第10話 虚勢を奪う者
一歩学校を出た瞬間、冬の寒さが容赦なくコートを纏った身を包んだ。寒さに耐性のある咲希でさえ身震いするほどの冷気は、学校が山の中腹にあるといっても異常で、それだけ時刻が遅いことを示唆している。
「少し、遅くなりすぎたかも」
駆け足で坂を下っていた咲希は己の迂闊さを呪った。夜翅と名乗ってくれた少年が忽然と消えたことに囚われすぎた。あんなの今考えてみれば力とやらを使って去っただけの話のはずなのに、まだ昨日まで過ごしていた常識の枠の中から完璧に抜け出せていないために、思わず対処しきれない事態だと思考が停止してしまった。
従者などいらないと言った矢先の失態だった。見られていなければいいと希望に過ぎないことを願う。でなければみっともないし情けない。
「……無理、だよなぁ。さすがに」
あの後フリーズしてしまった咲希をせっついたのは、慧斗だ。いきなり生徒会室に入ってきて、早く帰らねば危ないとご丁寧に忠告してくれた。どこに潜んでいたのやらと呆れる反面、聞かれていたのかと、見られていたのかと、自己嫌悪を上回る羞恥心が込み上げてきたのでまともに相手すらできなかった。
その慧斗は咲希の心情を汲んでか、武器だと暁色のずっしりとした鉄扇を渡すだけ渡して姿をすぐに消した。表向きは。実際は今も護衛として近くに控えているのかもしれないが、やはり護られたくないという意思を一応は尊重してくれるつもりのようだ。
慧斗のことだから、姫の命令なれば、と引いただけのかもしれないけれど。その気遣いがありがたくて、遠慮なく甘えさせてもらっている。姫と呼びそれに従った口調などは仰々しくて気に食わないが、徹底した割り切り方は嫌いじゃない。
使命に忠実なようでそうでない、昨日聞いた時は謎かけにしか思えなかった説明が今なら何となくわかる気がした。
きっと彼は、咲希を護る。稀紗羅よりも桜祈よりも全霊を賭して。
だけど、もし咲希が自ら千尋に殺されることを望んだなら、それに従うのだ。それが咲希の望みなら、やっぱり護ってくれる時と同じぐらい全霊を賭して叶えてくれるのだ。
慧斗の忠義は咲希にある。けれどそこに、想いはない。
俯きがちに早足で道を急ぎつつ、小さく笑う。
慧斗は咲希を第一としているけれど、そこには畏敬の念しかない。敬愛も信頼も、ない。千尋の従者の夜翅が向けるような、そういう類の感情を彼に求めるのは無駄なのだ。
皆が皆、彼のようだったなら。桜祈も稀紗羅も慧斗みたいに割り切ってくれたなら。
沈思する毎に俯く視線の先、爪先にかかるかかからないかぐらいの位置で朧に明滅する光に浮き上がった人影にはっとして顔を上げる。
夜にも溶け込めない存在感の人が立っていた。時刻が時刻なだけに身を固くして警戒をすればそれを敏感に感じ取ったのか、とろけるような甘く柔らかな笑みが向けられた。
「こんばんは、姫」
思わず聞きほれてしまうほどの美声で挨拶をしてきた青年が明りの下に姿を晒した。途端、心に奇妙な懐かしさと安らぎが生まれた。得体の知れない感情のうねりに、無意識のうちに凍りつく。時間が、止まった。文字通り風がやみ、音が止む。
見る者を虜にしてやまない麗しい容顔は女性的であるにも関わらず、繊細な中に女性だと見間違うことのできない力強さを秘めている。華やかな雰囲気は性別を選ばないタイプの衣服を着用しているためか、華美でこそないものの
稀紗羅たちよりもはるかに人間離れした美貌に絶句していた咲希は、夜風に己を取り戻し、顔をゆがめ低く唸った。
昨日の今日だ。何も想定していなかったわけではないし、こうなる確率の方が高かったとわかっていたはずだ。何もされなかったとはいえ、夜翅の訪れだってあったではないか。
それなのに動揺した己がひたすら恨めしく、情けない。
「神の血筋………!」
