16 すれ違う願い

「ユーリくんはわたしたちにとってたくさんいる患者の一人で、だから彼にこだわることにそんなに意味はなかったのかもしれない。でも、彼の窮状は結束するための一種の起爆剤となった」

「オレはとりあえず自分の研究を中断して、サイカに付き合った。遅くまで議論を重ねて化学式を飽きるほどホワイトボードに書き合って、そのかたわらで合成を進めた」

「ボクとリリンはサイカさんの試していた想定マウスでの実験を。ビタミンWの挙動についてももう一度詳しく検証した。きっと置換基をくっつけるためのヒントになるからって」


 みんなの顔は浮かない。続きを口にするのは憚られることだったがサイカは続けた。


「想定マウスで一年、マウスで二年、臨床試験が始まるまでに三年が過ぎている。ユーリくんに優先的に投与するように頼んだけれど、効果があるかどうかは別。彼の体は抗えないほどに弱り切っていた」

「違法の促進剤を使ったって。どうしてそんなこと」

「母親が与えていたの」

「えっ」


 イツキが信じられないという顔をした。リリンはあり得ないよと泣いて目元をぐしぐしとぬぐっている。


「ユーリはプランティアに母子の二人で渡ってきた。こちらで手術を受けて、政府に申請しある一定の補助金を得ていた。母親はあまり真面目な性格ではなくユーリへの愛情も薄かったんだな。彼は寂しさを埋めるようにオレたちと一生懸命仲良くしたがった。病棟に行かない時には会いにも来たし」

「来ないでっていうこともさすがに出来ないから」

「他の患者さんのこともあったけど一番はユーリくんだったよね」

「科学者たちとして未熟な理念だとは知っています。でも助けたかった」

「親が子供に緑化手術を受けさせるなんて」


 イツキの言葉はきっと平和な国の思想で生活に困窮したことのないもののセリフだろう。それはサイカたちも大して変わらない。


「緑化手術自体は十五歳から受けることが承認されている。百年前に確立された技術だし、無茶さえしなければほぼそれ関連の病気にはかかることなく生涯を終えられる」

「全能性が発現するのは基本、違法促進剤に手を出したケースが九十九パーセントなんですよ」


 ケインが説明するようにいった。


「促進剤を使用すれば葉緑体が増えて光合成量が増えるから、それに応じて補助金が増額されるのね。より温室効果ガスの削減に貢献しましたよって」

「その制度なくしちゃえばいいと思わない」


 リリンが気落ちしたようにいった。


「無理だ。それで生活している人間がたくさんいる」


 イツキの指摘はもっともなことだった。


「そう、それは政治の問題ですごく難しい。政府の認可した促進剤が登場したのは十数年も前のことで安全が約束されたものという認識だった。それが近年になって違法促進剤というものが流通し始めて、間もなく全能性との関連が指摘されるようになった。世界中ではすでに抑制剤の研究は走り始めていたけれど、一度かかったものをもとには戻すことは出来ない」

「緑化手術自体をなくせばという議論にならなかったんだ」

「それで今まではちゃんと回ってきたんですよ」


 ケインが指先をくるくるとした。


「懸命に関連性を証明しようとしている学者がいて。一方でわたしたちのように抑制剤の開発に勤しむ学者もいる。でも、お金に困窮している人にとってはどうでもいい事実なのかもしれない」


 マフィアスがサイカにつけ加えるようにいった。


「願いはこちらの意図している形では大抵伝わらないものなんだ」



       ◇



「ドクターがいってた」


 実験室での作業中、サイカの言葉にみんなが耳を傾けた。


「ユーリくんのカギのついたチェストから多量の促進剤が出てきたって」

「えっ」


 みんな、一瞬耳を疑い動きを止めた。


「たぶんものすごく問題になるとは思うけど」

「……追い出されないのかな」

「どうだろう」


 サイカはパソコンを叩いた。


「マウスでの誘導体の実験は上手くいってる。これが臨床試験まで進めばそれなりに効果は」

「間に合うわけありません」

「止めろ、少年」

「少年じゃない、青年です」

「どっちでもいいよそんなの!」


 リリンが涙ながらに叫んでいた。


「もし契約満了になってしまったらわたしたちは会えなくなるけど。会いたいならきっと今のうち。いきたい人はいって」

「サイカ、冷たいよ……」


 サイカのタイピングの音はいつもより大きい。腹を立てていることは明らかだった。


「タイムロスが痛いわね、時間がないっていうのに」

「サイカ」

「それまでに何とか緩和策を考えないと」

「サイカ」

「菜食は制限してもらわないとダメだし、暗室に移動させてもらって」

「サイカ」

「分かってる!」


 サイカは声を荒げた。居室がしんと静まり返る。


「今のわたしたちにはいつも通り実験することしか出来ないの! どんなにユーリくんが可哀そうな状況でも助けることは出来ないし、泣いたって全能性の進行は止まらない」



       ◇


 

 サイカは目の前のイツキに向けて身振り手振りで説明した。


「基底細胞に効くことは想定していたけれど、それが全能性がかなり進行した細胞にまで浸透するかというと難しい問題になる。いくら優れた薬でも初期段階の対処薬でしかないのも事実なの」

「世界中にあんたたちの薬で救われた人間がいるんじゃないか」


 息を吐き切ったマフィアスが首をふった。


「だけど目の前にいる患者を救えないことの哀しみと悔しさで当時は何も見えなかったのも事実」

「もう臨床試験には関わらない。みんなで誓い合ってはいたんだけどね」

「植物くんは特別です」


 ケインの言葉にああ、そう。そういうこと、というイツキのぼやきが聞こえた。


「最後はあたしから話すから」


 サイカがそういって続きを話し始めた。

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