間章 狂愛ふたつ、開花して
ひとつ、雫が水面を揺らした。
ふたつ、細い笑い声が響いた。
みっつ、蓮の花が摘み取られた。
「――――君は、僕を覚えているかな」
薄い色彩の瞳を猫のように細め、絹糸のような金糸を靡かせた青年が蓮の花をぐしゃぐしゃに握り散らす。はらはらと舞い散る花弁を見つめる表情は狂気に染まっていた。
「それとも、忘れているかな」
無駄のない肢体を包み込む真っ白な服は御伽噺の王子様が着る礼装に似ており、貴公子さながらの美を持つ青年を艶やかに清廉に映えさせる。
天使の皮を被った悪魔、堕天した神の御使い。
見目麗しくも禍々しさを孕んだ彼を、知らぬ者はそう評するだろう。
幻想的な輝きを放つ池を嗤いながら見下ろしていた青年は、最後の花弁が無残に地に落ちたのを見届けると忌々しげにもう一輪摘み取った。
脳裏を過るのは昼の情景。
もう見ることはないだろうと思っていた眼差しと、継承をしたのだと微笑んだ底知れぬ悪意の色。
青年が誰なのかを知ってなお怯まなかった、それが彼を苛立たせる。彼を知って恐れない者は、死を恐れない者に他ならない不遜な輩なのだから。
「あーあ。どうせあいつもいるんだろうな」
二輪目の蓮も無残に握りつぶした金色の青年は何かに気づいたように背後を振り返り、邪悪と言われるに値する凶悪な笑みを唇に張り付けた。
「――それは誰のことだろうね?冥府の者」
緋色が躍る、そんな表現が似つかわしく陽炎のように唐突に目前に佇んだそれが妙なる声を震わせた。面白がる響きも悲しむ響きも憤る響きもそこにはない。透明な声はどこまでも青年に無関心だった。まるで青年の敵意や殺意に何の価値もないみたいに。ふたりの頭を漂う空気を痺れさせる悪意など微塵も感じていないように。突如として現れたそれは、散ってしまった花びらを一枚拾い上げて唇に寄せる余裕すら見せる。
青年にとっては面白くない仕草だが、伏せがちな瞳が恋慕を宿すのを見て取り眉を顰めるに留めた。
それは青年の知るかつての彼ではないだろう。それでも彼はかつての彼でしかありえない。彼だけは、変われない。だからこそ、花に誰を重ねたのか。神々にとっても途方もない時の彼方の出来事を覚えてさえいれば、問う手間をかけずとも答えは簡単につかめる。
正真正銘の裏切り者。卑劣でも卑怯でもなかった――寧ろ誠実ですらあったが、それ故に遺された全ての人に心の疵を残した者。
だからこそ、青年にとって、こと色恋に関しては安全圏足り得る者。
誰であれ、《天の姫》に、千尋に惹かれているのではなければ青年にとっては石ころ程度の価値も持たない。路傍の石と捨て置ける。それは相手も同じだろう。興味がないのはお互い様であり、目的を達成する際に邪魔さえされなければいい。自分が恋する相手に想いを寄せているのでなければ、どうでもいい。
淡白な繋がりしか築けないふたりは、物事の価値を捉える姿勢においてとてもよく似ていた。
「君のことに決まってる。あの少年も相当厄介ではあったけど、僕は君が一番嫌いだ。ナオ」
遠い昔に埋もれた名前を掘り起こし、青年はそれの名を紡ぐ。呼ばれたナオは感慨深げに青年を見やると蓮の花びらを水面に放した。ぽちゃん、と。落ちた花が波紋を広げる。
「サイトの姫に手出しをする気はないのだけどね」
「……やっぱり、まだその名前なんだ」
「そう。私は私だよ、いつでもどこでも、それこそ時を隔てても。人に堕ち、輪廻を彷徨おうと変わらない。想いは千代に、願いは八千代に。叶うまで魂は煉獄に灼かれず、連綿と続いていくんだ」
「……僕には理解できない酔狂さだ。端的に言って、狂ってる」
幾重にも波紋を広げ、さざ波の中をたゆたう花弁に視線を据えながらナオは青年――サイトに応える。断片的な言葉ではあったが、噛み砕くまでもない。足りない部分を勝手に肉付けしてしまいさえすれば、敢えて問いを重ねて意味を推し量るまでもなく伝わるものだ。
しかしそれはサイトの好む答えではなかった。はっきりとその意を示したサイトに、ナオが視線を上げた。初めてまともにサイトを捉え、未知の生物を発見したかの如く珍妙なものを見る目でサイトを見る。
