第11話 想いは錯綜する

 慧斗と夜翅が帰宅してから暫く。各々がリビングでくつろいでいたところ、けたたましい音が廊下側から聞こえてきた。あまりに大きな音に、その場にいた全員が一斉に廊下に通じる戸を注視する。その合間にも、苛立った足音がどんどんと近づいてきた。

「どうしてあいつを一人にした」

 乱暴に戸が開く音がしたと思う間も無く、殺伐とした雰囲気を纏ってリビングに足を踏み入れた桜祈が怒りの滲んだ低い声で言い放った。誰に対して苦言を呈しているのかとそれぞれが彼の視線を追い、その先にいた慧斗の訝る姿に嵐の到来を感じる。殺意すら込められた怒気に産毛が逆立った。与えられたばかりの神具に手を伸ばした者もいたほどだ。

「姫の意を汲み、退いただけです。《天の姫》陣営はお優しい方が多いので、数日は警護につかなくとも殺されないと判断しました」

「おっと、それは皮肉かい?」

「純然たる事実です」

 空気を軽くするためか、すかさず揶揄する玲を軽くあしらった慧斗が手元の本を閉じて端的に言う。

「それで、何か問題が起こりましたか」

「――ナオと接触した」

「っ!?」

 動揺という名の激震が走った。弾かれるように立ち上がる者、驚愕の声を漏らす者、反応は様々だったが、言いたいことは皆一致している。

 なぜ、《天の姫》ではなく《地の姫》にと。いや、それ自体はおかしな話ではなかったのかもしれない。他の《天の姫》側の神の一族が接触したとなれば、《地の姫》の隙を狙ったただの襲撃を行ったのだろうと考えるからだ。その場合、タイミング悪く護衛を外れた慧斗の判断ミスを桜祈が怒っているのだと納得もできる。

 しかし、ナオが、となると話は別だった。《天の姫》の従者に推されながらその道を拒んだ彼が積極的に《地の姫》を襲いにいくとは考え難い。だからと言ってその可能性をゼロと捉えるには、彼は姫への敬愛だけは持ち合わせている。

 ナオの真意がどこにあるのか。杳として知れないために、桜祈からもたらされた報告に誰もが驚愕を示すしかなかった。

「夜翅」

 強張った顔をした玲が、表情を失くした夜翅を見る。真意を問う響きに、水を向けられた夜翅がぎこちなく首を振った。

「心当たりは、あるんだ。でも、確信がない」

「それでいいから教えろよ」

 間髪入れず重ねて答えを催促する玲に夜翅がのっぺりとした無表情で他の面々を見渡した。返る頷きに、観念したように肩を落とす。

「……皆は伝承御伽話を、記録をどこまで読んでる?」

 話はそれを確認してからだと夜翅が言う。

 里に遺された記録。最初それは、石板に記されていた。里の外れにある祠を保管場所として、歴史を学んだりする時にのみ取り出されていたそうだ。やがて時代が下り、静谷ナオが十歳を迎えたその日、写本をしようと言い出した。祠まで都度出向くのでは効率が悪い、と。一理あると判断した年長者たちによって、直ちに書き写された記録は各家に一冊配布され、大切に本棚に置かれるようになった。里から持ち出してはならない決まりこそあったが、石板の許に訪れずとも、手軽に歴史を、神話を読めるようになったのは多くの者にとって有り難いことだった。

 序章は、《天の姫》の遺言――戒めだ。姉妹を成してはならないという、最も基本的な言葉が大切そうに綴られた。

 次に、神話として語り継がれている内容が記された。《天の姫》たちの顛末までざっくり大枠だけを伝えるそれは、頑是ない子どもでも覚えられる言い回しが採用されていた。

 そしてその次の章から、神話にない話が書かれた。時系列も登場人物も雑多な記録だったが、聖戦に尽力したと言う三柱の神の顛末を書こうとしていたのだと、一読したら読み取れた。

