エヴァン・ファブレルの目覚めは唐突だった。

 目を開けたものの、今、自分がいったいどこにいるのか、まったく見当がつかなかった。

 すぐに理解できたことといえば、ベッドではなくソファに寝ていること。手触りのいい高級そうな毛布をかぶっていること。そして、なぜか裸であることくらいだ。下着すら履いていない。 


(どうなってんだ。ここはどこだ。しかもなんで裸?) 


 混乱しながらもエヴァンは上体を起こし、周りを見回した。できる限りの状況確認をしたい。いかなるアクシデントに見舞われても、置かれた状況を冷静に確認すること。そういう訓練を厳しく受けてきたのだ。優秀かどうかはさておき。

 古めかしい屋敷の一室のような部屋だ。〈施設〉内のどこかだろうが、なぜこんな場所に自分がいるのか、その理由は思いつかなかった。


(俺、何やってたんだっけ?)


 こんな格好でこんな所に寝かされる前まで、自分はどこでどうしていたのか。思い出そうとしたが、頭の中は濃い霧に覆われたように不明瞭で、何ひとつ思い出せなかった。

 分かっているのは自分自身のこと。軽い記憶障害が起きているようだが、自分が何者なのかという大事な情報まで忘れていなかったのは、幸いだったと言えるだろう。

 もう一度周りを見てみた。はて、〈施設〉にこのような場所があるだろうか。エヴァンは首をひねって思案した。〈施設〉内の全てを把握していたわけではないのだから、知らない部屋が多数あって当然なのだが、この部屋は〈施設〉とは違う雰囲気がある。


(何かされたと思うんだけどな)


〈施設〉の研究員たちに連れて行かれて、何か妙な注射をされたような気がする。うっすらとだが、そんな記憶が脳裏をよぎった。

 うーん、と唸って、懸命に思い出そうとするも、何もひらめかなかった。

 ふと気配を感じたエヴァンは、反射的に身構えた。気配の元を探ろうと、意識を集中する。

 視界の端に薄茶色の物体が現れ、エヴァンに迫ってきた。とっさにそちらへ身体を向ける。が、薄茶色の正体が大型の犬だと分かるや、ほっと肩を撫で下ろした。

「なんだよ、脅かすなよ」

 垂れ耳の大型犬は、つぶらな黒い目でエヴァンをじっと見つめる。邪気のない、好奇心旺盛な眼差しに、エヴァンの口元は自然と綻んだ。

 手を差し出すと、犬は鼻を鳴らして匂いを嗅ぎ、エヴァンの胸元にすり寄ってきた。頭を撫でてやると、嬉しそうに尻尾を振る。

 犬の毛並みは柔らかく、艶やかだった。手入れが行き届いている証拠だ。大事に飼われているのだろう。

 しかし、こんな犬を飼っている人物などいただろうか。そもそも〈施設〉は、動物の連れ込みは禁止ではなかったか。

 体毛に埋もれた首輪を見つけたエヴァンは、ぶら下がっているネームタグを手に取り、刻まれた名前を見た。

「ジャービルっていうのか。よろしくな」

 犬と挨拶を交わしたとき、部屋の扉が開いた。そちらの方に顔を向けると、熊のような大男と小柄な老人が、連れ立って部屋に入ってくるところだった。

「やあ、おはよう」

 小柄な老人が、淡々とした口調で声を掛けてきた。不機嫌なのか、仏頂面だ。

 一方の大男は、値踏みするような目つきで、じっとエヴァンを見ている。太くたくましい腕を、厚い胸板の前で組んでいた。

「気分はどうだね。吐き気や頭痛は? さきほど一度目を開けたのだが、すぐにまた眠ってしまったので、こちらに運ばせてもらったよ」

 老人はエヴァンの向かいのソファに座った。犬のジャービルはエヴァンから離れ、老人の足元に伏せる。彼の犬のようだ。

 エヴァンは警戒を解かずに、二人の来訪者を交互に見た。

「いや、別にどうとも。あんたら誰? 俺なんでこんなとこにいるんだ? ここどこ?」

〈施設〉関係者は好きではない。連中はエヴァンを人間扱いしないからだ。心を許せる相手は何人かいるが、ほとんどの研究者はエヴァンと仲間たちを、ただの道具としか見ていない。

