稀紗羅が虫の報せに急かされるように眠りから覚めたのは、夕方も過ぎた刻限だった。焦燥を覚えるほどではなかったが、漠然とした不安に押し殺される前にと自室を出た稀紗羅は隣りの部屋をノックする。

「――――――姫に拒まれたんだってね」

 戸の開く音に凭れ掛かっていた寝具から身を起こした玲が笑う。無言で向かい側に腰を下ろした稀紗羅を横目に捉えたその温度は優しかった。手のかかる弟を見守るような温さに稀紗羅は苦々しげな感情を湛えた瞳を彼から逸らした。

 稀紗羅と玲が身を寄せるここは、両陣営の従者が暮らす中立の家だ。敵同士が同じ家に住むのは本来ならあり得ないことだが、お互いがルールを破らないように戒めるという牽制を目的として里の長老集が用意した場所である。寝食を共にすることに抵抗を覚えるほど互いを知らないわけでもなかったし、ある程度の情報を共有する場所として従者の面々も好意的に現状を受け入れている。

 それに、誰も口には出さなかったが、ここでの暮らしは神託が下る前までの交友関係の名残を感じさせ、ひとときの安らぎを齎していた。一歩外に出てしまえば武器を向ける間柄に戻ってしまうが、それでも、前までと同じでいられる空間と言うのは心の糧となり力となる。

 最も、そのせいで相手側に弱味がばれてしまったり、敵に慰められたりするという奇妙な機会もできてしまうのだが。

「慧斗に訊いたのか?」

「まあね。桜祈が常々言ってたってのもあるけど、御愁傷様」

 近くで護ることを許されない――それは従者にとっては相当な痛手だ。

 神凪姉妹がどこまで正確に自分たちの置かれた状況を把握しているのか従者たちに知る術はない。できる限りの説明はしたつもりだが、それでも彼女たちは‘普通’の女子高生として過ごしてきた時が長すぎる。条件さえ満たせば四六時中何処ででも戦闘が出来る環境下では一瞬の遅れも命取りになるというのに、それすらわかっていても理解はしていないだろう。

 だから、従者は傍に仕えることを乞う。何も知らない姫を護らせろと言う。

「稀紗羅。あの条件は意外と簡単に満たせるからね。難しいことを言うようだけど、急いで許可を取った方がいい」

 審判役の妃那の能力によって、一見無理難題と思える条件は、簡単に満たされてしまう。それを知らないはずがないだろうと咎められ、稀紗羅は逸らしていた視線を玲に戻した。

「白鷺か」

「あの子は自分の力を嫌っているけど、おあつらえむきだ」

 だからこそ、と玲は目を眇めた。だからこそ、彼女が選ばれた。攻撃性も防御性もない微弱な能力しか顕現しなかった妃那だが、皮肉にも人を護るためにその能力こそが必要とされた。

 聖戦の立役者、それが妃那の役割。

 そしてそれをより確実なものにするために選ばれた零は、さながら鳥を囲う籠。

 玲ですら気づいたその配役を、同じ里出身の稀紗羅が気づかないはずもなく、苦悶の呻きを漏らした。

「神灯も、だな?」

「そ。うちの姫君とは仲がいいみたいでね」

 いつになく怠そうに答える玲に稀紗羅は沈黙を返す。

 玲より早くから咲希の傍にいた稀紗羅も当然ふたりの存在には気づいていた。千尋と仲がいいのも知っていたが、元々ふたりの家柄が《天の姫》の味方のため、千尋に肩入れをするのも仕方がないと諦めていた。馴れ合えば傷つくだけと言う咲希への配慮も感じていたので、殊更不平などあるはずもなかった。

 聖戦の間、私情を挟まなければいい。それは今も変わらない思いだ。

 玲としても、どうでもいいというのが正直な気持ちだ。妃那と零の能力を知るだけに、まさか審判役に配置するとは思っていなかっただけで、公正であるならば能力をどう使われようが問題がない。ふたりより適任がいるのであれば、別に《地の姫》の陣営でも問題がない。不正や面倒事さえ起きなければいいのだ。

 同じ人物について考えを巡らせるふたりの頭上に、柔らかくくぐもった上品な笑い声が響いた。玲と稀紗羅が揃って部屋の扉を見やれば、透が茶器を乗せたお盆を持って部屋に入ってくる。

「ふたりとも真面目ですね。こんな時ぐらいは休息をしていてもよいでしょうに」

「……聞いてたのかよ、透」

「人聞きが悪いですね、君は。聞こえたんです」

 顔をしかめて抗議する玲に詭弁としか思えない返事を返した透がにこりと稀紗羅に微笑んでお盆を差し出す。

「どうぞ。夜更けですので白湯になりますが」

「悪い」

「いいえ。私たちも、慧斗には御馳走になってばかりですし」

 これぐらいは、と邪気のない笑顔を向けられた稀紗羅は居心地悪そうにお盆の上から茶器をひとつだけ手に取る。

 普段の家事は趣味も兼ねて慧斗が担う。食後のお茶の準備などもそうだ。毒を盛るなどという卑劣な手を使うつもりはお互いに微塵もないので、そのことで意見の衝突はなかった。