 ナオに関連する記録があるとすれば、それは彼が名前をあやかった神だけだ。

 さてどのような記録があったかと、各々が記憶を掘り起こす。

「其は時を統べる神。悠久を知り、生きる者」

 歌うように稀紗羅が《時空の大神》の段冒頭を呟く。透が頷いた。

「里の者なら誰もが知る文句ですね。人智を超えた神の中でも特異だった大神ナオを讃える言葉。彼の偉業も栄光もたくさん記されていますが、一番印象に残りやすいのは《天の姫》の葬儀に参列しなかったことでしょう」

 一説によれば穢れで神性を失い、輪廻転生の輪に還るしかなかった姫を憐れんでのことであると伝えられている。仕えるべき姫に先立たれ、命の儚さに嘆き悲しみ、その悲哀の強さから姫の死を受け入れられず、遺体を直視出来なかったのだろうと後世の者によって解釈されたのだ。

「姫の葬儀に彼が参列しなかったのは、本当だと思う」

 一言一言、噛み締めるように夜翅が紡ぐ。

「記録にも書かれているけど、彼は《天の姫》に誠実な神だった。そもそも父神にあたる《時の大神》が彼女の熱心な信徒だったみたいだからね。従者でこそなかったけど、遊び相手として接することが多かったんだよ、たぶん」

「たぶん?」

「そう、たぶん」

 言葉尻を捉えた玲に夜翅は肩を竦めた。

「年こそ離れていたものの、大神ナオはその付き合いの長さに比例するように《天の姫》からの信頼も厚かった。《地の姫》亡き後、姫に神具の封印を一任されていたのも、その証拠って言えるんじゃないかな」

 封印を施すにも解くにも相応の力が必要だ。有力な神は他にも多くいたが、その殆どは血の穢れに染まり、不死を失った。神としての側面が少なくなるほど、力は衰える。大戦を経てなお戦前と変わらない神性を保持し続けていたのは、自らの身体の時を巻き戻して不浄をなかったことにできる大神ナオだけだった。

 《天の姫》が古くからの付き合いであり、神のまま在り続けた大神を頼るのは、当然と言えた。

「まあ、記録されてないけど、候補にあがった神は一応他にもいたんだ。ただそれは今関係ないから割愛するね」

「……めちゃくちゃ重要なこと言わなかったか?」

 硬く強張った声で稀紗羅が突っ込んだ。あはは、と無表情を崩して苦笑いを浮かべながら受け流した夜翅に桜祈が侮蔑の視線を据える。

 神、と繰り返した慧斗が閉じた本の表紙を撫でた。

「記録に度々出てくる猫。それが、その神でしょう」

 しん、と場が静まった。桜祈ですら珍獣を見つけたような顔をして慧斗を――否、その手にある本を凝視している。

 夜翅が恐る恐る震える指で慧斗の持つ本を指し、恐々とした様子で口を開いた。

「まさかそれ、記録?」

「はい。読みたいですか?」

「う、ううん。っていうか、えっと、まさか家から持ってきた……の?」

「それ以外にありましょうか」

 信じられないものを見る目で凝視されているにも関わらず、慧斗は至極当然な顔をして言い切った。啞然とした面持ちでふたりのやり取りを聞いていた稀紗羅ががっくりと肩を落とす。まじか……と呻く彼の気持ちに、慧斗を除く全員が痛いほど共感を覚えた。

「持ち出し厳禁だって覚えてるよな?なあ?」

 半ば縋るように問われた慧斗が首を傾げた。存外幼い仕草は、彼の精神が年齢にそぐわず未成熟である証左だ。

「はい。ですが、自分には親類縁者がいませんのでよいかと。また、姫が神話をご存知でない場合、譲渡するのが最善だとも思っていました」

 滔々とした丁寧な話し方や言葉選びに錯覚するが、慧斗は別に真面目な性格をしてはいない。明け透けに言えば、従者の中では一番不真面目ですらあった。使命に忠実すぎる慧斗は、己が仕える姫のためなら簡単に規律を乱し規則を破る。そしてそのことに罪悪感を抱いたりはしない。

 現に今もそうだった。里の者たちが守ってきたルールを破っておきながら悪びれた様子は欠片もない。かと言って開き直っているわけでもないからタチが悪かった。慧斗は慧斗の信じる通りに行動を起こしているだけだとわかるだけに、感情の矛先を向けるべき場所を見失う。