それも、味方ではない。敵の《天の姫》側だ。手渡された写真も時間がなかったので一度しか目を通していないしお世辞にも顔覚えがいいとは言えないが、こんなにも桁違いに目立つ人並み外れた容姿の青年を忘れられるはずがない。もし忘れられたらそれはそれで奇跡的な記憶力だと言わざるを得ない。
稀紗羅などが聞いたら何を呑気なと呆れられそうな考えが緊迫感もなく湧き上がり、無意識に唇をゆるめる。
慧斗は現われない。それは、つまり、咲希を護る者が誰もいないということだ。
普通に考えるならば危険な状況だ。まず間違いなく従者である桜祈や稀紗羅に説教される命の危機である。そうわかっているのに、咲希は従者だという三人がいないことにつゆほども後悔を覚えなかった。寧ろ、いなくてよかったと安堵してさえいる。
夜翅に突き付けられた殺しの覚悟云々はまだうまく処理できていなかったが、戦って逃げるだけの覚悟はないこともない。
鞄の中から貰ったばかりの鉄扇を取り出して睨むように見返した咲希に、青年が一歩近づいた。使い方がわからないまでも好戦的に構えた武器が目に入ったのか、青年は一度だけ咲希の手元に視線を向け、困った子だね、と愛しげに囁く。
それは彼が護るべき《天の姫》の敵に向けるにはあまりに甘美な響きを伴っていた。狂おしいほど恋焦がれているように、切ないほど求めているように、味方でない者に向けるにはふさわしくない、艶っぽく情熱的な声。
この短い十六年の人生で、そのような感情を向けられたことは一度もない。向けられたいと望んだこともない。
武器が手にあることも相手が丸腰であることも忘れ、向けられる未知の感情に本能的な恐怖で足を引く。かたかたと震えそうになるのを律するだけで精一杯だ。
彼の傍にいたくなかった。このまま此処にいて彼と言葉を交わすほどに、何か取り返しのつかないことが起こりそうで怖かった。
三十六計逃げるに如かず。意地を張るべき時ではない。さっさと尻尾を巻いて逃げるべきだとじりじり後退する。
だが、青年の方が早かった。
「姫」
瞬き一つ分の間に目の前まで移動した青年はことさら優しく微笑み、足がすくんで身動きができないでいる咲希の髪を一房掬いあげた。その目に宿る空恐ろしいまでに静かな熱が捉えているものが自らであることに応戦する意思がからめ捕られる。冷や汗が背を伝った。
殺される気は、しなかった。害される気もしなかった。何かされたほうがマシだと苦痛になるぐらい、青年からは敵意も殺意も感じない。強烈な好意だけが臆面もなく向けられている。
緊張や畏れで強張った表情が目に入らないのか、嬉しそうに頬をほころばせた青年が長身の背を屈め、視線を咲希に合わせた。
壊れ物に触れるような慎重さで手首が掴まれる。大した力が込められたわけでもないのに鉄扇が咲希の手から滑り落ちた。
地面を打つ、硬い音。咲希の命を守る生命線が、手の届かない場所へ転がってゆく。
姫、と。三度目の呼びかけが青年の口から出された。睦言を囁く恋人めいた甘い声に肩が震える。
どうか、悪い夢であってほしい。
千尋のためにも、咲希のためにも。
「あんたの姫は、千尋でしょ?」
姫、と躊躇いなく呼んだ。
殺意のない声で、咲希を姫だと呼んだ。
それを咎めるつもりはない。稀紗羅も桜祈も慧斗も咲希のことを姫と呼ぶ。実際に《地の姫》の宿命を果たさなければならないのだから、一族の者に姫と呼ばれるのは構わない。
だが、青年の紡ぐ姫という言葉に込められた響きはダメだ。妙に心を騒がせる。
敵意であれば許せた。殺意でも許せた。実際向けられたら恐慌状態に陥ったかもしれないが、敵に負ける感情としては至極真っ当なものだから受け入れられた。
だが。青年のそれは、いけない。
《天の姫》の勢力でありながら彼が紡いだ「姫」という言葉に秘められた熱は、決して冷ややかなものではなかった。寧ろ、戸惑いを覚えるほどにまっすぐに心を打った。
とても優しい、真摯な響きをしていた。
それは、それは本来味方に向けられるべき想いの欠片だ。
