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〈パープルヘイズ〉は、サウンドベルの大通りから一区画離れた場所で営業している飲食店だ。
午前九時に開店し、午後三時まではランチを提供。三時間の休店の後、夕方六時から午後九時までダイニングバーとして営業する。毎週水曜日と日曜日、年末年始は店休日である。
味には定評があった。店主自慢の料理の数々は、近所の馴染み客に支持されており、大繁盛とまではいかないながらも、毎日充分な利益を上げている。
ひとつ問題があるとするなら、新規の客がつきにくいことだ。評判を聞きつけ、店にやってきたはいいが、店主の風貌に恐れをなして去っていってしまうパターンが多いのである。
ただ、最初の店主インパクトを乗り越えられた者は、リピーターになる確率が高かった。
その問題の店主は今、熊のような図体にソムリエエプロンを巻いた姿で、険しい表情をしている。大きな鼻孔から鼻息を噴射し、カウンターに突っ伏するエヴァンを見下ろした。
今はランチタイムを過ぎた休店時間である。店内にいるのは、店主のヴォルフとエヴァンだけだ。
「おいエヴァン、てめェいい加減にしろよ」
岩のような拳骨で、無防備なエヴァンの後頭部を殴る。ごつ、と鈍い音がした。
「痛え」
呻くように呟くエヴァン。伏せていた顔を上げ、ヴォルフを睨みつける。
「何すんだよ」
「腑抜けた面さらして店に立つな。辛気臭くてかなわねェ」
「俺だってヘコむときぐらいあるんだよ。そっとしといてくれ」
「お前の場合、ヘコんでんじゃねェ。ふてくされてるだけだ」
「どっちでもいいよ。とにかく今、俺は自分が情けなくてしょうがねえんだ。殴るくらいなら元気づけてくれよ。かわいい従業員が落ち込んでるときぐらい、優しくしてくれたっていいだろ」
「お前が本当にかわいい従業員だったら、考えてやってもいいがな。馬鹿丸出しのヤンキーみてえな野郎に対して、優しくしてやろうって気にゃなれねェ。なんだその耳は。いつの間にピアスなんぞ開けやがった。しかも八つも」
「開けたのは先週。ピアスの話題なんてどうでもいいだろ。つか、気づくの遅すぎ」
むすっとした表情のまま、エヴァンは頬杖をついた。
ヴォルフがあきれて鼻を鳴らす。
「女にビンタされたくらいでなんだ。どれだけメメントにぶん殴られようが、すぐ回復するくせによ」
「身体の痛みの問題じゃねえよ。心だよ。俺の心が傷ついてんの。あーもう。第一印象最悪だ。変態だと思われたかもしれねえ」
「初対面の野郎に上半身裸で寄られちゃ、そりゃ変態だと思われてもしょうがねえわな」
「衝動だったんだよ。だって目の前にあんな可愛い子が、しかも超がつく好みの子がいたらさ、本能的に身体が動くのも当然だろ」
「たいていの奴なら、そういう状況でも理性を保てるもんだ。お前本当に、頭じゃなくてカラダで考える馬鹿だな」
今朝、挨拶に来たアルフォンセ・メイレインは、エヴァンの理想の女性像そのものだった。天使か女神が降臨したと言っても過言ではない、衝撃的な出会いだったのだ。
これこそが一目惚れなのだろう。こんな気持ちは初めてだ。彼女の姿が脳裏に焼きついて離れず、胸がざわざわして落ち着かない。
切なげにため息をつくと、ヴォルフに「うぜえ」と言われた。
ちょうどそのとき、店休時間にも関わらず、正面入り口が開いた。古風なドアチャイムが、カランコロンと鳴る。
ドアをくぐって店内に入ってきたのは、レジーニだった。
落ち着いた紺色のスーツにストライプのネクタイ。胸ポケットから少しだけ見えているのは、きれいに畳まれたポケットチーフ。黒い皮シューズは、黒曜石のように磨き上げられていた。今日も着こなしは完璧である。
レジーニはエヴァンを見るや、完全に見下した表情で、ふ、と鼻で嗤った。
毎度のことなので慣れているエヴァンだが、一応抗議しておいた。
「なんだよ。会って早々、人を鼻で嗤うなよ」
「初対面の女性に裸で迫る変態が、目の前で馬鹿面をさらしてくれれば、誰だって嗤ってしまうだろ?」
「ちょっと待て。お前なんでそのこと知ってんだ」
今朝の失態は、ヴォルフにしか明かしていない。
相棒は、おもむろにポケットから青い
『聞いてよ! 今朝ね、バカエヴァンが引っ越してきたばっかりのお姉さんに、裸で襲いかかったんだよ! で、ビンタされたの。バカすぎるよね!』
可愛らしい絵文字を多用しているが、内容は辛辣であった。差出人は「マリー=アン・ジェンセン」とある。
「あンのクソガキ!」
斜向かいの部屋に住む少女の、生意気な顔が目に浮かぶ。