「そりゃあ姫君の名前を出されたら口煩い奴らも黙るだろうね。けど思い切りが良すぎだよ」

 呆れたように玲が笑う。

「で?猫って何だ?」

「…………玲。君、あまり神話を読んでいなかったんですね」

「うるさいな。仕方ないだろ。オレは姫君に関する記載以外に興味ないんだ」

 心から憐れんだ様子でしみじみと言う透に玲が吐き捨てる。

「……………………慧斗」

 逸らしたはずの話が逸れなかったことを恨むように夜翅が慧斗を睨んだ。彼にしては珍しく敵意の籠った声音に慧斗が僅かに戸惑った様子で首を傾げた。

「あなたに関連する事柄を糺したわけではありません。私の関心は他所毎になく、身命と共に姫に捧ぐもの」

「……そうだね」

「況してや玲の猫に対する知識欲は、無知故のもの」

「おい」

「誰もあなたを誰何しない。あなたが従者である限り」

「………………」

 合間に挟まる声を全て無視して言いたいことだけを喋り終えた慧斗に夜翅が黙り込んだ。奇妙な沈黙の理由を、この場にいる全員が知っている。

 氷哉夜翅は、ある日突然、里に現れた。正しくは、里に住む最年長のお爺さんが何処からともなく連れてきた。既に発現していた力から風の神の血族であり、相当血が濃いか先祖返りを果たしたかだろうと推測はできたものの、彼がその歳になるまで何処で育ったのか、本人も連れてきた当人も口を割らなかった。

 ただ従者足り得る、それだけの理由で殆どの者が表面的には夜翅を受け入れた。表立って異論を唱える者には、《天の姫》の生存を最重要視する者たちが筆頭となって説き伏せた。

 それほどまでに、当時から夜翅の強さは群を抜いていた。

 夜翅は圧倒的な実力を誇るだけではなかった。他の者よりも神代に詳しく、伝承に記されていないことも、記されていることも、答えられない質問などないのではないかと思うほど網羅していた。

 それがわかっているから玲も初手で彼に話を振った。しかし、ではなぜ夜翅が人並み以上に神代について詳しいのかと言われると、誰もその答えを持ち合わせていなかった。直接夜翅に尋ねる勇気もない。それが見た目は人畜無害な優しげな風貌の少年にとって触れられたくない領域の話だと肌で感じられたからこそ、共に従者に選ばれた者たちも口を噤んだ。畢竟、姫を守る分には知らなくてもいい点だったのも大きい。

「慧斗の指摘は間違ってないよ。猫は神のことだ」

 集まった視線に話を逸らすことを諦めたのか、夜翅が降参とばかりに話し出した。

「ざっくり説明するとね、神代には誰からも嫌われる一柱の神がいたんだ。その神は死を司っていて、だからかな、赴くところはいつだって夥しい死体で埋め尽くされていた。知っての通り、神は不浄を嫌う。神性を損なうからだ。実際その神が直接手を下したかも定かではなかったけど、彼の行くところ居るところ、あまりにそういう光景が続くものだから、次第にその神の名前を呼ぶ者はいなくなって、そのうち皆、猫、と呼ぶようになったんだ」

「どうして猫だったんですか?」

「一度だけ《天の姫》がそう呼んだから、かな。気まぐれな猫みたいだね、って」

 不可解そうに尋ねた透に夜翅が淡い笑みを浮かべた。知りもしない遠い昔を懐かしむ目をして、過ぎ去った時を掴もうとするように、その声は語りが進むほどに穏やかさを増していく。

「話を戻して、繋げるね。《天の姫》と親しくなったその神は、候補にこそあがったけど選ばれなかった。不死を保ててはいたけど、やっぱりね、死に近すぎたんだ。だから、最終的に大神ナオが大役を任された。それは間違いなく最善の手だったけれど、同時に悪手でもあった。――ううん、違う。それが《天の姫》の慈悲だと気づけなかった当時の者たちの落ち度、が一番言い得て妙なのかも」

