7 緑化手術とサイカの研究
彼が彼自身の問題だと受け止めるのには適切な説明が必要で、もしかしたら彼はそれを知らないままにブラジルに渡ってきたのかもしれない。サイカは実際にそうしたケースがあることを知っていた。
「キミは緑化手術がどんな手術か知ってたのかな」
「葉緑体を埋めこむ手術だろ」
サイカはふてぶてしく答えたイツキに向けて図解し始めた。
「緑化手術ってのは約百年前にスウェーデン出身のヒュランデル博士が考えた技術で。人間に光合成をさせようという考えのもとに、地球温暖化の温室効果ガスを削減する目的で開発された」
そういってラフな似顔絵を描く。イツキがふざけてんのかと文句をいった。もちろんふざけてなどいない。
「キミのいうように人間の皮膚に葉緑体を埋め込む手術で、もとを正せば美容医療の発想なの。たとえば若返りするために肌の再生医療ってのがあるでしょう、セレブとかがやってるやつ。それと理論は一緒」
サイカはすっと線を引いてそれを何層かに描き分けた。
「人の表皮は基底細胞という表皮の一番下の組織で作られる。だから遺伝子的に弊害のない患者自身の基底細胞を採取して、その細胞内に葉緑体を埋めこむの。で、日数をかけて葉緑体の入った基底細胞を培養する。それを患者の基底部に注射で戻すと、基底細胞は自身が増殖するという性質を持っているから、自然と移植された部分の周辺で葉緑体が増えていく。以上が緑化手術の簡単な説明ね」
イツキは不服ながらも黙して聞いているようだった。
「さっき話したように何らかの因子で植物の全能性が現れ始めるとまず基底細胞からおかしくなる。基底細胞に全能性の兆候が表れるのね。皮膚はターンオーバーで徐々に押し上げられて表皮へと移動する。だから本当は大元の基底細胞から観察するべきだけれどそれは手間だから、簡易的にいつもは一番上の上皮細胞を観察しているのね」
リリンが背を向けたまま、さらさらと手を振っている。サイカは表皮の断面図に長丸を追加した。
「移植された葉緑体はたまに人体で上手く増殖しないことがある。たぶん動物細胞と植物細胞では環境が違うからだとか、免疫系が葉緑体自体を排除するからっていわれているけど。
それを解消するために開発されたのが緑化促進剤で、政府で承認されている医療用の促進剤が純度九十九パーセントなのに対し、違法のものでは組成がまったく別のものが含まれている。その物質が悪さをするのね。本来は葉緑体の増殖を助けるためだけの薬が他の組成にも及んで科学的な悪さをする。すると本来は発現しない根だったり、樹皮が形成されるというわけで……」
「それが全能性ってこと」
「そう」
イツキは何かが引っかかったようで怪訝そうにした。
「どうして成分が違うものが作られてんの」
「ああ、それはブラジル政府が特許を取ったからだよ」
リリンの言葉にイツキは一瞬思考が止まったような顔をした。話の流れのなかじゃ直接の因果関係がくみ取れなかったのだろう。ちょっと宇宙的な会話だった。
「まあ、ここからは難しくなるからあんまり話しても」
「なんだよそれ。命に係わるんだろ」
ふー、と吐息してサイカは引き出しから小さなねじ蓋つきのスクリュー缶瓶を取り出した。言及するのもはばかられることだが、当事者としては知っておきたいのかもしれない。なかには白い粉末が入っていた。
「これが違法促進剤を砕いたもの。先進国やブラジルじゃ当然認可されていない。内実は植物ホルモンを複数種混ぜたものなのね。葉の成長に作用するものだったり、根の部分にだけ作用するものだったり、花や茎の成長に作用するもの様々な種類がある」
植物ホルモンは植物の成長にとっても大事な成分だ。農業でも技術的に用いられるし本来は怖いものでも何でもない。サイカはいくつか構造式を書いてその一つに丸をつけた。
「政府の促進剤はサイトカイニンっていう植物ホルモンの一種を葉緑体だけに働くように特異的に化学合成したもの。でも違法促進剤にはそれとは関係のない不特定多数の植物ホルモンが混じっているから使用すれば、根とか葉とか全然目的でない組織まで発現しようとする」
「それが不純物ってことか」
「そう」
「全能性が現れやすくなるってのは簡単にいうと全然関係ないホルモンを摂取して、植物細胞が刺激されるから」
「現れやすい、って要するに摂取していなくても全能性の可能性があるってことか」
「あらゆる可能性は捨てきれない」
サイカはデスクに腰かけて手でジェスチャーした。すでに続ける気はなかったが。
「ちょっと細かいけど特許の話も聞く?」
「いや、それはいい」
イツキは心なしか気落ちしたように視線を落とした。実験室をドアの方向へ向けて歩いていくその背中に言葉を投げかけた。
「植物くん」
イツキはふり向かずに足を止めた。
「いろんな不安があると思うけどキミは病気じゃない。少なくとも今は。朝はちゃんと起きたらベランダに出て光合成して、ご飯も過剰じゃないくらいに食べて、気分が悪くなければ少し散歩もして。あとわずかでも体調が悪いと感じたら連絡を。わたしはすぐ隣にいるから枕元の呼び出しボタンを押してくれれば……」
ドアが閉まってセキュリティの音がする。イツキは返事もせずに出ていってしまった。
「話し過ぎたかな」
「よく分からなかったんでしょ」
「そうだろうか、分かってる気がしたんだけど」
恐らく理解してショックを受けた。たぶん彼は大小色々なことを隠している。酸素中毒のことも伏せていたし、違法促進剤だって場所が場所なら簡単に手に入れられる薬だ。
リリンが栄養剤を選択して想定マウスに与えた。マウスの何匹かはすでに弱り切って自ら栄養摂取することができなくなっていた。
「ショックだったんじゃないかな、植物くん」
リリンがぼやいた。
「私たちはその全能性の患者さんを救うために研究しているんだよって。何でそういうことがいえなかったんだろう」
「カッコつけがはばかられる時もあるからね」
そうかもしれない、実際に救えることより救えないことの方が多いのだ。リリンがマウスを見て笑みを浮かべていた。
「ねえ、この子起きたよ。ご飯も食べてる」
固形の餌をかみ砕く音がパソコンから聞こえている。近くに排泄物もあって、それをリリンがピンセットで採取した。たった一匹だけ元気なんだ、どうしてだろうとサイカは呟いた。
「葉緑体の死骸もあるね」
リリンが崩壊させたフンを拡大しながらいった。
「皮下組織がフンに混ざってるってことかな」
「あり得ないことを仰ってますね。サイカ先生」
「分かんないよ、ケインくんにお伺い立てないと」
理論を構築できなければ論文にはならない。論文にならなければ上は説得できない。優れた薬剤を見つけても製剤化にこぎ着けられない。科学はいろんなことが難しいんだ、サイカは心でつぶやいた。
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