20 環境ウツ
大学の寮に帰宅するとどっと肩に疲れが圧しかかった。ソファに倒れこんで視線を落とす。空調の暑いところからキャンパスの冷えた空気をまとって歩いたせいか身震いがしていた。風邪を引きそうだった。
冷蔵庫のペットボトルの水をがぶ飲みして仰向けになって電話をいじる。癖のように右下の植物の芽のアプリでメタバースにアクセスした。
真昼間だというのにジャングルのような仮想空間では息をひそめるようにして植物くん決起集会が行われていた。植物くん決起集会とは緑化手術における様々な議論を交わす温厚なコミュニティである。緑化手術を受けているものもいないものも、真偽は分からないがみんなが環境問題について議論している。この頃気になって通っている場所だったが、個性豊かなアバターが集合して会話していた。言語が同時翻訳されていく。
——緑化手術が金になるって本当ですか。
——ならないよ。特定の国以外では。
——具体的にどこですか。
——エクアドル。
——本当ですか、ブラジルだと思ってました。
——嘘教えてますね。
——それくらい調べればわかる。あなたって知識もないの。
——プランティアでしょう、でもあそこ移住するのになんか面倒な手続きあるらしいですよ。
——プランティアで被験者になればいい額の補助金出るし、そこでずっとモルモット生活ってのも悪くないと思う。
——なんの楽しみがあるのですか? オレは植物人間じゃなくても今いる場所で平和に暮らしたいです。
――そういう利己主義が環境問題を生んだんだよ、病院いって緑化手術を受けろ。
樹はぷっと笑った。たぶんどいつもこいつも利己主義なんだと思う。環境のことを真剣に考えている人なんてほとんどいない。ネットのなかでも身の回りでも。マイクでしゃべりかけた。
「来週あたりブラジルいこうと思う」
え、まじで。まじでと声がしていたが電話を伏せた。帰りに買ってきたカップラーメンを開封するとウォーターサーバーの湯を注いだ。五分待ちながら笑って考えていた。本当にブラジルにいったらどうなるのだろうと。
伸ばした視線の先にはチェストがあってそこに両親の写真を飾っている。両親は十五歳のときに事故で亡くなった。祖母に引き取られて一緒に暮らしてきたが、大学進学を期に地元を離れて寮に下宿した。
何とはなしに進んだ大学だったが、三か月間友達はおろか、知り合いさえ作れずにいた。孤独のなかでねじ曲がった心理だけが醸成されていく。自分でもおかしいと思っている。おかしいと分かっているのに思考そのものを止められない。
食べ終えるとそのまま横になり、指は自然とネット検索をしていた。履歴には『緑化手術 補助』『緑化手術 危険性』『緑化手術 費用 政府負担』『プランティア 渡航費用』『プランティア 英語』そうした用語が下までずらっと並んでいる。
動画サイトにアクセスしてトップページにあったものを視聴した。観たことのないものだ。葉緑体くんというキャラクターが光合成について分かりやすく解説している動画だった。
『みんなこんにちは、ボクは葉緑体っていうんだ。地球には酸素があるでしょう。それは実は植物たちのおかげ。ボクはその植物のなかで酸素を発生させるために元気に活動しているんだ。これから細胞内での……』
ちょっと幼稚に感じられてスクロールして別の関連動画をタップした。
『ええ、これから受験に必要な生物学について学んでいきます。まず一番大事なところ、地球環境のゼロ期について説明していきます。およそ百年前、地球環境が壊滅的だった時期を地球環境のゼロ期といいますがテストで大事なことは……』
テストのためね、吐き捨てて次々に情報を流しこんでいく。
『マスメディアでは緑化手術について偏向報道がなされています。昨今問題となりつつある緑化促進剤の対抗薬として開発された緑化抑制剤は一部では……』
『みなさん非常に勘違いしておられるのですが、植物人間は神の定めた生物の在り方そのものを否定するものなんですね。動物と植物は相いれない生き物であることが……』
『植物化の手術にどれくらい予算を付けられるか、総理。緑化保護法を導入すると明言しておっしゃられましたが、日本にプランティアを建造すること自体が無理な発想で……』
政治家までもが日夜緑化手術について議論している。どちらが正しいとか間違っているとか。
世のなかどうかしている。でも言葉とは裏腹にのめり込む自分がいる。注目動画が上っていたのでそれをタップした。外国で行われているデモ行進のライブ中継だった。
場所はどこだろう、カナダのような気もするけれど正確じゃない。横断幕を持った様々な人種がでかい声でスローガンを叫びながら行進している。
『We don't need plants! We don't need plants!』
参加者の持っている段ボールには´Stop the greening operation´緑化手術の中止を、と書かれている。先日、出かけた先の大通りでも規模は小さいが似たようなことが行われていた。気にするなという方が難しい。
昨日、偶然食堂で見かけた番組でも有識者の議論が行われていた。それを横目に見ながら会話している学生がいたのだが。
「環境ウツっていうらしいぞ、それ」
「まじ」
「緑化手術を受けなきゃいけない強迫観念にさらされるんだってさ」
「ああ、まあオレもそう思うときあるわ」
「ニュースとかでもずっとやってるもんな」
環境ウツ。樹は重たい気持ちでうつぶせになった。自分もそうかもしれない。
このところずっと考えを引きずっている。何もしないのは罪悪ではないかと。ほとんど無関係に通り過ぎるような人間がいて自分ももしかしたらその一員で。この世界に住んでいる誰かのおかげで環境問題が解決されて、そのせいで生き延びられていることにいいようもない罪を覚えている。
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