 漸く話が本筋に入った。問うた玲も、他の従者も、背筋を正して夜翅の次の言葉を待つ。桜祈だけが近くの壁に寄りかかって目を閉じた。耳を貸しているとも思えないその様子を、夜翅も特別注意したりはしない。

「大神ナオは《天の姫》の葬儀に参列しなかった。言うまでもなく、彼が誠実だったからだよ。自分の心に嘘をつくことを良しとしなかった。ただ一人内情を打ち明けられていた《天の姫》は、彼の恋路をきっと憐んでいたんだ。だから、神具を託した。形見分けのつもりだったんだ」

 腹を括ったからには、尋ねられた問への答えを包み隠さず開示するだけだ。夜翅は今まで話したことを連ねながら、自身の推測も交えつつ知り得る限りを共有していく。

「猫は怒った。こんな顛末を迎えさせるなら、《天の姫》に恋した瞬間拐かしてしまえば良かった、と。大神ナオをそれはそれは恨んだそうだよ。掛け値なしの怨嗟は呪いになって、大神ナオを縊り殺した、なんて嘯かれる程度にはね」

「タンマ。全然ついてけてない」

 稀紗羅がこめかみを抑えながら白旗を振った。夜翅が他の面々を見渡せば、怒涛の情報量に既に玲は理解を放棄した素振りで苦笑った。慧斗はわかっているのかいないのかよくわからない顔で手元にある本をじっと見ている。桜祈はそもそも聞いていない。では透は、とこの中で夜翅に次いで伝承や歴史に明るい彼を見れば、魚の骨が喉に引っかかったような顔をして首を傾げている。

「《天の姫》の伴侶は別にいましたよね」

「そうだよ。記録にある通り、光の神――透の系譜で一番有名な方が《天の姫》の伴侶だった」

「…………でも怒りを買ったのは大神ナオだった?」

「うん。猫は、愛されなくて良かった神だから。

 要するにね、と。夜翅は公然の秘密ごと、それを伝える。

「大神ナオは、いつからか《地の姫》に傾倒していたんだ。そしてその記憶を、想いを、何度転生しても忘れていない。いや、絶対に忘れさせないんだ」

 静谷ナオは、時の力を受け継ぐ者。その魂がかつての大神と同じであるかは定かではない。ただ、先祖返りをしたがために強大な力を持つ彼は、時に不思議な言動をとる。まるで、神代に生きたその神の記憶を――仮に彼の神が幾度か輪廻転生を果たしていればその記憶もすべて――丸ごとそっくり受け継いでいるとでも言いたげに。そしてそれは、本当のことなのだろう。そうでなければ説明できないことが、彼には多すぎる。

 誰もが知っていて誰もが口を閉ざした秘密に触れた夜翅はつきりと痛んだ胸を宥める。

「誰一人本人に直接是非を問うことはありませんでしたが……ええ、彼の記憶に関しては概ね私も同じ意見ですよ」

 気遣わしげに透が言葉を重ねた。説明役を押し付けている自覚のある彼は、記憶を探るように慎重に言葉を選んでいる。

 何かしら根拠のありそうな素振りに桜祈が透を睥睨する。彼の関心の基準は《地の姫》が中心のため、非常にわかりやすい。

「回りくどい。手短にまとめろよ」

 しかし、無言の攻防が始まる前に痺れを切らした玲が結論を急いだ。稀紗羅が救われたように胸を撫で下ろしているのがおかしくて、夜翅は噛み砕いた表現を探した。

 易しくて、咀嚼せずとも味わえるお粥のような表現を。

「つまりね、ナオさんは大神ナオの想いに引きずられているってこと。かつて大神ナオは《地の姫》を特別視してしまった。それが恋だったのか、愛だったのか、憧れだったのか、それとももっと別の何かだったのかは知らない。はっきりしているのは、最後の最後に忠誠を違えたということ。己の心に従って、《天の姫》の葬儀に欠席したということ。嘘をつきたくなかったんだろうね。その感情の奔流を、ナオさんは神の一族の力を覚醒させた時に受け継いでしまったんだと思う。だから彼は《地の姫》に会いに行った。大神ナオが焦がれた相手に」