咲希の耳がおかしくなったのでなければ、紛れもない忠誠の色を乗せていた。
青ざめて見返す咲希に何を思ったのか、青年が安堵を促すように背中をたたく。一回、二回と繰り返されるその手つきの繊細さに息をつめて青年を見上げる。
「そう思われても仕方がないだろうね、姫」
――氷塊が、胸を滑り落ちた。
瞬きすら忘れて見つめる咲希の心情を知らない青年は、咲希を通してどこか遠くを見つめているようだった。
そう、気のせいでなければ、彼は咲希の姿を見た上で、他の誰かに声をかけているように思われた。
「姫。私の姫。愛しの君。君を手に入れるためなら、私はなんだってするよ。お望みなら、そう、君を害する者――《天の姫》たちを殺してあげようか?」
「っ、冗談を言わないで」
「冗談とはひどいな。私は本気なのに、君にこの思いは伝わらないみたいだね」
残念そうに耳元で戯言を紡ぐ青年は、本気だった。本気だとわかったからこそ、咲希の恐怖は薄れない。
殺せると、言ったのだ。咲希のために護るべき千尋を殺しても構わないと、虫すら殺せなさそうなたおやかな笑みのまま。
従者だと名乗って現れた彼らとは正反対の志に、迷いなく断言してしまう潔さに混乱する。仕えるべき存在を弑すことができるなど、狂っている。
どうしてそう簡単に味方を裏切ると言うことができるのか。叫びだしたい衝動を堪えるのに必死すぎて、言葉が喉につっかえて出てこない。
嘘だと言ってほしいと望む咲希の心意に青年は気づかない。咲希を慈しむように茫と見下ろして、手持ち無沙汰に髪を梳く。
「私の一番は君なのだよ、姫。君だけが、私を動かす」
「――――っめ、て」
「巻き込めないと、思っているのだろう?その優しさはいけない。君を滅ぼしてしまう」
追い打ちのようにふってきた言葉に今度こそ虚脱した咲希はぐっと奥歯を噛み締めた。
何を言っても青年には通じる気がしない。どんなに咲希が敵なのだと警戒をしても、彼は気にも留めず咲希が引いた境界線を乗り越えてくる。あっさりと胸の奥に隠した本音を暴いてするりと滑り込んでくる。
細い指が髪から頬へ、頬から首筋へのラインをなぞる。
この後に及んでも、慧斗は現れない。一時的に遠のいているのではなく、どうやら本当に護衛の任務から外れてしまっていたらしい。そうあることを望んだのは咲希自身で、だから、助けは望めない。望むつもりもない。
何とかしないと。自分で道を切り拓かなければ。
そう思う心はあるものの、青年の腕の中から抜け出すことができない。さして強く抱きすくめられているわけでもないのに、全身が彼を拒絶しているのに、恐怖の中にひと匙混じった奇妙な安らぎが邪魔をする。
取り落とした鉄扇を拾うことすらもできず、時間だけが流れた。
そうして、じりじりと精神をすり減らしていた時だった。
「……そいつに何をしている」
「――篠目、先輩?」
いるはずのない第三者の声に散漫に散りかけた意識が覚醒する。名を呼びながら振り向こうとした咲希は、髪を掬っていた手に肩を引き寄せられ視界を奪われた。鼻孔をくすぐる上品な香りにめまいがする。
「姫を護る騎士のおでましかな」
どことなく楽しげな声が頭上から降ってきた。わざわざ身を捩って見上げなくても、ひたすらに優しく触れる腕がなくても、その声だけで察せられる。
青年は咲希しか見ていなかった。桜祈の冷厳とした問いなど初めから歯牙にもかけていない。敵として認めていないのではない、彼の前では咲希以外等しく空気以下の存在になるのだ。
第一桜祈は従者になれない実力で従者になっている。余興のひとつ、そう青年が楽観できる程度に実力が違うのも原因の一端ではあるだろう。
しかし、それは青年側の都合であって桜祈の都合ではない。
場の空気が一、二度冷えた気がして知らず息を呑む。
「静谷ナオ、その手を離せ」
「――無粋なマネは、好きではないのだが……うん」
