5 想定マウス
問診が済むとサイカは研究の準備を始めた。戸棚と引き出しからスパチュラや試薬の入ったスクリュー缶瓶を取り出して並べた。それを空き箱に詰めていく。隣の実験室へ移動するためだ。イツキが不安そうに問いかけた。
「病気なの、オレ」
「ああ、違う違う。そういう意味じゃない。でも確認するから腕出してね」
リリンが粘着テープを持ってきてイツキの腕に触れた。
「上皮細胞を採取させてもらいます」
「何のために」
「細胞の病気じゃないか調べるため。痛くないから」
袖をまくり上げた上腕部に粘着テープを張り付け、べりりとはがす。リリンはそれを持って実験台の顕微鏡のところへいった。
イツキは手持ち無沙汰で椅子に腰かけたようだ。特に会話することもなかったけれど、のぞき窓のあるドアのほうに目を向けていたのでサイカはああ、実験室と説明した。
「ここは理論の場で隣の実験室と繋がっているの。ほんとは器具もたくさんあるし、換気用のドラフトもいるから。ここにあるのはデスクとネズミと顕微鏡だけ」
いわれてイツキが窓際のネズミが飼われているガラスケージを見た。元気な白いネズミを三匹飼っている。
「ここ動物実験もするんだ」
「まさか、使用するのはあくまで想定マウス。彼らは命を扱っていることを忘れないための同居人よ」
そういってサイカはパソコン画面を見せた。マウスのリアルタイム動画が映し出される。
想定マウスとはコンピューター上で飼っている架空の試験動物である。二千四十年代に動物実験が制限されて以降、マウスを始めとする試験動物の総合的な生体データバンク企業が台頭し、医療の分野であらゆる成果を発揮していた。たとえば実験室レベルで使用されるのは想定マウスだし、多少値は張るがウサギやブタのデータも使用することがある。その後、実際のマウスで試験がされて、ようやくそのステップを踏んでからの治験ということになる。医療は多角的に進歩していた。
「想定マウスって金がかかるんでしょう」
「払うのはブラジル政府だし、頭数が少なければ微々たるものよ。本物を犠牲にするよりずっと気が楽でしょう」
「植物くん興味あるんだ。可愛いよね」
「パソコン上の動物にそんなこと思えない」
サイカがふっと笑った。
「想定マウスは企業がもととなるマウスをスキャニングして作成するの。体調、体格、性格、細胞データ、行動パターン。あと細かい毛なんかも。生きてるマウスがモデルだからそのうち愛着が湧くようになる」
拡大するとつるんつるんに反り上げられた皮膚のシワまでもがくっきりと浮かんだ。
「想定マウスに仮想投薬をするとそれ相応の反応を示す。だから未承認の薬を検証するのに非常に有効で信頼度も高い」
「CGのマウスにCGの薬を投薬するのか。まるでゲームみたいだ」
「面白いでしょ」
リリンが明るい調子でいった。
「全然面白くない」
「ええ」
そうかなあとリリンはぼやいている。
「マウスくんたちさ、元気ないんだ」
「一部体毛が無いけど」
「剃ったの。実験に分かりやすいように。可哀そうだけど仕方ないよね」
イツキはああね、というような顔を浮かべていた。初対面の時にサイカが毛を刈らないと伝えたことを覚えているらしい。サイカはほくそ笑んだ。
マウスの表皮は濃く緑色に染まっている。これは表皮細胞に葉緑体が過剰に含まれていることを示し、植物としての兆候を見せ始めていることが原因だった。
「コイツらこそ病気なのか」
「うん、まあそういうことね」
サイカはうなづいて表皮をクリックして細胞を拡大した。細胞内には大きな気泡と筋が生じていた。説明するように重たい口を開く。
「ここのマウスたちは全能性に罹患しているの」
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