 目の前にいるこの二人も、そんな連中に含まれるのだろう、と思った。

「私はシーモア・オズモント。こちらの大男はヴォルフ・グラジオスという。ここは私の自宅だ」

「自宅?〈施設〉じゃねえのか?」

「うむ、違う」

 オズモントは、こっくりと頷いた。ますますわけが分からない。ここが〈施設〉外であるなら、この二人は〈施設〉関係者ではないのだろうか。

「君の名を伺ってもいいかな」

「エヴァン・ファブレル。あのさ、まったく状況が理解できねえんだけど、俺今までどうしてた? なんで裸?」

「覚えていないのかね」

「ちょっと記憶が抜けてるみたいなんだ。ここで目が覚める前に、どこで何してたのか全然分かんねえ。自分のことは覚えてるけど」

「では、君自身の確認をしたい。君は、マキニアンだね?」

 オズモントの目つきが、鋭いものに変わった。エヴァンの内側を見透かそうとするかのように。

 彼の口から〈マキニアン〉の名が紡がれたことに、エヴァンは一瞬どきりとした。〈施設〉以外の人間が知っているとは思わなかったのだ。

 オズモントはエヴァンを落ち着かせようと、片手を上げた。

「そう警戒しなくてもいい。ここには君をどうにかしようとする者はいないよ。いたとしても、君の敵ではなかろう?」

「そりゃ、そうかもしんねえけど……だけど、なんでマキニアンのことを?」

 熊男が、その体躯にふさわしい大きな口を開けた。

「先生よ、そろそろマキニアンってやつについて説明してくれや」

 言いながら熊男は、オズモントの隣に腰かける。ソファが深く沈み、ぎしりと痛々しい音を立てた。

 オズモントはエヴァンに注意を向けたまま、熊男の質問に答えた。

「マキニアンは、対メメント専用の強化戦闘員だ。軍部所属の兵士から選出された者が、特殊な強化手術を施されてマキニアンになる。とはいえ彼らは、れっきとした人間だ」

「特殊な強化手術ってな、どういうもんだい」

 熊男ヴォルフの問いは、オズモントだけでなく、自分に向けられたものであると、エヴァンは察した。

 この二人に見せていいものかどうか、正直なところは分からない。だが、ただでさえ不可解な状況に置かれているのに、これ以上頭を悩ませると脳みそが溶けそうだ。

 細かいことを考えるのが苦手なエヴァンは、迷ったら自分の心に従うようにしている。それでだいたい、うまくいく。

 この二人からは敵意を感じない。なによりオズモントは、マキニアンをちゃんと〝人間〟だと言ってくれた。〈施設〉の連中と違って。

 エヴァンは意を決し、オズモントとヴォルフによく見えるように右腕を伸ばした。


「こんな感じ」

 

 エヴァンの意思に応じて、彼の全身を構成する〈細胞装置ナノギア〉が起動する。

 右前腕の身体組織が真紅の金属に変化した。金属化した腕の表面に装甲が出現し、前腕を覆う。ものの数秒足らずで、エヴァンの右腕は紅の籠手グローブ〈イフリート〉へと変貌を遂げた。

 

 ヴォルフとオズモントの目が、エヴァンの腕の変身に釘付けになっている。

 二人の率直な反応に、エヴァンはちょっとだけ気分が良くなった。

 細胞装置の解除も、ほんの一瞬だ。真紅の籠手は、たちまち元の身体組織に戻った。

 ヴォルフが感心しきりと頷いている。

「こりゃあいったい、どういう仕組みだ」

 彼の疑問への回答は、オズモントが引き受けた。

「マキニアンの肉体を構成する細胞装置の能力だ。特殊手術による〈細胞置換技術イブリディエンス〉の賜物で、いわばナノマシンの一種だよ。各戦闘員に設定されたスペックに基づいて、分子構造をコントロールし、変形させる特性を持っている。〈細胞装置〉は、対メメント用兵器〈クロセスト〉の素材、〈クリミコン〉をもとに開発されたものだ。つまり彼らマキニアンは、全身が〈クロセスト〉なのだ。〈人型クロセスト〉と評される所以ゆえんだな」

 オズモントがあまりにも流暢にマキニアンについて話すので、エヴァンはさすがに慌てた。

「待って待って! なあ、オズモントさんつったっけ? あんた、なんでそんなにマキニアンに詳しいんだ? 一応さ、極秘事項ってことになってんだよね、俺たちのことは」

「私が以前勤めていた国防研の知人から教わった話だ。その人物は、かつて〈イーデル〉の研究者だったのだよ」

〈イーデル〉……それこそが施設の名称だ。 

「そろそろ本題に移ろう、エヴァン。君はコールドスリープ状態にあった。スリープを解いたのは私で、装置をここへ運んだのがヴォルフだ」

「は? コールドスリープ?」

 予想外の答えだ。エヴァンは片眉を吊り上げた。

「そう。冬眠状態にあったと考えたまえ。君を保管していた装置は、先日〈パンデミック〉跡地で発掘された。〈パンデミック〉跡地というのが、どこのことだか分かるかね?」

 まるで分からない。エヴァンは素直に首を振った。

「すなわち〈イーデル〉の跡地のことだ。君たちマキニアンで構成された戦闘部隊〈SALUTサルト〉の本拠地だよ」

〈SALUT〉。たしかにそれは、エヴァンが所属するマキニアン部隊だ。総員は五十名。任務はメメントを駆逐すること、これのみ。

〈SALUT〉は軍部に属する部隊だが、本拠地は軍基地ではなく、研究施設〈イーデル〉に設けられている。

「その〈パンデミック〉って何だ? 跡地って、どういうことだよ」

「〈イーデル〉内で起きた、大量メメント発生事件のことだ。詳しくは聞かされていないが、ともかく膨大な数のメメントが、〈イーデル〉内に発生した。それらの駆逐のために、〈SALUT〉に加えて陸軍も出動し、大規模な作戦が遂行された。施設内は戦場と化し、甚大な被害を受けた。戦いの中で、〈イーデル〉は崩壊。〈SALUT〉も壊滅状態になり、以後解散したと言われている」

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