再び響いた声は今度こそ青年の耳に音声ではなく要求として入ったらしい。
名残惜しげに身を放し、腕を捉えたまま桜祈を見返す青年――ナオは咲希の予想通り興味の欠片もない瞳で柔らかに笑っていた。夢の合間を漂うように、桜祈の姿を映していない。
「嫌だと言ったら、君はどうする?」
「殺す」
即答。それこそ用意していた答えのように、それは言葉が発されたと気づけないほど早い回答だった。
危うく聞き逃しかけた咲希の、え?という戸惑いの声に応えるように、桜祈の顔に壮絶な笑みが浮かんだ。氷のように研ぎ澄まされた面立ちが戦慄を誘う冷笑を張り付かせる。
思えば桜祈の笑みを見るのは知り合ってからこれが初めてかもしれない。二度と見たいと思うような笑みではないが、マヒした感覚の中でそう思う。
ナオが苦笑を深めた。幼い子どもをあやすように、片手間に相手をするように穏やかに桜祈の笑みを受け止める。
「私も君を殺しても構わないのだよ?私は姫しかいらないからね」
誰からも祝福されなくても。世界を敵に回しても。世界全てを滅ぼそうとも。
滔々と酔いしれた口調で吟ずるナオに桜祈が反論を紡ぐよりも早く、それは放たれた。
「そうだね。君は邪魔だ」
だから消えてくれるね?
蠱毒の囁き。言っていることの過激さとはかけ離れた少しも乱れない口調はいっそ穏やかですらある。だが、桜祈の笑みに覚えた戦慄よりもはるかに強い恐怖に見舞われて、全身が震えた。
――このままでは、篠目先輩が殺される。
「だ、め」
そんなことは、許せない。従者を拒んだ意味が、なくなる。
「やめてっ!」
理解が追いつき、理性が否やを唱える間もなかった。咄嗟に悲鳴にも似た叫びが口を衝いて出た。激しい語調は言った咲希自身が怯むぐらい鋭い。それなのに崩れ去ってしまいそうなほど脆く、今にも泣き出しそうな弱弱しい声にも聞こえた。
憤怒を秘めながら悲痛な痛みを隠せなかった制止に、ナオと対峙していた桜祈が冷笑を消した。揺れる目で咲希を見つめ、殺意も敵意も瞬時に引っ込める。
ナオが哀しげに微笑んだ。
「君の周りに私以外の男がいるのは面白くないが…………君は、彼に生きていて欲しいのだね?」
「そ、う。そうだよ。生きてもらわないと、困る、よ」
一瞬躊躇して、掠れた声を絞り出し素直に肯定する。
虚勢を張る必要はない、それは彼には逆効果だ。桜祈がいるから、と本音を隠して遠回しに答えれば、ナオは桜祈を殺してしまう。そんな確信があるからこそ、言葉少なに真実を返すしかない。
死んでほしくない、生きていてほしい。殺すのは許さない。
目は口よりも雄弁に語ると言う格言が残っているぐらいだ。それを信じて、彼の目に目で答えを記す。
「構わないよ。君を護るために必要だから、今は見逃そうか」
正確に考えを読み取ったのか、ナオが哀しみに暮れた表情のまま咲希の意見を呑んだ。けれど、それは善意ではない。悪意でもない。もっとずっと質が悪い感情だ。
桜祈程度ならいつでも殺せると言うまやかしの声が、聞こえてくる。君のためだと諦めを多分に含んで笑う声が、耳朶を打つ。
自分の優位を信じて疑わないナオに桜祈の気配が鋭利さを増すが、その目にはやっぱり咲希しか映らない。
「私は静谷ナオ。ナオと呼んでくれるといい。君だけの、味方だ」
「……みか、た」
「そう。私は君を護ろう。君の心を、想いを、身体を、すべてを」
屈んで目線を合わせたナオが頬をくすぐる。その指先の優しさはどこかなつかしさを感じさせ、戸惑いが強くなる。
「またね、愛しい我が姫。今度は花のような笑顔を見せておくれ」
寂しそうに、ナオが微笑んだ。触れれば消えてしまいそうな微笑につきりと胸が痛む。
表現できない衝動に複雑な顔をすれば、後ろから腕を引っ張られた。ぽすりと桜祈の胸に頭がぶつかる。
何をするんだと見上げた先で、桜祈がそれだけで人を殺せそうな目をしていた。
「…………君は」