 シン、と場が静まり返った。

 夜翅は、そう大して話したこともない静谷ナオを思い出す。

 薄れゆく血の系譜の中で、先祖返りを果たした大神ナオの末裔。稀有で強大な力を持つ故に老人たちから本物の神のように扱われる青年は、いつだって遠く彼方を見ていた。《天の姫》の従者を辞退した時も、信託が下りた時も、夜翅と初めて会った時ですら。

 遠く、遙か彼方、此処にはいない誰かを追い求めていた。

 その目に映るのが、かつて大神ナオの心に深く疵を残した相手であることは説明されるまでもなかった。

「――っ、でも、あいつは二代目だ!初代じゃない!」

 稀紗羅が叫ぶ。ほぼ一年、同じクラスで同級生として《地の姫》と過ごした彼が堪え切れなくなった胸の内を血を吐くように吐き出した。

 ずきり、と。先ほどより強い痛みを訴える胸を、夜翅は意識の外に追いやった。吸う息が肺を刺す。痛い。痛くて痛くて、悲しくなる。

「そうだね。僕たちは彼女を姫と呼んでいるけど、当然、当代の姫たちはかつての彼女たちではない。姉妹があるたびに、と《天帝》は言った。生まれ直すたびに、じゃない。だから、受け継いだのはその立場だけ」

 神性を失った姫たちの魂は人間と同じように輪廻転生の輪に還った。彼女たちが何者かに生まれ変わる可能性は十分にあるだろう。だが、それが再び姫として生まれてくるかどうかは誰にもわからない。動物かもしれない。植物かもしれない。もしかしたら、夜空を彩る星として誕生しているかもしれない。

 可能性だけは、無数にあるのだ。

「…………まあ、なとは、思うけど」

「夜翅?」

「何でもない」

 とにかく、と夜翅が再び場を仕切り直そうとした。

 その瞬間。

「こんばんは」

 リビングの中央に、ふわりと現れる影二つ。瞬きの間に像を結んだそれ――セーラー服の少女天海と学ランを気崩した少年時雨に従者たちは顔を強張らせた。

「ご歓談中のところ、失礼します」

 一気に張り詰めた空気に一瞬悲しそうな顔をしてから、天海が一息に挨拶を言い切った。そのまま唇を固く引き結んで、ぺこりと丁寧に会釈をする。守護役である時雨が彼女から一歩下がった位置で目礼した。

「要件を」

 皆を代表して慧斗が尋ねる。温度を感じさせない声に天海が顔を上げた。探るようにその目が透に向かう。中性的な容貌がおかしげに微笑った。

「何でしょう?」

「………………蜃気楼のような人」

 ぽつ、と。愚痴めいた呟きが天海の口から漏れた。ほんの僅か俯いた拍子にさらりと流れた髪が彼女の表情を隠す。

 咎める口調の言わんとするところを察した数名が、微妙な顔をして透を見た。透の笑みは崩れない。顔を上げた天海が物言いたそうにもどかしさを見せる。

 鉄壁の笑みと、察しろと訴える雰囲気。

 ふたつがぶつかり合って、火花を散らす。それもそう長くは持たず、先に天海が折れた。

 ぐるりと一同を見渡して、呼吸を整える。

「審判役である妃那さんより、皆様方に言伝を承って参りました。明後日、模擬戦闘を行ってほしいそうです」

「…………模擬戦闘?」

「はい」

 殺し合いではなく?と訝る稀紗羅に天海が頷いた。

「自身の力で本当に無辜の民を護ることができるのか把握しておきたい、と」

 聖戦におけるルールのひとつ目。人目につくところで戦闘してはならない。

 殺人を禁じる現代社会の普遍的な公共ルールを守るためであり、矜持を忘れて非力な存在を戦闘に巻き込まないためのものであり、今になってもなお見境なく戦闘が勃発しない直接的な原因となっているルールだ。

