目障りな猿を一匹、外に放ったディプロフォームは、今度はレジーニに標的を切り替えた。自身に傷を負わせるすべを持っているのがどちらなのか、ちゃんと理解しているらしい。


(多足亜門の分際で小賢しい)


 レンズ越しの碧の目で、天井から這い降りてくるメメントを、冷たく見据える。

 レジーニがこれまで相手にしてきたメメントの中でも、最大級の巨体だ。しかし、判断さえ誤らなければ、倒せない敵ではない。

 放り出された猿の心配は、一切していなかった。エヴァンの運動能力の高さだけは認めている。この程度の危機、自分でどうにかできなくては困る。

 ディプロフォームが蛇のように鎌首をもたげた。

 レジーニは〈ブリゼバルトゥ〉を構える。剣技に流派はない。裏社会に身を置くようになってから、生きるために戦い方を自力で身につけた。

 ディプロフォームが大口を開け、レジーニに覆いかぶさる。レジーニはメメントの噛み付きをすれすれで避け、口のすぐ下を斬りつけた。ディプロフォームが激しくのたうちまわり、壁や天井をさらに破壊する。

 レジーニはメメントの胴の下をすり抜け、無数にある歩脚の何対かを斬り落とした。斬りつけた部位が、冷気によってたちどころに凍りつく。

 腹部の別箇所から、細い触手が束になって現れた。触手の束は〈ブリゼバルトゥ〉ごと、レジーニの右腕を覆った。強力な吸着力で吸い付き、ぎりぎりと締め上げてくる。

 レジーニは自由な左手で銃を取り、触手の付け根を撃った。触手が一本また一本と千切れる。右腕の自由をある程度取り戻すと、敵に向かって踏み込んだ。

 剣の先端がメメントの胴に突き刺さる。レジーニは冷気の出力を上げた。金属が弾けるような音が響き、剣とメメントの接触部に氷の刃が生み出された。氷刃は、発生した勢いでディプロフォームに衝撃を与え、巨体を大きくのけぞらせた。

 メメントが体勢を崩すと同時に、レジーニは後ろに下がって距離をとった。触手が張りついたスーツの右袖がボロボロになり、思わず舌打ちする。

 ディプロフォームが、受けたダメージから持ち直した。目があるのかないのか確認はできないので、表情――そもそも表情というものがあるのかも怪しい――は分からないが、怒り心頭に違いない。

 レジーニはちらりと背後を見て、すぐにメメントに視線を戻した。一瞬だけだが、背後の窓の外で蠢く猿の姿が見えたのだ。何をするつもりなのかは、すぐに察した。


(タイミングだけは間違えるなよ)



 建物の外に放り投げられたエヴァンは、左腕の〈イフリート〉を解除し、五本の指をハンドワイヤーに変え、一番近い木に向けて伸ばし、太めの枝に絡みつかせた。遠心力を利用して枝の上に飛び乗り、病棟を振り返る。

 レジーニが一人で、ディプロフォームに応戦しているのが見えた。動きに焦りと無駄が一切ない。このまま一人ででも倒せそうな余裕が感じられるあたり、悔しいがさすがとしか言いようがない。

「もうちょっと苦戦してくれりゃ、こっちも助っ人のやり甲斐ってのがあるんだけどな」

 そう思いはしたものの、レジーニという男は、たとえ自身が危機的状況に陥ろうが、他人に助けを請うような性格ではないだろう。可愛げのないことこの上ない。

 しばらくその場で、相棒の戦い振りを眺めた。何度かの応戦の後、ディプロフォームの胴体が窓際に近づいてきた。

 今だ、と思うや否や、エヴァンは枝から跳び降りた。同時に両手の指を伸縮性ハンドワイヤーに変化させ、病棟に向けて伸ばす。

 ワイヤーの先端が、ガラスの無い窓枠の両端に突き刺さる。ワイヤーの強力な弾性によって、エヴァンの身体は急速に建物へ引き寄せられた。


 

 ディプロフォームが窓際に接近する。その向こうで、動く猿の影を確認したレジーニは、メメントから目を逸らさず、立ち位置をずらした。

 直後。

「どりゃあああああああああ!!」

 不必要なまでに大音量で叫ぶ金髪の弾丸が、ディプロフォームの頭部に突撃した。強い弾性が加わったエヴァンの蹴りを受けたメメントは、もろとも奥の部屋まで吹っ飛んでいった。

 コンクリートの床に倒れたメメントの頭部を、エヴァンは全体重をかけて踏みつける。細胞装置を再起動し、両足を硬化させて、更に重量を加えた。ディプロフォームの頭部が、硬い建築材にめり込む。

