっとと買い出し行ってきやがれ!」

 ヴォルフの怒号とともに飛んできたトレーが、こめかみにクリーンヒットしたのだった。

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