「狂人の君に言われたくはないのだけど……わかりやすく言おう。君は、彼女のいない世界に価値はないと思わないのかい?」
「それは思う」
《天の姫》のいない世界など、ガラクタ同然だ。存在するに値しない。それはこの気が遠くなるほどの時間、サイトがずっと抱いてきた素直な感想だ。
素晴らしい早さで即答したサイトは不愉快を隠すこともなくナオを睨む。
「でもさ、だからって死ぬ?僕には短絡的すぎるように思うよ」
愛しい愛しい姫。彼女がいるだけで世界は色づき、初めてこの身は息をできる。
終わらない夜を終わらせ、幸福な夢を紡ぎ続けられる唯一絶対の存在。
だがそれと同じぐらい強く、サイトは望んでいる。
《天の姫》の生がこの手で奪われることを。その命の終焉を。
「――やはり、君はそのために現われたのだね」
渇望にぎらつくサイトの眼にナオが静々とうなずき、纏っていたローブを脱ぐと水面に浮かべた。意味のない行為にサイトが疑問を持つよりも早く、一秒にも満たない注意の逸れを利用してナオは鋭く指を鳴らす。
水面の水が、風の動きが、湖の輝きが、音を立てて制止した。一気に黄昏へと色褪せた空間に何が起こったのか悟ったサイトは緩慢な動きで肩を竦めた。そのままどこに隠し持っていたのか、素早く錫杖を取り出すと横薙ぎにナオへと打ち付ける。それをひらりと跳躍して交わしたナオが、夢見るような目でサイトを見つめた。
「私はもう行くよ。平和主義の私にその気はないが、殺戮主義の君は私を殺しかねない。それは君にとっても不利益だ」
知らぬわけではないだろう?
時の止まった空間で、それでもなお力に抗えるだけの強さを持つサイトはその言葉に顔を歪めた。
だから、嫌いなのだ。《天の姫》に恋焦がれていない彼は、それ故に《天の姫》を裏切ることにも、殺すことにも、何の疑問も抱かない。進んで手を下すことは皆無に等しいだろうが、目的を阻んだり邪魔だと思ったりした場合には、何の躊躇いも罪悪感もなく仕えるべき《天の姫》を殺すだろう。顔色を変えず、和やかに微笑んですら見せるだろう。
立場のないサイトとは違い、《天の姫》の味方である家名を受け継ぎながら、報われない想いひとつのために永遠を捨て去った愚かな神は。
「さようなら、狂い堕ちた神。もう二度と会わないことを願って」
今生でも変わらない笑みで、想いで、願いを成就させに動くのだろう。
純粋な神さえも縛り上げられるほどの力を世界に向けてまで。
ふざけているとしか思えない軽さで手を振ったナオが身を翻す。咄嗟に錫杖を手放してクナイを取り出し投げ放とうとするが、間に合わない。ゆらりと空間がゆらめいて、ナオの姿が文字通り歪んで溶ける。それが合図だった。全方向から玻璃の割れるような音が響き渡り、視界が色を取り戻す。風が波間を走り、輝きが再び世界を照らし出す。
全身で息を吐いたサイトはクナイを袖元に仕舞った。狂気が多少なりとも消え失せた目は嫌悪と憎悪に囚われて禍々しさを深め、不機嫌そうに酷薄な笑みを閃かせる。
宣戦布告、だった。あれは。聖戦における完全な部外者でありながら《天の姫》に執着するサイトに対しての。
道を阻めばその姫がどうなるか、わざわざご丁寧な忠告付きで。
くつりと楽しげにサイトの喉が鳴った。
「……いいね、そっちの方が僕も好みだ」
不幸も慟哭も嘆きも死も、サイトの領域だ。陰惨な力は同胞にさえ忌まれ、本来なら脈々と受け継がれるはずだった。死神と恐れられる神々の血統の嫡子にして正当なる跡継ぎにのみ発現するはずだった。
しかし、今代においてもその力を揮える者は、サイトだけだった。
当たり前だ。サイトは一度として死んでいないのだから。
徐々に狂気を取り戻す双眸が奈落に沈む。落ちた錫杖を掴む指先が、今後訪れる日々を思って愉悦に震える。
水面に置き去りにされたローブだけが、寂しげに揺れていた。
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