TRACK-1 10year`s off
1
アトランヴィル・シティ。
人口約千五百万人。
アトランヴィル第九区は、東のソレムニア海に臨む地区で、六つの町で構成されている。最も栄えている中央区からは少々離れているが、シティ屈指のオフィス街を保有するため、それなりに活気のある区だ。
第九区の南西の街サウンドベルは、区内でも一番治安がいいといわれている。昔ながらの煉瓦造りや、木造建築物がいまだに多く残る街並みで、その景観のためか、映画やテレビドラマのロケ地となることも多々ある街だ。
エヴァンが暮らす十二階建てアパートメントは、そんなのどかなサウンドベルの大通りに面した場所に建っていた。
電子時計が午前七時半を表示すると、ミニコンポのタイマーが作動し、スピーカーから目覚ましアラーム代わりの音楽が流れ出した。秀逸なギターとドラムが印象的な、ロックのヒットナンバーである。クライヴ・ストームという、人気ミュージシャンの楽曲だ。
ベッドサイドで歌うクライヴに起こされ、エヴァンは目を覚ました。
起き抜けで頭がぼんやりする。横になったまま、うんと伸びをした。
あくびをしながらベッドから降りると、エヴァンはまず、窓を覆うブラインドを開けた。
途端に朝日が射し込み、薄暗かった部屋の中を明るく照らす。眩しさに目を細めた。
窓を開けると、少し冷たくもさわやかな十月の風が部屋に吹き込んだ。アトランヴィル・シティは高層ビルが整然と建ち並ぶ大都市だが、サウンドベルは比較的低い建物が多い。おかげでエヴァンが借りているアパートの、十二階の部屋からの眺めを遮るものはあまりなかった。
都心部の高層ビル群が遠くに見える。ビルとビルとの間を縫うように敷かれているのは、スカイリニアの
「いい天気だなー」
よく晴れた空には、くっきりした白雲が浮かんでおり、さながら青い画用紙に白いアクリル絵の具を伸ばしたような鮮やかさである。
部屋の隅に設置した水槽を抱え、
「おはよーゲンブ。ひなたぼっこしような」
ゲンブと名付けられた子亀は、水の中からゆったりと陸地に上がってきた。エヴァンの小指よりも小さい首を、ぐうと伸ばして、気持ちよさそうに朝日を浴びる。
エヴァンはしばし子亀の様子を見守ってから、シャワーを浴びるためにバスルームへ向かった。
手早く寝汗を流し、五分ほどでバスルームから出る。下着とジーンズを穿(は)いただけの姿で、タオルで髪を拭きつつ歯磨きをする。
テレビをつければ、朝の情報番組が放送されており、人気のアンカーマンが滑舌よくニュースを読み上げていた。
交通事故、殺人事件、芸能人や政治家のスキャンダル、天気予報、昨日の試合を振り返るスポーツコーナー。
世間では似たような出来事が毎日起きているが、怪物が現れた、というニュースが読まれることはない。
昨夜、エヴァンが相棒と二人だけで、人類の脅威である怪物――メメントを退治したというのに、その功績が大衆に認められることも、知られることも決してないのだ。
(平和なもんだぜ)
歯ブラシを忙しなく動かしながら、エヴァンは思う。
ドゥックスのようなメメントの存在が、公の場で語られることはない。〈
ましてや、裏社会に怪物と戦う者たちがいるなどとは、誰も知らないのだ。
いかに〈
メメントを退治せよ、という仕事を請け、実行し、報酬をもらう。ただそれだけだ。
〈異法者〉だけに限った話ではない。
(別にいいんだけどよ。味気ないよな)
現状に不満があるわけではない。エヴァンにとってメメント退治など、なにほどのものでもなかった。メメントを前にして、恐怖を感じたことはない。それだけ、自分の強さに自信を持っている。
ただ、普段の生活に〝華〟がないのだ。
例えば――そう、恋人の存在とか。
エヴァンは現在二十二歳。身も心も健全すぎるくらい健全なのに、悲しいかな、女の子との交際経験がなかった。〝彼女受け入れ態勢〟は万全なのだが、まったくご縁がないのである。