 それを唯一任意のタイミングでひっくり返せてしまうのが、審判役の妃那だった。

 彼女の力は物の力を借りて結界を張ることだ。物の声を聴くこともできるようだが、それが主力ではない。地図にピンを刺して範囲を指定し、そこに力を注ぐことでその区間を限定的に異界化できる。異界化された空間で起こる事象を正確に把握できるのは神の一族のみであり、巻き込まれた人間は皆皮膜に覆われ保護される。この皮膜を被っている間、彼らはたとえ戦闘に巻き込まれようが怪我一つ負わないそうだ。そもそも間近で戦闘が起きていようとも、それを察することすらできなくなる。非日常が起きている傍らで、目隠しをされたまま日常を過ごすことになるのである。

 何より妃那の能力で特筆すべきは、地図とピンさえ用意できるのであれば、異界化の範囲に上限がないことだった。それこそ平面に描かれた世界地図の端四点にピンを打って仕舞えば、世界全体を異界化させられる。

 ただし、当然弱点はある。妃那本人には戦闘能力が一切ない。運動神経が壊滅的で、どれだけ修練を積もうとも何一つ会得することができなかったのだ。故に、身を守る術を持たない彼女の集中がひとたび切れる――或いは、気絶ないし戦闘不能状態に陥れば、異界化はたちまち解け、戦闘と隣り合わせにいた人々は危険に晒される。またピンを打った地図が損傷した場合も同様だ。

 妃那と地図の安全を保証して初めてその力は完璧なものになる。故に彼女の側には必ず剣の存在があった。零だ。

 とはいえ、不測の事態はいつ何時起こるかわからない。そもそも複数人の神の一族が異界化された空間で鎬を削り殺し合うのは初めてだ。そこに《天の姫》と《地の姫》も加わるのだから、妃那にかかるプレッシャーは相当なものだろう。本当に人間を護る役目を一手に担って平気なのか知りたくもなるというものだ。

「気は進まないが、妃那の奴がしくじれば聖戦も何もなくなるからね。模擬戦ぐらいは付き合ってやるよ」

 もったいぶった話し方で玲が言う。

「で?模擬戦とは言えどこまで許される?」

「全てです。殺せると判断したなら本気で命を獲りにいってください。それで死ぬなら、そこまでだと思うので」

「へぇ、模擬戦とは名ばかりだね」

「はい。手加減による衝突を防げても意味がありませんから」

 さらりと毒が吐かれる。ご尤も、と玲が両手をあげた。

 模擬戦だからとお遊び感覚でやり合ったところで、妃那の目的は達成できない。不安は解消されることなく死闘の幕開けとなるだろう。

 そうして万が一、彼女の力が及ばず無辜の民から死人が出たら。

 《天帝》の存在も《大地の女神》の威光も伝承と化した現代、実際のところ死人が出たとて大きな問題はないのではないか、と言う里の者もいる。それはある意味的を射た発言だ。神性を失ったがために神罰を下す存在を観測した者たちは皆過去となり、今を生きる限られた命の者たちは語り継がれるばかりの話を音に聞くだけだ。

