3 お隣の植物くん
こぽこぽと聞こえるのは呼吸の音だ。そこら中で聞こえている。自分以外に生命はいないようだが、目に見えるものがすべてとは限らない。あ、ここ細胞のなかだなんて馬鹿な想像をしてみる。そうきっと細胞のなかはごく静か、あちこちでエネルギーの産生が行われているのだろうがそれは人に感じられない。
仰向けになって手を胸元で組んで空を見た。エメラルドの海はきらきらと輝いてまるで太古の海のようだった。そのころは原核生物ばかりでまだ真核生物は存在さえしていない。世界の形状はずいぶんと複雑に、科学は神様の用意していた倫理さえ超えてしまった。
「誰がこんな世界作ったんだろ。人間かな」
呟きが自然と漏れていた。深海から花のように手がいくつも伸びてくる。
まるで聖母に抱かれているような心地だ。深部で声がする。
——サイカ・パラレル、サイカ・パラレルよ。
——ヒトを救いなさい。間違いを犯した一人でも多くのヒトを救いなさい。
——ヒトはヒトであることを捨ててはならない。
「サイカ先生」
ばっと目を覚ますとベッドの上だった。首筋は汗ばんで夜中の十一時過ぎ、まだ日をまたいでいなかった。荒い呼吸を繰り返し、心臓がバクバクと波打っている。ずいぶん息を詰めていたらしい。
サイカは冷蔵庫へ炭酸水を取りにいき喉を潤した。夢を思い出す。最後に呼んだのは間違いなく彼の声。やっぱり執着してたのかと視線を落とした。彼の言葉が頭から離れない。最後に交わした会話も初めて出会った日のことも。彼は未熟な自分を「サイカ先生」と呼んでくれた。
ブラインドを開けて裸足でベランダに出てみると澄んだ夜だった。他部署の階層には明かりがついて何か所か泊まりこみで仕事していたが、製剤開発部はほぼ消灯して実験器具を置き去りにみんな眠りについているようだった。
がらっと窓を開ける気配に驚いてふり向くとイツキが隣のベランダに出てきた。そうだ、今日から彼が住んでいるんだった。一瞬忘れていた。
彼は着ているものが昼間と同じだから起きていたということだろうか。こんな時間に。まあ、でも十一時かと唇を引き結んだ。ダメ、泣きそうだ。
「緑化手術を受けた人間は普通のヒトより性質が不安定なの。ちゃんと睡眠をとって食事して規則正しい生活をしてもらわないと」
「解放された時間をどう利用しようとオレの自由じゃないんですか」
「規定はないね」
相変わらず好きになれないな。顔も見たくない。下から煽り上げてくるビル風を浴びると冷たさが眠りでこもっていた熱を奪い去ってくれた。熱帯夜だなんて言葉はこのごろ聞かなくなったな。それもまた科学の功績だ。出来ないことばかりじゃない。部屋に入ろうとしたらイツキが鮮明に声を繋いだ。
「出来るだけ夜は起きてたいんです」
「夜型なの?」
「気がつかないの、あんた研究者でしょう」
言葉の意味を量りかねて何がと問いかけようとしたら彼がこういった。
「オレ、夜だけ人間になれるんですよ」
静かな夜にフクロウの鳴き声がしている。しばらくいわれた意味を考えていた。夜だけ人間になれる。夜だけ人間になれる。
「そうね、キミが純粋な人間かっていわれたらとても怪しいけれど、それでも種族を聞かれたらホモサピエンスってわたしは答えるわ」
「あんた勉強のし過ぎでバカになったの?」
「バ……」
「オレたちが陰でなんていわれているか知ってるでしょ。植物人間って。日中、光合成して酸素を吐いて、夜だけは二酸化炭素を吐く。これが人間のやること? ほとんど植物と変わらないんだぜ」
サイカは流麗につむがれた嫌味に目をすがめた。彼は昼間大人しかった。しゃべれないんじゃない、しゃべらなかったのだ。
「とうとう化けの皮が剥がれたわね」
「素ともいう」
「キミが素かどうかは知らないけど、夜満足いくまで好気呼吸して人間であることを確認できたら、ちゃんと明日からの研究には協力してもらうし。泣いてもわめいても期限までこの実験棟からは出さない」
「誰が泣くんだよ」
彼がふんっといって去ろうとするので背中に声をかけた。
「植物くん」
彼はくるりと振り向いて目を丸くしていた。優しく言葉が出たと思う。
「ごめんね、被験者のことはそう呼ぶことにしているの。これはわたしたちなりのルールで……」
「あっそ」
イツキはそれだけいうと部屋に入ってしまった。
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