17 優しい世界
実験棟の七階の端の部屋からはザトウクジラの尾が見えていた。いい眺めだがそれを拝む力はもう彼にない。ユーリの症状はひどく進行していて立って動くことはおろか会話さえ十分にできない状態となっていた。腕は濃い緑に染まり一部植物化が始まっていて、それを憚るように担当医が長い袖を着せていた。ブラジルに一緒に渡ってきたはずの母親は面会にさえ来なかった。
ビタミンW誘導体が緑化抑制剤としてもうじき世に出る。臨床試験では初期の全能性患者であれば快癒することも報告されているが、表皮にまで症状が及んでいた彼には効かなかった。
「ユーリくん、聞こえる?」
囁くようにいうと小さくうなずく声が聞こえた。
「せんせ。かあ、……さんは……どうしてこな……のかな」
「寝てる時に来てたよ」
えくぼの浮かばなくなった乾いた肌を涙が滑り落ちた。リリンがティッシュで涙をふき取った。泣かないで大丈夫、といいながらリリンは泣いていた。
「かえ……た……」
苦しさに押しつぶされるようにユーリが言葉を吐きだした。サイカは小さな口から発せられた言葉に胸が締め付けられるような思いがした。目頭が熱くなる。何もいえずに乾いた手を握った。手は血が通っていないのだろうか、と思うほどに冷たかった。
「お薬が効いてくるよ。心配しないで」
「今度治ったら高速鉄道に乗りにいこうな」
「ボクも一緒にいきます。みんなでいこう」
ユーリは安堵したように静かに目を閉じた。大丈夫、大丈夫といいながらサイカは頬を撫でた。
四人でユーリの病室を出ると後ろから医師が話しかけてきた。
「もう、来ないでください」
サイカは目を見開いた。
「おい、待て。そりゃどういう意味だ!」
マフィアスが剣幕を険しくしたが医師は動じなかった。
「知らなかったのでしょう、こんなに残酷だなんて」
みんな言葉を無くして黙った。
「ボクたちは確かに知りませんでした、でもだからこそ知りたいと思ったサイカさんの気持ちは……」
「ケインくん、止めよ」
医師が吐息して続けた。
「知見のためとは存じてます。でも、おそらくただの学術対象でしかなかったんでしょう」
「あんた抜け抜けと!」
「全能性の患者がどんな末路をたどるか見ておきたかったんじゃないですか」
マフィアスががっと胸倉をつかんだので医師は苦し紛れに決定的な言葉を吐いた。
「あなたたちは実験室でひたすら理論と向き合っている。でも、我々は命と向き合っているのですよ!」
医師は憤まんあらかたに怒鳴るとマフィアスの手をふり解いて病棟の奥へ向けて戻っていった。
リリンがしゃがんで泣き崩れた。サイカもそばにしゃがみこむとその震える体を抱きしめた。頭のなかには数年の思いが詰まっていた。全部、全部の思い出がただ愛しくて。
「もう来ないよ。わたしたち」
「いや」
サイカも泣いていた。リリンはふるふると首をふる。
「わたしたちは救えなかった。わたしたたちは負けたんだよ」
病理医学の学者や看護師が無感情に過ぎていった。廊下には夕日が射しこんで、静かなフロアには人の声一つしていなかった。
◇
「それから緑化抑制剤が世に出て、実際の医療現場でも当たり前のように使用されるようになったし、実際にそれで多くのヒトが救われた。あちこちで称賛されているけれどでもその陰には彼への後悔の気持ちがあった」
「生きているんですか」
イツキの問いには誰も即答できなかった。サイカが首をふった。
「細胞のデータが更新されなくなったから、たぶん」
「そう」
イツキは理解したようで口を噤んだ。
「彼は貧困ゆえに違法促進剤を使った」
「それがこの世界の一番難しい問題だ」
サイカの言葉にマフィアスが世の事情を重ねた。
「わたしたちの研究は成功すればいくらでも称賛される。でも陰には彼のような全能性で苦しむ人たちの存在があって、時には助からないその命をも踏み越えながら科学は進んできた。医師からすればわたしたちの仕事はどこか人間味がなくて、鼻付きならないものだったのかもしれない」
「そういう意味では分かってなかったのかもしれないね、あたしたち」
「オレを名前で呼べないのはそういう遠慮からなのか」
「違うよ」
イツキの言葉にリリンが笑った。
「みんな緑化手術を受けた人のことを植物人間って揶揄するよね」
「それじゃ愛がありませんから」
「今度来る子は、オレたちこそ愛をこめて呼ぼうって」
「植物くん、キミもキミ以外も。みんな一緒。同列に扱うのってちょっと不満でしょうけれど、みんな地球のために命を懸けた人たちなんだよ」
サイカの言葉にイツキが目を見開いた。
「わたしたちは人生をかけて研究に取り組んでいる。現場の医師が真剣なくらいに科学と向き合って、冷静な知識と純粋な願いを武器に」
「理解される、されないじゃなくてな」
「まあ、でもちょっとした興味は許してください」
「ケインくんまだこだわってるんだ」
いいでしょう別に、とケインが口を尖らせた。サイカは遠くを見て笑った。
「世界は植物くんたちのおかげで優しくなっていく、そのことを忘れないで」
食事を終えて現地で解散し、イツキはショッピングモールを歩きながら景色を眺めていた。寄り添い、腰に手を回して歩く外国人の姿。ハグをしてキスをして、道淵で生演奏に合わせて踊っているダンサーの姿もある。日本でこういう光景はなかった。
むせ返るほどの熱気をあふれ出させるこの町で静かにそれを見つめている。環境問題が、とか。世界はもっと熱心なものだと思っていた。プランティアに来ればそれを確信できるんじゃないかと思っていた。
あの教授の言葉が頭のなかに木霊している。
——浦賀くん、緑化手術を受けてみないか。
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