何かが引っ掛かったのか、物騒な光を湛えた目を見返していたナオが目を見張る。夢の合間を漂っていた目が、咲希しか見ていなかった目が、確かに桜祈を捉えた。
そして、表情を消す。
全身が総毛立つ。鳥肌がぶわりと全身に広がった。
「ふふっ、そうか。君だったのだね。でも、君にだけは姫を渡さない」
「……何の話だ?」
「とぼけるつもりかな?」
ナオが桜祈に近づき、手を伸ばした。目を逸らしたいのに、逸らせない。
「う…………あ、」
「――――見るな」
桜祈が咲希の視界をてのひらで隠した。ナオの時とは違い、ミントの爽やかな香りが鎮静剤となって体を包み込む。
はっとしたようにナオが息を呑む音が耳に届いた。
「姫……すまない。怖がらせたね」
深い自責の念の籠った謝罪が耳に届いた。目隠しをされているのでどんな顔をしているのかはわからないが、後悔に苛まされているだろうことは見なくとも察せられる。
大丈夫だと伝えたなら、ナオは己を責めないで済む。無意識の事故だったのだと許したなら、その後悔を軽くしてやれる。
だが結局、咲希はナオに何も言葉をかけなかった。立ち去る足音を聞くしかできなかった。
赦してやるのも安心させてやるのも簡単だが、それをしては桜祈の行動が報われない気がして、そう思うと唇は途端に自由を失った。
冷えたてのひらの目隠しがほどかれた時、暗く沈んだ道路に咲希と桜祈以外の姿はなく、寒風が吹き荒ぶばかり。まだその辺りにいないかと目だけで探していれば、肩にコートがかけられた。
「え、これ」
「着ていろ」
到ってシンプルなデザインの男物のコートは学校指定のものではなく、明らかな私物だった。
寒空の下、薄手のセーターに長ズボン姿という寒々しい格好になった桜祈に咲希は非難の声を上げるが、すべてを言い切る前に反論はばっさりと切り捨てられた。おまけに底冷えのする目で振り返られてしまえば、不本意とはいえ助けられてしまった手前、文句を飲み込まざるを得ない。
どんなに腹立たしくても、悔しくても、情けなくても、重要なのは結果。
従者はいらないと大見得を切りながら助けられたふがいなさを呪うしかできない。
きつくコートの襟を握り締め、咲希は桜祈にぺこりと頭を下げる。借りたくなくても親切から差し出されたものなのは明白なので礼は必要だ。そしてそれができないほど、咲希はこどもではない。
義務感から頭を下げ終えた咲希は、まだ体にまとわりついている甘い香りに気づき片手で顔を覆う。不機嫌一色に染まっていた思考は必然的にナオについて逸れた。
何故あそこまで敵対勢力の姫に恋焦がれているのだろう。どうして初めて会ったばかりなのに、僅かながらも彼に安堵を抱いてしまったのだろう。
疑問は挙げだしたらきりがなく、その答えはナオしか知らないものなのだと桜祈との間に交わされていた会話を反芻する。
自らの腕を見下ろして、咲希はぶるりと体を震わせた。
彼の目は咲希を見ていた。ずっと咲希だけを見て、咲希を通した向こう側にいるはずの誰かを探していた。姫、と呼んでいたから、たぶん、遠い
寒空を遠ざけてくれた腕の中は暖かかった。そのぬくもりを享受するのが初めてではないと漠然と感じてしまうほどに懐かしかった。不覚にも、安らぎを見出していた。
「冗談じゃ、ない……!」
青年が話に聞く《地の姫》に特別な想いを寄せているのは構わない。変わった恋だな、と思うぐらいだ。
しかし、それが我が身に向けられるなら話は変わってくる。
咲希は咲希だ。
受け継いだのは称号だけだ。伝承に名を残した彼女の記憶も何も、この身に継承してはいない。
癇癪混じりの唸り声をどのように受け取ったのか、桜祈は醒めた目で一瞥をくれると落ちていた鉄扇を拾い上げた。衝撃で開いてしまっていたそれを音を立てて閉じ、無造作に差し出してくる。
「二度と落とすな。次はない」
確かに、対峙していたのがナオでなければ、無傷とはいかなかったはずだ。
