32 涙

 胸を打つ鼓動が体を微かに震わせている。景色がゆったりとした明暗を繰り返し何日経っただろうか。体感時間は本当に長い。なのにもしかするとそんなに時間が経っていないのではないかという気配がしてうんざりした。これをあと幾日繰り返すのだろう。


 死を意識した瞬間もあった。でもそうじゃない。意識は晴れている。これが何も考えられなくなったら終ぞそういうことになるだろうが、その気配はなかった。慣れるうちに少し安堵し、それから不安になった。このまま目覚めることが出来なければ自分はどう処理されるのだろうと。


――ずっと生かしてくれる? 生きているといえる?


 遠くからまた足音が近づいてきた。いつも定期的に誰かが見に来ているようだが、すぐに処置を終えて帰っていく。だから巡回の看護師じゃないかと思った。


「ウラガさん、聞こえますか?」


――返事できない、聞こえてるんだけど。


「脳波もあって、声も聞こえている。でも体の反応は無し。機能もすでに基準まで落ちてますね」

「完全な緑化病だな」


――緑化病?


「緑化病の患者さんはどうなるんですか。わたし噂でしか知らなくて。初めてなんです」

「じゃあ、処置を一緒にしよう。経験しておかないと」


――処置?


「最終判断は先生がするからそれからのことになるけど。色々ショックだから覚悟しておいた方がいいと思うよ」

「サインさせられるって」

「秘密厳守しますっていうね」


 男性が小声でいったがそれもはっきりと聞こえた。


――どういう意味?


 カチャカチャと器具を扱う音がして二人は去っていく。イツキの心は粟立っていた。処置、オレをどうするつもりで。緑化病って……




「どうするサイカ。すんなり病理医学が患者を渡すとは思えないぞ」

「それは無理、植物くんの面倒は当面診てもらわないと」

「じゃあ、どうするの。何しにいくの」

「落ち着け自分、大丈夫、大丈夫だから」


 エレベーターの階数表示はだんだん上がっていく。ケインくんは何をいってるのかなとリリンが顔をのぞき込んだ。ケインはすごく真面目な顔でいう。


「いざという時はボクがドクターの権威をふりかざします。あんまり趣味じゃないけど植物くんのためなら」

「大丈夫、みんなで勝つよ」

「着いたぞ」


 エレベーターを降りると足早にナースステーションに向かった。こちらを見た途端、看護師が異物を認識したように表情を険しくする。サイカたちの意図を汲みとったらしい。


「今は面会謝絶です! お引き取りくださ……」

「ちらっと顔を見るだけでいいの」

「ダメです。ドクターからきつくいわれて」

「おい、大げさだ。ちょっと見るだけだ」


 マフィアスが無理に押し入ろうとすると病棟の奥から騒ぎを聞きつけた男性看護師がやって来た。


「何の騒ぎです」

「この人たちが例の患者を」

「ああ、すみません。そういう事情ならダメです。今、とても大事な治療中で」

「ああ、知ってる。オレたちの開発した緑化抑制剤を投与しているんだよな」


 相手がむっという顔をした。サイカは問いかけた。


「緑化抑制剤は効いてるんですか。彼の容体は」

「相変わらずです。我々でしっかり治療していますので」

「ボクはドクターです。だから分かる科学用語で説明してください」


 はあ、と男性看護師は吐息して治療の詳細を述べた。


「緑化抑制剤ネオレデプシンを二回点滴しています。従圧式の人工呼吸器で酸素の除去を」

「ネオレデプシンの滴下量は適切ですか。少ないんじゃないかって、すみませんドクターと話したいな」

「あの、本当に困るんです! 今ドクターも手いっぱいで……」

「いけ、サイカ! 強行突破だ!」


 サイカとマフィアスが看護師をふり切り病室までダッシュする。後ろから大声で制止しているのが聞こえたが無視をした。リリンが後ろで「七百二十号!」と叫ぶのが聞こえた。


 廊下を走って角を曲がる。勢いを殺さぬように走り抜けて、病室を探した。


「あんたたち警備を呼ぶぞ! こちらの管轄になったっていってるだろう!」


 声をふり切り駆け抜けた。見えた。特別室だ。ブラインドが下りている。ドアを引き開けてサイカは叫ぶ。


「植物くん!」


 え……、サイカは目を見開き信じられぬ思いで動きを止めた。

 二人は追ってきた看護師たちに取り押さえられた。サイカは力なく腕を下ろす。


「そんな」


 病室はもぬけの殻だった。装置類も綺麗に片づけられている。マフィアスが暴れながら声を上げた。


「ウラガイツキはどこへいった! 答えろ! 答えなきゃ眼鏡を顔面ごとぶち割るぞ」

「もうすぐ警備員が来る。引き渡すぞ」

「答えて! イツキくんはどこ!」


 サイカは涙を目に溜めて叫んでいた。


「しかるべきところで処置を」

「処置って何!」

「それは……」

「彼は薬剤開発部の被験者よ! わたしたちには知る権利くらいある!」

「ありません。すでにこちらの管轄だ」

「オレたちはプランティアの秘密を知ってるんだぞ! 大声で叫んでやる。起きてる患者もいるかもな!」


 マフィアスが怒号を鳴らしたため相手が懸念し小声で漏らした。


「止めて下さい、我々だって好きでやってるんじゃない。それにもう下りてる頃で」

「下りてる? エレベーターか!」


 サイカとマフィアスは看護師を弾き飛ばすと走り出した。




 イツキはどこかに運ばれていくのを感じていた。先ほど長い廊下を通過してエレベータに乗ったのだろう。下へ降りているような気がする。周囲には人の気配。でも声はない。

 振動が今は停止してる。頻繁に止まっているから病理医学専用のエレベーターだと思った。乗り合わせた人とも会話せずにみんな緊張し切った息を吐いている。

 すると不意に……


「ちょっ……あんたたち!」

「困ります! 今移動しているところで」

「植物くん!」

「起きて!」

「起きて下さい!」

「無理です。もう彼には体を動かす体力は……」


 ああ、知っている。この声は。


「植物くん! 起きて、別にっていうんでしょ! いいから起きなさい」


――サイカさん。


「次の階でつまみ出せ! 警備に電話しろ、一階で拘束する!」

「植物くん、願わなきゃダメだ! 聞こえているんだろ!」

「瞼を動かしてください、それだけでいいんです」

「頑張って! 頑張らなきゃダメだよ」


――動かせないよ。分かるじゃん。


「キミは!」


 サイカが声を詰まらせながら叫んだ。


「キミはわたしたちの大切な仲間なんだよ!」


――仲間?


 心の奥底から気持ちが湧いてくる。そう、オレは。心臓が高く打ち始めた。冷え切った体に熱が帯びていく。


――……たい、生きたい。

――たい、生きたい。

――生きたい。


 つううっと頬を伝う感触があった。目を閉じたまま小さく震えた。


「……さ……ん」

「……カさ……」

「サ……イカさ……」


 薄目を開けると眩く光が目を刺した。たくさんの人の顔がぼんやりと映っている。涙で天井が見えない。震える口元でもう一度しっかりと口にした。


「サイ……カさん」


 イツキの胸元にしがみついたサイカの泣き声だけが静かなエレベーターに響いていた。

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