 化け物は苦痛にもがき、尾を高く振り上げ暴れ狂った。エヴァンは敵の頭部を踏んだまま、のた打ち回る尾に向けて右のハンドワイヤーを飛ばした。がっちりと尾を掴むと、勢いよく引っ張る。ディプロフォームの胴体が海老反りになり、下腹部が露出した。歩脚の群れが、おぞましく蠢いている。

「すぐ済むからおとなしくしやがれ!」

 抵抗するメメントを、エヴァンは全力で抑えつけた。

〈ブリゼバルトゥ〉を構えたレジーニが駆ける。ディプロフォームの胴の中でもっとも柔らかい、ゆえに弱点である下腹部の白い部分に機械剣を突き立て、心臓に向けて斬り下げる。凍てつく刃がメメントの肉や歩脚を裂き、噴出する体液を凍らせた。

〈ブリゼバルトゥ〉が心臓部に達すると、レジーニは剣を横に払った。凍りついたメメントの肉が砕け、あたりに飛び散った。

 鼓膜を貫かんばかりのけたたましい断末魔が、廃病院に響き渡る。

 エヴァンはハンドワイヤーを元の指に戻し、メメントを解放した。レジーニは何の感慨もなさそうな顔つきで得物を一振りし、刃に付着したディプロフォームの破片を落とす。

 ディプロフォームの巨体がゆっくりと倒れた。床に接触した衝撃で足元が揺れた。

 倒れたメメントの胴から、大量の悪臭蒸気が発生する。分解消滅が始まったのだ。ジュウジュウと耳障りな音をたてて、ディプロフォームの肉体が蒸発し、消えていく。

 ミッション完了である。

「よーし、終了終了!」

 エヴァンは漂ってくる悪臭を手で払いながら、ディプロフォームの死骸を回り込んで、レジーニの隣に立った。

「腹減ったな。何か食いに行こうぜ。モンジャがいいな、モンジャ」

「今この光景を前にして、そういう発言が自然と出てくる、お前の神経を疑う」

 ディプロフォームの死骸が三分の一まで分解されたとき、その痕跡に何か光るものが転がっていることに、エヴァンは気づいた。

 しゃがんで、よくよく観察してみる。

「何だこれ」

 それは中指ほどの大きさで、細い円錐形をした銀色の物体だった。メメントの体内にあったものだろうが、不思議なことに汚れていない。

 エヴァンはそれをつまんで拾い、レジーニに見せる。

「レジーニ、何か出てきた」

「こっちに近づけるな、汚い」

「汚くねーって。メメントの中にあったみたいだぜ。なんだろうな? メメントからこんなもんが出てきたことなんか、今までなかったよな」

「あーないない」

「オズモント先生に見せてみようぜ。調べてくれるかもしんねーし」

「あーそうだな。引き上げるぞ」

 適当な相槌を打つレジーニは、エヴァンに背を向け歩き始めた。エヴァンは慌てて、彼の後を追う。

「待てい! 反応薄すぎるぞ。そっちこそ、ちゃんと人の話を聞けよ」

「やることは終わった。長居は無用だ」

「そーかいそーかい。味気のないやつ。そんじゃあ飯にしよ。俺のお悩み相談はすんでねえんだからな。モンジャ食いながら、じっくり話そうぜ」

「うるさい、モンジャは嫌いだ。どうしてそうモンジャにこだわる」

「今、流行ってんだって」

「このミーハー猿が」



 エヴァンとレジーニが、非生産的な言い合いをしながら来た方向を戻っていく様子を、一人の男がじっと見ていた。

 ついさきほどまで、エヴァンが立っていた木の枝の上に、その男はいる。

 細い枝の上で完璧にバランスを保ち、彼らの動向を観察している。

 赤いレンズのゴーグル越しに視線が追っているのは、エヴァンの姿だ。

 男は愉快そうに歯を剥いて笑うと、木陰の中に消えていった。



 エヴァンとレジーニはその日のうちに、シーモア・オズモントの屋敷を訪ねた。

 メメントから出てきた物体を目にしたオズモントは、いつもの不機嫌そうな表情に、少し好奇心をにじませ、しばらくの間それをしげしげと眺めた。

 物体の正体を調べてもらえるか、との願いに、彼は、

「こう見えて忙しい身でね。君らの調べものだけに、長く時間を使うことはできんよ」

 そう言い置いたあとで、「三、四日ほど待ちなさい」と引き受けてくれたのだった。

 軽食にモンジャは、レジーニの一存で却下となった。

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