15 理論の対立
「見たか、サイカ。この論文を」
マフィアスはサイカに最新号の科学誌フィンチを突き付けた。
「最先端科学、科学者に問う。植物ホルモン受容体で体内に取り込まれた植物ホルモンを除去する仕組み!」
サイカは目をしかめてフィンチを受け取った。ぱらぱらとめくった後、吐息する。
「……これはやらない」
「何でだよ」
「いいことばっかり書いてるけれど、実際はただのシャーレのなかの出来事で。人体には植物ホルモンと間違われやすい大事な物質がいっぱいあるのよ。そんなものを使用すればあちこちにくっついて間違いなく健康被害を被る」
「シャーレだけど成功したんだ。立派な成果だろ!」
「あなたが入れこんでいることは知っているけれど、わたしはそのやり方を選択しない」
「入れこんでいるんじゃなくて人生をかけているんだ!」
この頃、マフィアスとサイカは理論でのぶつかりが激しく、同じ研究チームであるにも関わらず、各々が想定マウスを独自に用いてまったく関連性のない研究を進めるということをしていた。
「上手くいってる?」
「全然!」
マフィアスが怒るように答えた。
「おい、どうして上手くいかないんだ!」
「知らない」
「やかましい。オレはマウスに聞いてるんだ」
サイカはケラケラ笑いながらパソコンに目を落とした。そこでふっと呼気を吐く。プランティアのサーバーにアクセスすれば二十四時間患者の情報は取得できる。映っているのはユーリの基底細胞の画像だ。細胞壁がくっきりと生じて無数の液胞があった。
「ユーリくんの病状は他の人に比べてとても速い」
「若いから進行も速いんだよ」
うん、そうだねとサイカは返事をしたけれど別のことを考えているような虚ろさがあった。
「ビタミンW誘導体の理論に協力してくれないかな。アイデアだけでいいの」
「天才だろ、自分で考えろ」
何すねてるのよ、とサイカがぼやく。その時、実験室の呼び出しが鳴った。サイカが来た来たと応対する。
「なんだ、お前ら」
「呼ばれて来たんですが」
「部屋、間違えたかも」
「あってる」
サイカはそういって二人を招き入れた。
「生化学と医学のスペシャリストが欲しかったから」
「スペシャリストオ? この若さでか。お前ら学歴は? いくつだよ!」
「わたし二十二、学部出たばっかり。ちょっと研究職とか憧れだったんだよね」
「ボクは二十です。これでも大学院の博士課程を修了していて」
マフィアスはぽかんと開いた口がふさがらなかった。人類の革新に触れるような研究をしているという感覚が無いのだろうか。男のほうはいざ知らず……
「おい、お前!」
「あ、はい! ……何ですか」
彼女は怯えながら返事をした。
「特段優秀だったんだろうな」
「いや、あのどっちかっていうと……」
すごくいいづらそうにしていたのでサイカが割って入った。
「雇うことを決めたのはわたし、ボスもわたし。あなんだがどんなに年上で素晴らしい理論を掲げていてもチームの方針を決めるのはわたしだから従ってもらう」
「いいか。オレの方針を決めるのはオレで、エルード・マフィアスは誰の指図も受けない」
するとサイカがマフィアスの胸倉をがっとつかんで怒鳴った。
「わたしたちは理論で遊んでいるんじゃない!」
気まずい沈黙が流れる。青年の方が遠慮しながらいった。
「あれ、僕たちもしかしてすごいとこに来ちゃった?」
◇
「あんた今と比べてずいぶん感じ悪くない?」
イツキはマフィアスに問いかけた。
「まあ、あれだよ。二十そこそこの小生意気に女に偉そうにされてみろよ。そうなるわ」
「わたしたちは理論が相入れなかったのね。性格がとか、やり方がとかじゃなくて。科学そのものの理論が」
「でもオレたちは分かり合えた」
そういってマフィアスが乾杯と四杯目のジョッキを持ち上げる。
「どうやって分かり合えたの」
「ちょっと変わってるケインくんとか、お惚け物のリリンとかもそうだけど。一番はユーリくんのおかげかな」
みんながサイカの言葉にうなづいていた。
◇
「くそ、何だよあのアマ。気性が荒いったらありゃしねえ」
「マフィアスさん」
声にふり向くとスウェットを着たユーリが立っていた。病室を離れて実験棟のこんなところにいたとは驚きだ。下から吹き上げてくる風がマフィアスの縮れた髪を揺らした。バルコニーから高速鉄道の長いレールが見えた。このレールは北米まで続く。
「マフィアスさん」
「機嫌が悪いんだ、後にしてくれ」
「コレ、持ってきたんです。実験室にいったらいないっていうから」
ユーリが差し出したのは高速鉄道のミニチュアだった。しかも、それは。
「レア中のレアじゃないか。初めて走った高速鉄道B100系の」
「母さんが持ってきてくれたんです。お願いしてあったからマーケットで見つけて」
はあっとマフィアスは嘆息した。
「自分で持っとけ」
ユーリは困ったようにして口を噤んだ。
「何で懐いてるんだ。サイカに。美人だから好きか」
「ボクはみなさんのこと家族だって思ってて。ご迷惑かもしれませんが」
涙のにじんだ声でいうのでマフィアスは空を見て唇を引き結んだ。
「おい、ユーリ」
「はい」
「男が泣きそうな声でいうな。オレも泣きたくなるじゃんか」
「……はい」
潤んだ声でユーリは返事をした。マフィアスの白衣を引っ張ると声をにじませた。ミニチュアを握らせて力を込める。
「ちょっとだけでいいんです。ボクがこの世界にいられるちょっとの間だけ仲良くしてくれませんか」
「あのな、お前……」
「あ、いたいたマフィアス。もう、勝手に出てかないで。せっかくユーリくんが来てくれたのにってユーリくんもいたんだ」
「はい」
ユーリの声もう涙を含んではいなかった。ふり返ると先ほどの二人を伴ってサイカが立っていた。
「リリンだよ、よろしくユーリくん」
「ケイン・ウンベラートです。キミとはじつはそんなに変わらなくて」
二人の話を聞きながらユーリは嬉しそうにしていた。サイカとふと目があって、ちょっと来いと伝えられる。建物のなかに入って会話した。
「とりあえず、休戦しよう」
「はあ?」
「時間がないの」
「時間? 時間ならたっぷりと」
サイカがマフィアスの腕を持ち上げて左手のミニチュアを持った手をぐっと握らせた。
「無いよ。分かるよね」
◇
「オレたちはユーリのために争うことを止めた。冷静に考えて見れば成果を上げられていたのはサイカの研究だったからな」
マフィアスは言葉を落とした。彼はもうビールを飲んではいなかった。モールのシースルーの天井が薄暗く濁り始めた。静かに雨垂れが筋を描いている。
「今は。その子どうしてるの。全能性だったって」
リリンが顔を俯けて涙をこぼした。
「ユーリくん……違法促進剤を使ってたの」
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