 ルール違反が《天帝》たちの神の矜持の喪失だとして、それがどれほどのものか。

 とうに神でなくなった者たちからすれば、《天帝》が敷いたルールは過去の遺物に過ぎず、彼らのために遵守に努めるのは枷でしかない。

 しかし、それでも、神の一族の大半はルールの一つ目が破られることを忌避する。その声が過半数を占めるからこそ、少数派は従う。数の暴力だ。

 とは言え、彼らも唯々諾々と屈したわけではない。

 神への反逆と見做されると言われたからでも、無意味な殺生を厭うたからでもなく、少数派は自分たちなりに落とし所を見つけて一つ目のルールを受け入れた。

 神など信じていない日本の人が、八百万信仰は自然と心に根付かせているように。

 信心深くない里の者も、神の血を継いだ我が身の特別な生まれに対する誇りだけは胸にあったのだ。

 だから一枚岩ではない神の一族は、従者たちは、誰も異を唱えることなく妃那の提案を受け入れる。本気の殺し合いが許可される形ばかりの模擬戦を馬鹿にしたりはしない。

 明後日、とカレンダーに視線をやっていた稀紗羅が天海たちを振り返った。

「ふたりは参加するのか?」

 時雨が従者を辞退した時点であり得ない確認だったが、一応同じ《地の姫》陣営である。戦力に数えて良いのかと言外に尋ねる稀紗羅に天海が首を振った。

「私はそうしようかなって思ってたんですけど」

「砂霧を探してからだ」

「…………って、時雨が聞かなくて」

 最後まで言い終わるのを待たずに時雨がぴしゃりと口を挟んだ。融通が利かないんです、と天海が苦笑する。そのまま夜翅を筆頭に慧斗や桜祈が砂霧の名に柳眉をあげたことを見てとって、胸の前で両手を合わせた。

 祈るように、縋るように、言いにくそうに口を開く。

「皆様は聖戦に集中してください。必ず仔細は報告致します。絶対に姫様方の不利益になるような事態へは発展させませんので」

「…………信じられると思っているのか」

 冷ややかに鼻を鳴らす桜祈に時雨の厳しい眼差しが飛んだ。

「砂霧がどう出ようが報告できる確率はお前が姫を守り切るより高い。疑う暇があるなら腕を磨けよな、落ちこぼれ」

「…………うっわ」

 けんもほろろに吐かれた痛烈な嫌味。

 時雨は年頃の少年らしく多少口が悪くなることはあるものの、進んで暴言を吐いたり相手の足りないところを攻撃したりするような性格はしていない。しかし、天海を揶揄されると一変する。過去二人の間にどのような経緯があったのか詳しく知るのは本人たちだけだが、ある日を境に時雨は天海至上主義とばかりに過保護になった。彼女の意を疑うこと、不足を論うこと、心身を傷つけることを最大の罪とするようになった。

 どのような理由があれ、桜祈に従者の使命を譲れるほどに、彼の中では天海が絶対なのだ。

 見るのも見ないのも怖いと桜祈を窺った稀紗羅は言葉を失った。反撃の一つでも吐くかと思われた彼は、予想に反してひどく凪いだ目をしていた。漣すら立たないその双眸に、静かな表情に、攻撃を仕掛けた時雨の方が気圧される。

 とりなすように透が一回手を叩き、注目を集める。

「他に何か気を付けておくことはありますか?」

「…………現状ありません。何か起きても、其方はほづみさんに一任します」

 里きっての女武者の名前に誰からともなく「ああ……」と溜息をこぼした。狭い里で育ったのだ、全員が彼女と面識がある。故に、彼女の性格も嫌というほど知っている。

「あれの相手をするならオレは逃げの一手かな」

「雲隠れした方が逆鱗に触れるかと」

 楽しげに嘯く玲に慧斗が言い添える。親切な忠告にその様を想像したのか、聞いていただけの時雨が身を震わせる。

「おっかないんだよな、ほづみさん。力で勝てても武力で捩じ伏せられるし」

「だからこその配置なんだけど……」

「砂霧の他に誰か動いたのか」

 桜祈がふたりの会話を阻む。ふつりと黙り込んだふたりの目が透を捉えた。

 にこやかに、《天の姫》の従者は拒絶を示した。

「《地の姫》様には関係ないことです」

「ならいい」

「…………嘘だとは、思わないんですね」

 どことなく寂しげに透が言う。立場による断絶を突きつけながらも付き合いの長さを感じさせるあからさまな態度に桜祈は酷薄な表情を返した。

「騙し打ちをされるほど切迫した状況だと?それなら天海たちが口を割っている」

「そうでしたね」

「…………………………空気が重ぇ」

 静かに飛び散る火花を恐れて稀紗羅が目尻を引くつかせる。

 すっかり逸れてしまった話を他所に、夜翅はスマートフォンを取り出すと手早くメッセージを打って送信する。手の中の機械が重さを増した気がした。ぎゅっと強く握りしめた掌から、金属特有の冷たさが迫り上がってくる。

「大丈夫。僕が、あなたを護るから」

「夜翅?」

「ううん、何でもないよ、慧斗」

 ぽそりと落とした呟きを耳聡く拾った慧斗に夜翅は苦笑を返したのだった。

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