 問題があるとすれば、席を外している場合。従者が単独行動をとるのは姫の護衛の時のみ。それは言い換えればもうひとりの姫に遭遇した場合の戦力として数えられる。

「……悪い」

「いいえ」

 二度目の応酬。含まれるニュアンスだけが異なるやりとりはよそよそしさを窺わせず、旧知の者の間にのみ生まれる暖かさが滲んでいる。

「慧斗の判断は正しく、責められるものではありません。同じ従者として尊敬すらします」

「同感。オレには無理だけどね。それに、桜祈や夜翅みたいなのも勘弁」

「夜翅と桜祈か。それは……わからないでもないけどな」

 ここにはいない味方の名前と従者の中で最も強い能力を備えた最年少の少年の名に稀紗羅が茶器を掴む手の力を強める。

 桜祈と夜翅は似ている。能力の強さも性格も何もかもが正反対でありながら、己の姫に対する想いの強さ――――彼らの持つ意志、それがとてもよく似ていた。

 狂気よりも純粋に、忠義よりも狂おしく、世界の全てを敵に回して壊しつくしてでも護ろうとする志。従者に選ばれたからでは説明のつけようのないひたむきさ。時にそれは味方にさえ戦慄を覚えさせ、得体の知れない恐怖に突き落す。

 勘弁、という玲の言葉も、稀紗羅の理解を示す言葉も、透には身に覚えのあるものだ。慧斗ですら、頷くだろう。

「今日は、どちらも見ていませんね」

 白湯を一口飲み、透は諦めにも似た声色で囁きを落とした。

 今朝方から単独行動をとっているらしく、学校に登校していた稀紗羅も玲も桜祈の姿を一度も見かけていない。制服を入手するだけ入手して転入届を出していないらしい夜翅は校内で会えないのは仕方がないとしても、家でおとなしくしていた気配もない。となれば姫である千尋の近くにいたと考えるのが自然だが、味方に断りなく行動するような性格もしていない。咲希を襲う真似も、《天の姫》勢力が優勢である現状ではしないはずだ。

 相変わらず読めないふたりだ。

 そう軽口を返そうとした玲が透の顔を見て止まる。

 透は冷たい目をしていた。桜祈のように心底から凍える表情ではなく、ただ冷たい。先刻の諦めなど錯覚のように、或いは聞き間違えだと嘲笑するように、静謐な顔で口を開く。

「夜翅や桜祈のことも気になりますが、早急に耳に入れておきたいことがあります」

「あんたがそう言う時ってろくなことがないんだけど?」

「ええ。ですが、今回は段違いですよ」

 何せ、と透陽が笑う。口元だけを笑みの形に緩める。

「ナオが消えた、と。サイトが動いた、と。そう天海さんと時雨君から連絡が入りました」

「っ!」

「ナオはともかく、サイトが?」

「更に付け加えれば、お人形さんに徹していた砂霧さぎりが――」

 淡々と、笑みさえ潜まない声で透が続ける。

 稀紗羅の手から茶器が滑り落ち、カーペットに中身を浸みこませながら転がっていく。

 ああ虫の報せはこれだったかと思うその横で、最悪だ、と唸る玲の声が虚しく部屋を満たした。



      ********



「……あれ?」

 陽もとっくに落ちた、いつもよりも遅い夜半時の帰り道。昨日と似た情景だと既視感を感じながら妃那と零と他愛もない話を交わしていた千尋は、足元に落ちていた紙を何となく拾った。

 いつもなら無視を決め込むサイズの、どこにでもありふれていそうなゴミ。それでいて見過ごしてはいけない気がして、表面を払うと首を傾げた。街頭で配られるチラシかティッシュにでも挟んである広告かと思ったのだが、意外にもそれは名刺だった。

 矯めつ眇めつ見るまでもないシンプルな作りは、氏名・電話番号と必要最低限の情報しか載せていない。寧ろ最低限過ぎて、名刺の意味すら果たしていない気がする。今みたいに見知らぬ他人に個人情報が流出することは防げるのだろうが、それにしても―――

「千尋?」

「あ、うん。ごめん。なんでもない」

 拾った紙を片手に止まってしまった千尋を訝しんだのか零が覗き込んでくる。特に理由もなく紙を咄嗟に隠した千尋は、明らかに作り笑いとわかる笑みで首を振った。拾った物が名刺であったのを気づかれてはならないと、書かれた名前を知られてはならないと、おかしなことに本能がそう叫んだ。

 気にするなと言う仕草に妃那が何か訊きたそうな顔をしたが、昨日から急展開ばかりの環境に放り出されている千尋を気遣ってか追及が成されることはなかった。

 再開された会話に笑顔すら返しながら千尋はそれでいてうわの空で返事をする。

 頭を占めるのは、名刺に書かれた綺麗な字面の名前。どうしてこんなにも気になるのか釈然としないが、それでも何かを予感して胸が逸る。

 天音彩斗あまねさいと

 時を同じくして、その音を持つ名前が従者の間で話題に出されていることなど知る由もなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る