マリー=アン・ジェンセンは、十二歳にしてエヴァンの〝天敵〟となった少女だ。祖父母と暮らす彼女は、エヴァンがアパートに引っ越してきた当初から何かにつけてからかい、意地の悪い言葉を浴びせかける。大人であるエヴァンを、完全に見下しているのだ。
子どもだと思って甘く見ていたら、痛い目に遭う。黙っていれば、利発そうな可愛い少女だが、心には悪魔が棲みついているのだ。
エヴァンは苦虫を噛み潰したような顔で呻く。
「なんでこう、人の恥ずかしいところを、堂々と他人にバラすかな。ご近所さんの名誉を守ってやろうっていう、地域親愛の精神はねーのかあのガキには。しかもなんで襲いかかってることになってんだよ。膨らませてんじゃねーよ。あいつのじいちゃんとばあちゃんはいい人たちなのに、孫は魔性か!」
「ついでに言うと、
「止めてくれよそういうのは!」
とんでもない一言に、エヴァンは顔を真っ赤にした。が、相棒は冷静に、冷酷に突き放す。
「止める理由も必要もない」
悪魔はここにもいた。
「だいたいレジーニ、なんでマリーとメールのやりとりしてんだ。俺だってあいつのアドレス知らねーぞ」
「不本意ながら仕事の件でお前のアパートに行ったときに会った。どうも気が合うようでね、話が面白いからアドレスを交換したよ。なかなか行動力のある、頭のいい子じゃないか」
「悪知恵が働くのは認めてやるよ。つか、何だお前は。十代の子まで落としてんじゃねーぞ、この女子キラーが」
「別に、僕は何もしてない」
「そういうのがムカつくっての」
「嫌だね、モテない男の僻みというのは、見苦しくて」
芝居がかった仕草で肩をすくめるレジーニ。エヴァンの睨みを無視して、カウンター席に座った。コーナー側の、彼の定位置だ。
エヴァンとレジーニのやり取りを見ていたヴォルフが口を開く。
「お前らは相変わらず、ガキみてえにじゃれ合ってんのか。少しはお互いを理解しようと、歩み寄る努力をしろ」
即座にレジーニが否定する。
「ヴォルフ。気持ち悪いから『じゃれ合い』と表現するのはやめてくれないか。僕は常に平常だよ。盛りのついた猿が、勝手に噛みついてくるだけだ」
「猿って言うな!」
エヴァンの主張は完全に無視された。
「猿でもなんでもかまいやしねえから、ちゃんと首根っこ押さえとけ。この馬鹿は、敵と見りゃあ、すぐ突っ込んでいくからな。お前がコントロールしてやれよ」
「猿の世話なんか、もういいかげんご免被りたいんだけどね、僕は」
「だから猿猿言うなっつーの!」
エヴァンが何度抗議の声を上げようとも、この猿呼ばわりが改善されることはない。
「うるせェぞ。キーキー声がでけェんだよお前は。だから猿だってんだ。それよりお前ら。夕べの仕事分の報酬、口座に
エヴァンはまだ文句を言いたかったのだが、どうせこれ以上は取り合ってはもらえない、と分かっていた。
納得いかないながらも携帯端末を取り出し、報酬をチェックする。赤い端末の画面を操作し、預金口座の残高を表示させた。
ヴォルフには、裏稼業者に仕事を斡旋する窓口役という、もう一つの顔がある。エヴァンとレジーニの〈異法者〉としての仕事は、いつも彼から回ってくるものだった。
報酬は、アトランヴィル・シティ裏社会の上層部から下りたものを、ヴォルフが振り分けている。普段は飲食店を経営しつつ、この一帯の裏社会を取りまとめる顔役でもあるのだ。
「……ん?」
エヴァンは何度か端末を操作し直して、数回残高を確認した。
「ヴォルフ、なんかおかしくね?」
「何がだ」
「思ってた以上に少ない気がするんですけども」
「贅沢ぬかすな。それがお前の今の相場だ」
「ちょっと待てよ。何か納得いかねえ。レジーニ、お前いくらもらった?」
レジーニは青い携帯端末を、さっとスーツの内ポケットに隠した。
「そんなこと教えるわけないだろう。金にがめつい奴だな」
「お前に言われたくねーよ。がめついとかそういうことじゃなくて、俺の活躍の対価としちゃあ、少なくないかって言いたいんだよ」
「聞いてたか、鳥頭の猿。それが、今の、お前の相場だ」
ヴォルフは子どもを躾けるように、わざわざ言葉を区切って言った。
「裏の世界に入って間もないぺーぺーにしちゃあ、それでも高い方だ。文句があるなら取り消すぞ」
「と、取り消すのはなし! でも俺、結構身体張ってんだよ?」
「身体張るのはお前の仕事だ。悔しけりゃレジーニに追いつくぐらいのキャリアを積むこった」
「わかったよ! やってやるよ! あと二人して猿猿言うな!」
やけくそ気味に吠えたエヴァンは、端末をポケットに突っ込んだ。
「ガキみてェに
ヴォルフは迷い犬でも追い払うように、エヴァンに向けて大きな右手を振る。
「ズッキーニと卵を忘れんなよ。ブロッコリーもな。忘れたら今晩のキッシュが作れねェぞ」
「……へいへい」
