10 最後のマウス

 季節は雨季の真っ盛り、外はスコールが地面を打ち付けていた。強く降っては晴れ間がのぞく。イツキがブラジルの梅雨は気まぐれなんだ、とポツリいった。


「梅雨って何」


 リリンが椅子の背もたれに腕を組んで興味深そうにした。


「日本でいう雨季のこと」

「日本にはお花見があって、紅葉があって、正月があって、なぜかクリスマスとハロウィンまである」


 マフィアスが揶揄するようにいった。彼はパソコンのソフトで化学式を描いている。プレゼンテーションの準備があるらしかった。


「四季ってめんどくさいじゃないんですか? いちいち服装変えなきゃいけないですし」

「ケインくんは同じ服十着買う人だもんね」

「ネズミ色のラピットゲイル」


 白衣をばっと広げたが誰も見ていなかった。


「最後のマウスまだ生きてるね。サイカは望みをかけてるのかな」

「諦めてると思うぞ」


 一度は回復したように思われたマウスはすでに弱り切っていた。原因はセルロース分解酵素を塗布したことによる免疫の低下。感冒症、すなわち風邪に罹患して発熱症状が確認されていた。

 みんなで談義しているとサイカが入室してきた。


「血液検査の結果異常なし。植物くん安心していいよ、血液も赤血球が少し多いくらいで緑化状態としては正常だから」

「うん」

「あ、返事した」

「今日はやけに素直ね」


 サイカが目を丸くしているとイツキはうざったそうにした。


「結果も聞いたし帰っていい?」

「うん、お疲れさま」


 イツキはサイカと入れ替わりに帰っていった。


「このごろ元気ないね」


 リリンは心配そうに扉の方向を見つめていた。


「まあ、植物化ってのはエネルギーが過剰になるから夜興奮して眠れなくなるのは仕方がないし、慣れないブラジルの風土で食事が合わないのかもしれない」

「サイカ、お前えげつないぞ」

「そうかしら」


 サイカは首をかしげると印刷したデータを机に置いて隣の実験室へいった。


「サイカさんも接していると色々思い出すんですよ。前の植物くんのことがあるから」


 うん、とリリンがうなづいた。


「ユーリくんさ。とてもいい子だったよね」

「そうですね。ボクも機関車の模型いくつか貰いました」

「何でもちゃんと聞いてくれて。辛いのに笑ってばかりでわがまま一ついわない。初めて会った時のこと思い出したら泣けてきちゃう」


 そういってリリンは涙声で椅子から立ち上がった。


「わたしサイカにサイン貰わないと。新しいマウス発注しなきゃだし」


 そういって隣の実験室へいった。マフィアスが静かになった部屋でこぼした。


「リリンも入れこむな」


 するとケインがこういった。


「みんなですよ、まだ彼への思いから抜け出せないでいる」




 サイカは分離用のシリカゲルカラムの前に立ってオレンジ色の試薬を注ぎながら遠くを見つめていた。この実験室にも若い彼は興味深そうに立ち入っていた。綺麗なブリュネットの髪を揺らして微笑む。サイカ先生、と。つい先日のことのように思い出す。また彼が来るんじゃないか、と思ってドアに目を向けていると。


「サイカ」


 えっ、と一瞬手をこわばらせてしまった。


「なんだ、リリンか。驚いた。びっくりさせないで」

「何もしてないよ」


 リリンはそういって書類を出した。三月末に迫った契約更新の書類だった。サイカは文面も読まずにボールペンでさっとサインをする。


「リリンは来て六年目だね。ずいぶんしっかりした」


 右手で白いコックでひねって試薬の滴下速度の調整をする。あんまり急ぎ過ぎると分離がきれいにいかない。静かに試薬が下りてシリカゲルを染め始めた。


「サイカはイギリスから来てから次の年にチームリーダーを任されたんでしょう。二十歳で。優秀だなあ」

「ま、ほらポストが空いてたし」


 軽くいってリリンにも椅子を勧めた。視線はガラスのカラムを見ていた。


「こんな時代でも化学だけは想定実験が出来ない。実験室で合成して実際に物質が出来ることを証明できなければ理論が成り立たないから」

「ちょっとここだけは昔ながらだよね」

「まあね」


 リリンが遠慮がちに目を向けた。


「あのね、マフィアスもケインくんもいてちょっと話しづらかったし」

「ん?」

「わたし、……ほんとはユーリくんに会いにいきたい」

「うん」

「いいの?」

「いいよ、会う勇気があるなら。いつでも」


 するとリリンは目をぐっと潰して泣いた。


「会えないよ。だってユーリくんは……」


 話し始めたところで開きっぱなしだったドアがこんこんとノックされた。マフィアスが立っていた。シリアスな表情をしていた。


「サイカ…………マウスが死んだ」

「えっ」


 サイカが隣の部屋に戻ると仰向けにぐったりとしたマウスの死体が映し出されていた。気を落としたサイカにケインが見解を告げた。


「一度できた細胞壁を壊すのはやっぱり大きなリスクかもしれませんね。どんな薬物を使うとかいう話じゃないです」

「細胞壁を取っ払うって発想自体が間違ってるのかもな」


 重たい空気のなか、イツキが部屋に戻ってきた。


「ごめん、忘れ物……ってどうしたの。葬式みたい」

「ううん、何でもない」


 サイカはそういって白衣を脱いだ。気晴らしが必要だと思った。


「今日はもう終わりにして、みんなで飲みにいこうか」

「いいね、そうしたいかも」


 ケインがつけ加えた。植物くんも来る? と問いかけると別に、といったので連れていくことにした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る