「………ありがとう、ございます」
渋々お礼を口にすれば、返事もなく桜祈が歩きだした。どうやらこのまま家まで送ってくれるらしい。いらないと抗議でもしようかと思ったが、寸前で思いとどまる。
ナオがいた時は気づかなかったが、桜祈の髪は濡れていた。微かに鼻孔に届く清涼な香りは、よく嗅がずとも香水でないことは明らかだ。もっと淡くて、掻き消されてしまいそうな、何かの残り香。濡れた髪と合わせて考えれば、答えは一つしかない。
「………ばか」
理由もつけずに従者を拒まれて、傷つかなかったはずがない。わがままに振り回されて、怒りを覚えないはずがない。助けたお礼をもらえずに、不愉快にならないはずがない。
それでも、彼は来てくれたのだ。自らの力量不足を正確に把握してもなお、戦意を鈍らせなかった。逃げることすらできなかった咲希を護るために、敵わない相手だとわかっていながらナオと対峙してくれた。
何も言葉を貰えなくても、拒まれていたとしても。
今も、彼は彼の信念に従って、最後まで従者として家まで送ろうとしてくれている。
「だから、拒むのにね」
運命に抗えない哀れな従者。普通の生活を失いながら《姫》を恨むことを知らない人たち。
それは確かに咲希の一方的な価値観に過ぎないのだろう。
それでも。護るという言葉に秘められた真心を感じるたび、思うのだ。
彼らの輝ける命を賭されるだけの価値が、咲希にはないのだと。
ナオと名乗った青年に関してもそうだ。あれだけの愛を囁かれる資格が、咲希にはない。
「見捨ててよ」
懇願がはっきりと夜を切り裂いた。桜祈の歩調が乱れる。届いたのだ。届かなくては困る。聞こえても構わないと口に出したのだから。
自己満足だとしても、隠していた本音を今ここで桜祈にだけは吐露しなければいけない気がして、手を伸ばす。間近にある背中に触れた途端、桜祈が息を止めた。歩調が緩む。動揺が伝播する。束の間、彼の心が無防備になった。
その隙を、狙う。
「二度と言わないから、聞いて」
てのひらから伝わるぬくもりは無限のようにも有限のようにも思えたし、触れたその背は大きいようにもとても小さいようにも感じられた。この背に従者の誓いを刻んだのかと考えると泣けてくる程度には小さかった。
涙の滲む双眸を伏せ、逃さないよと笑う。どうせ聞かなかったふりをされるとわかっていても、聞いてもらわなければいけないのだ。
「ねぇ…………自分の為に、生きて。咲希に関わると、つらいだけ」
人の夢、と書いて儚いと読む。人が眠り見る夢も、将来を夢見て理想を描くことも虚しいもののように。
人の為、と書いて偽りと読む。人の優しさを偽善だと嘲笑い、ぬくもりを惰弱な弱さだと蔑むように。
見てみたいよ、と雪には笑ったけれど、その夢が叶うことはきっとない。
咲希の描いた夢は儚いものだ。敵も味方も全員一緒に生き延びて笑い合う最後がいいなんて、どう考えたって難しい。そんな甘い夢を抱いていては、誰かが必ず咲希を庇って怪我をする。最悪、死んでしまう。足を引っ張るのもお荷物になるのも、咲希はごめんだ。
だから、言い聞かせている。従者の誠意ですら偽りだと。そう言うふうに教えられてきたから護らなければと思い込んでいるだけで、咲希のことを本当に大事に思って護ってくれるわけではないのだと。
真面目に向き合わないために。
その瞬間がきても、傷つかないで済むために。
そういう考えが人を不幸にするとわかっていても、今更この性格を変えることなどできようはずもない。咲希が従者にできるのは、拒むことだけなのだ。
息を吸って、吐き出す。添えた手を離し、桜祈を追い抜くと振り返った。
「帰ろう。今日は、一緒に」
吐き出した懇願などなかったかのように、咲希はここ最近で一番きれいな笑みを浮かべてみせた。
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