いつもこれだ。いつまで経っても半人前のように扱われる。
たしかに飲食店のスタッフとしても、裏稼業者としても、経験は浅い。だがメメントとの戦闘経験なら、レジーニにだって負けていないはずなのだ。
エヴァンは文句を垂れつつも、席を立って買い物に出かけた。
行きつけのマーケットまでは、徒歩十五分ほど。
バイクくらいは欲しいところだが、今の生活が始まってから、まだ三ヶ月も経っていない。バイクを買うだけの金銭的余裕はなかった。
いつものルートで、いつものマーケットに行き、食材を買って、顔なじみの店員と軽く言葉を交わして帰る。道すがら出会う知人たちとも、声を掛け合う。
どうということはない、ごく一般的な日常の出来事だ。
ありふれた日常は、エヴァンに心地よい違和感を与えた。怪物と戦うことのない、表社会での生活。それは今まで、エヴァンが知らなかった世界だ。
かつてエヴァンの世界は、戦いだけがすべてだった。与えられた命令に従い、標的と戦い、倒す。血と硝煙にまみれた世界。
生きるか死ぬかの二択しかない人生に、〝自由〟などありはしなかった。
だから、相棒が冷たかろうと、熊に似た店主が優しくなかろうと、エヴァンは今の暮らしが好きだし、馬鹿猿呼ばわりする二人のことも、口には出さないが信頼している。
足取り軽く通りを歩きながら、ふと空を見上げた。
こんなふうに、買い物目的で外を歩くのも、昔の生活からは考えられなかった。
*
エヴァンが店を出ると、ヴォルフはコーヒーを淹れてレジーニに出してやった。
レジーニは礼を言ってカップを受け取ると、コーヒーの香りを楽しんでから、ブラックのまま一口飲んだ。
「で、どうだ、あいつは。少しは使えるようになったか?」
ヴォルフは太い腕をカウンターに置き、髭に覆われた顎で出入り口を示した。
レジーニが嘲笑するように鼻を鳴らす。
「ぜんぜん駄目だ。あんたがさっき言ったように、あの馬鹿はすぐ暴走する。夕べもそうだった。調子に乗って、メメントをビルの下に落とした。そんなこともあろうかと、事前に対処しておいたからよかったものの。まったく言うことを聞かない猿だ」
「だが戦闘に関しちゃ問題ないだろう?」
ヴォルフは一応フォローしたつもりだが、レジーニの辛辣な感想は止まらない。
「ああ、たしかに戦力としては悪くない。でも、その点だけでは補えないほどの馬鹿だ。おまけに世間を知らない。まるで子どもを指導しているみたいだ。今時の小学生の方がまだ賢いよ」
レジーニが不機嫌にコーヒーカップに口をつけるのを見て、ヴォルフは頭を掻いた。
エヴァンとレジーニがコンビを組んだのは、ヴォルフの意向があったからだ。
ヴォルフは以前から、レジーニに相棒をつけたいと考えていた。レジーニは優秀な裏稼業者だ。アトランヴィルの〈異法者〉の中でも、トップクラスの実力を誇るエースである。
レジーニはずっと一人でやっていくつもりだったのだろうが、ヴォルフの考えは違った。レジーニは相棒を持つべきだ。理由はちゃんとあるが、説明したところで本人は否定するだろう。
気難しいレジーニの横に立てるだけのワーカーが、どこかにいないだろうか。
長いこと捜していたが、なかなか見つからなかった。
そんなときに巡り合ったのが、あのエヴァン・ファブレルだったのだ。
レジーニが空になったコーヒーカップをカウンターに置き、席を立つ。
「規定の三ヶ月まで、あと二週間だ。あんたの顔を立てて引き受けた仕事だから最後までやるけど、期間を過ぎたら僕は降りるぞ。馬鹿猿の相棒なら他をあたってくれ。まあ、僕があんたなら即刻クビにするが」
〈異法者〉のエースは、そう言い捨てて店を出て行った。
ヴォルフはレジーニの消えたドアを睨み、大きな鼻息を吹く。
「まったく、クソガキどもが。こっちの気も知らねェで」
残り二週間で、エヴァンが〈異法者〉として、レジーニの相棒としてやっていけるのかどうかが決まる。その審判を下すのは、他ならぬレジーニ自身だ。彼が拒否すれば、コンビ継続は叶わない。
ここ数年、アトランヴィル全域に出没するメメントの数は確実に増加している。それにも関わらず、メメント討伐の担い手は減少傾向にあった。対象が化け物であることと、対メメント専用武器であるクロセストの扱いの難しさが、新たなワーカー誕生を遠ざけていた。
だからこそ、エヴァンのような人材は貴重なのだ。短絡思考で直情型の性格に難があるとはいえ、新戦力として確保できるなら、その難点に目をつぶっても得るものは大きい。
エヴァン・ファブレルとの出会いは、まさに僥倖だったと言える。
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