1 一匹のマウス
中南米の島々を経由する海底トンネルを抜けると曇天が広がった。高速トレインはベニコンゴウインコの群れを眺めてさらに南下する。左右に眺望するのは勢いよく育ったミックスグリーンの原生林だ。壊滅的だった地球環境のゼロ期を過ぎてからずいぶんと生い茂った。
車内は自由席も含めてほぼ満席で、夏休暇を利用して家族旅行から帰ってきた人々も多い。雪焼けの遊び疲れの顔を眺めて北半球は冬だったと意識する。スナック菓子の香りを振りまいていた子供たちはふいのアナウンスが鳴ると速やかに片づけを始めた。乗りなれているのだろう、席に着くとボックスから黄色いものを下ろし始める。
サイカ・パラレルは伏した目で腕時計を確認すると視線を上げた。じきに到着する。
『プランティアへようこそ。プランティアでは酸素濃度が上昇しますので環境対応のためにガスマスクを装備してください』
乗客たちはアナウンスとともに座席の上から垂れてきた黄色いガスマスクを装着し、組成変化に対応する。神経質に装着している人も見受けられるけれど、ほとんど劇的効果はないだろう。サイカは肺を心地よく満たしていく空気を吸いながら、ひと言こぼした。
「大げさね、酸素の無駄よ」
車両が駅に滑りこむと横たわる巨大構造物が姿を現した。先端科学都市プランティアだ。白のザトウクジラを模した豊満な胴体と南端の雄大な尾ひれは小都市一つほどの人口規模を誇る。
大げさな外観をブラジル政府の一種の顕示欲ととらえる輩もいて、建造されたときも世界中でずいぶんと話題になったらしい。いい服を着た子供たちが我先にと背後から駆けていく。
「プランティアに着いたよ」
「早く降りろ」
ホームでは入れ替わりの出発便のアナウンスが鳴っていた。
サイカは人の混みあう検問所で特別ゲートを使用すると彩光認証した。ポルトガル語の電子音が応対する。
『確認が完了しました。おかえりなさい』
検問所を通り抜けるとホームを貫くエスカレーターに乗った。尾ひれの先端がそこでようやくお目見えする。天をいただくように伸びた先端は太陽の光をかすめていた。
サイカは左右で荷物を持ち換えて水平線に目をやった。厚い雲が西から渡りアマゾン川の流域に大きな影を作っていた。
荷物をプランティア内の部屋まで運んで、着の身着のままに白衣を羽織って実験棟へと向かった。サイカの所属する研究チームの部屋は実験棟の端、部下のほとんどは休みだがリリンが出勤していた。サイカはパソコンを操作すると、肩までのフルレングスの金髪を揺らしてあきれ顔を作った。ふり分け済みのメールが山ほど。ほとんど講演依頼だとか特許関連だろう、あとは嫌がらせが少し。
「お帰り天才サイカ先生。待ってたの、仕事が」
「文脈がおかしい。待ってたのはあなた? それとも仕事?」
「仕事」
リリンがそういって既存のデータファイルを開かせた。勘弁してよ、せっかくの休暇の余韻が台無しじゃないとサイカは苦言を呈してデスクトップを見た。試験中のマウスの皮膚組織が表示されていた。
「これってなんとかならないかな。試薬がまったく効いてないってことだよね」
「うーん」
サイカは画面をまじまじと見つめた。自身が休暇前に生成した物質をリリンが先んじて仮想投薬してくれていたのだ。植物の全能性が進行しつつあるマウスの皮膚のターンサイクルを行うべく試薬を塗布しているのだが、どうにも経過が良くない。十匹のマウスのうち一匹は死亡、五匹は植物化が進行して歩行困難になり、もう三匹も病状が良くない。
残る一匹はと…………確認して、んーとため息をついた。
「キミはのんびり屋さんかな。マウスくん」
サイカはパソコンのなかで鼻を木くずにつっこみながらすやすやと眠るマウスに向けて視線を送ると黙考した。ほとんどが否定的な反応を見せるなかで、もしかすると彼だけが肯定的に反応しているのかもしれない。耐えているならばこれってむしろ希望はあるってことかしら。
「ごめん、アイデアないから考える」
サイカはくるりと一周イスを回すと山積したメールの処理から始めた。
食堂のオープンスペースで遅めの昼休憩をとりながらリリンと会話した。昼時を少し外したのでそれほど混雑していない。今日の議論は地球環境について。安心して、わたしたちも専門家じゃないから難しいことなんて知らない。
「大体、地球温暖化が問題だっていい始めたのは誰よ! だから必死で研究してるっていうのにプランティアはマッドサイエンティストの集まりだなんてあんまりだわ。温暖化は解消されている、みんなの深呼吸で確実にね!」
「わたしに向けて怒らないでってば」
「偏見者がいるのも事実だわ、人道にもとることもしている。でも我々は確実に生き延びているのよ。生きている。年間平均気温だってマイナス二度を達成したし、温暖化による間接的な死者はずっと少なくなった。誰のおかげよ」
「あなたのおかげ」
どぞ、と手を下げられたので思わず払い除ける。
「みんなのおかげ!」
リリンが開いたグラスを口元に当てさせて「深呼吸、深呼吸」と茶化した。
「馬鹿にしないでよ。わたしは酸素なんて吐かない」
サイカはふんと口先を明後日の方角に向けてそっぽ向いた。
先日までの夏休暇を利用して北半球の化学会に参加し自身の多大な研究の成果を述べて、それで称賛されるかと思いきや従来型の研究者たちの前で大恥をかかされた。お若い研究者ですね、脳内酸素は足りてるかしらだって。そちらは研究費用が足りてませんものねって嫌味で返したんだけれどね。
明るいアナウンスが口論を割るようにふいに腕時計型端末から響いた。
『ご来客です。サイカ・パラレル先生はエントランスまでお越し下さい』
サイカは時計の応答ボタンを押して腕を下ろした。
「さてと行くか」
「新しい人、今日からだったね」
「どうしてケインくんこんな時に休み取っちゃうかな」
それだよ、それとリリンがけらけら笑っている。
トレーを片づけてオープンスペースを出ると、中央のエスカレーターに乗った。顔見知りの研究者が後ろに乗り合わせて互いの近況を交換し合った。プランティアではよくあることだ。
様々な人種がだだっ広いエントランスに数えきれないほどいて、あちこち視線を振ってふと目を留めた。細身の若いアジア系の青年がピンクの革張りのソファで待ちくたびれていた。
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