相棒のレジーニは、端麗な容姿とクレバーな性格が受けているのか、言い寄ってくる女性が後を絶たない。腹の立つことに相棒は、女性からの誘いの大半を断り、たまに気まぐれのように幾晩か付き合うという、もてない男からすると許しがたいプレイボーイぶりを発揮している。
一人くらい紹介しろと言うと、女の子に失礼だ、と鼻で嗤われる始末。実に失敬な相棒である。
レジーニに比べれば、顔が凡庸なのは認める。だが言うに事欠いて「女の子に失礼」はないだろう。
レジーニの毒舌や可虐性は、仕事中でもそれ以外でも変わらない。エヴァンに対しても、他の誰に対しても。
歯磨きを終え、洗面所でうがいをしていると、玄関ベルが鳴った。
「はいはい、今出るよー」
こんな早朝からエヴァンを訪ねる相手といえば、アパート住民の誰かだろう。頭にタオルを乗せ、上半身裸のまま、エヴァンはドアを開けた。
部屋を訪ねてきた人物は、エヴァンを見るなり両目を見開き、頬を染めて顔を背けた。
「あ、あの、お、おはようございます」
目を合わせずに、その女性はたどたどしく挨拶する。
「えっと、昨日向かいの部屋に越してきました。夕べは遅くにお帰りのようでしたので、今朝ご挨拶に伺わせていただきました。アルフォンセ・メイレインと申します」
エヴァンと同じ年頃だろう。ゆるくウェーブのかかったショートボブが、柔らかに揺れる。肌は陶器のように白くなめらかで、大きな瞳は深い海の青。華奢な身体つきは、保護欲を禁じえない。
エヴァンは彼女から目を離せなかった。
自分の中の何かが、一瞬にしてどこかに落ちた。
アルフォンセと名乗った女性は、エヴァンにじっと見つめられ、困ったように眉尻を下げた。
「あ、あの、お名前伺ってもいいですか?」
反射的にエヴァンは、頭の上のタオルを取り払い、アルフォンセの方に進み出た。
「お、俺エヴァン・ファブレル! 二十二歳! 特技はバケモン退治! 俺もここに来てまだ日が浅いんだ! 何か困ったことがあったらいつでも頼って!」
「あ、はい。ありがとうございます……」
アルフォンセは目線をさまよわせ、少しずつエヴァンから離れようと後ずさる。しかし彼女が退くたび、無意識にエヴァンが近づいていくので、二人の距離は徐々に縮まっていった。
「すみません、あの、ちょっと……近いです」
「この街のことで分からないことがあれば、俺が力になるから。何でも言って、ホントいつでも歓迎!」
感情の高ぶりにまかせたエヴァンは、思わずアルフォンセの手を握り締めた。そのまま自分の方に引き寄せる。
「い、いやッ! 何するの!」
アルフォンセの悲鳴が聞こえたかと思うと、突然乾いた音とともに右頬に衝撃を受け、エヴァンの視界に星がちらついた。あれ? と思う間もなく、横に倒れる。次いで訪れた、頬の熱と痛み。
「痛ってえええ!」
叩かれた頬をさすっている間に、アルフォンセは足早に逃げ出した。
「あ、ちょっと待って! ごめん! 今のは……」
呼び止めるも虚しく、彼女は向かいの部屋に駆け込み、ドアを閉める。鍵をかける音が聞こえた。
「ああああ、俺の馬鹿……」
アルフォンセが消えたドアを見つめ、エヴァンはがっくりとうな垂れる。なんという不手際。これまで女性との接点が少なかったツケが、こんな形で返ってくるとは。一生の不覚だ。
ふと視線を感じ、エヴァンは情けない表情のまま、顔を上げる。
「げ、マリー」
厭な予感がした。その予感は、即座に的中した。
マリーは意地悪く笑うと、大きく息を吸い込み、部屋の方を振り返った。
「おばあちゃーーーん!! バカエヴァンが裸で女の人に迫ってるーーーーー!!」
「うおおおおおおおやめろおおおおおおおおお!!」
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