第9話 盤上に駒は揃い出す

 放課後の生徒会室。机に突っ伏していた咲希は不意に目を開くと、頬を流れる涙を不思議そうに指で拭った。

 陽はとうに落ちているのか切れかけた蛍光灯の明りだけがぼんやりと室内を照らしている。ふと手元を見下ろせば、入学式についての予定や役割分担が記されたプリントと、新入生歓迎会のパンフレット用に提出された表紙案があった。春休みを迎える前に準備を済ませようとか何だとか、役員と話していた覚えが薄らある。

 時計を見上げれば針は七時近くを指していた。どうやらやり残した書類作業を一通り終わらせている最中に眠ってしまったらしい。同じように作業で残っていたメンバーの鞄もないので、自分が最後なのだろう。各窓の戸締りを確認してしっかり施錠してから帰る必要がある。

 咲希の口から溜息が溢れた。冷えた教室は暖房が切れてから暫く経つようで、呼気が白く染まる。

 作業中にうっかり寝てしまった咲希が悪いとはいえ、誰か起こしてくれたらいいものを。一年弱の付き合いがあるメンバーは良くも悪くも気心が知れているぶん、扱いが雑で薄情だ。

 八つ当たり気味な愚痴を心中で零した咲希はぐるりともう一度部屋を見渡す。生徒会室は一般生徒の立ち入りが禁止されている。予算案や行事予定など、重要な書類が保管されているからだ。

 とは言え、部屋の中に従者の姿がないことを確認した咲希は安堵を覚えた。昨日から置かれている異常な状況を考慮すると、誰もいなかったのは奇跡と言えた。

 使命に忠実な従者に対して、守るべき学校の規則は何の抑止力にもならない。一般人がいなければ、敵味方問わず入ってきていても何らおかしくはなかった。

 案外自由にさせてくれる気なのか、それとも駆けつけられる位置には控えているのか、武器を持たない相手への襲撃を躊躇っているのか。

 答えの出ない疑問を不愉快に感じながら、ひとまず紛失してはいけない資料をファイリングする。

 咲希の生きる場所が非日常的な世界になったのは確かだが、今までこなしていた日常を切り捨てられるほど無責任にはなれない。ぱたんと軽い音を立てて閉まったファイルを鞄にしまい、そのまま窓の鍵を確認する為に立ち上がった咲希は街灯の明りが揺らめく外の風景に動きを止める。

 窓ガラスに映る顔は見慣れたものだ。乾いた頬にあるのは涙の名残だけで、もう雫は零れない。

 夢を見て泣くなんて、と感傷的になっている己を嗤い、額をガラスに当てる。

 千尋がどうかは知らないが、咲希は滅多に夢を見ない。毎日熟睡かと友達に突っ込みを入れられてしまうぐらい、それはもう見事に夢を見なかった。見ていても、覚えていなかった。

 だが、繰り返し見る夢はあった。昔から夢に見る記憶があった。それは物心がつくかつかないかの頃の記憶で、白昼夢のように朧ろにしか見えない切ない夢だ。とは言え、内容を覚えているわけではない。ただ何となく、ぼんやりと、同じ夢を見たと思うだけだ。目覚めた時にしっかりと覚えているのは、視界を奪う黒衣と頬に触れた涙の暖かさ。愛しいと伝えるように抱きしめてくる手の力強さ。それだけだ。

 もしかしたらそれは、神の一族の誰かだったのかもしれない。覚束なさ過ぎてそれこそ幻ではなかったかと思ってしまう夢は、非日常に片足を突っ込んだ今、神の一族に関係した記憶だったとしてもおかしくはなかった。

 咲希は直前まで見ていたはずの夢を手繰るため、心の声にそっと耳を澄ませてみる。

 胸に咲くのは、恋しさではなく哀しみだ。

 湧き上がるのは、嬉しさではなく悲しみだ。

 歓喜も慕わしさも塗り潰す悲哀だけが、心を染め上げる。

「誰、だったのかなぁ?」

 その人は味方なのか、敵なのか。そもそも幼い咲希に会って何をしたかったのか。

 謎だらけなことだと他人事のように思いながら振り返った咲希は、きょとんと目を瞬かせた。

 いつの間にそこにいたのだろう。さっきまではいなかった少年が入口に立ち尽くしていて困惑する。扉を開く音は、しなかったはずだ。

「ええと、何か?」

 整った容貌からして神の一族なのは間違いない。見覚えがある気がしたのでまじまじと顔を観察して、ようやく合点がいく。

「千尋の従者、か。昨日ぶり」

 昨夜千尋を送ってくれていた少年で、敵の咲希の為に心を砕いてくれた優しい子だと思い出す。顔覚えの悪い身だが、昨今では見られない純粋無垢な輝きを素直に瞳に灯していたので、珍しく覚えていた。

 ささやかな達成感に咲希は唇をゆるめて歓迎の意を示す。少年の顔が苦悶に揺れた。纏う空気に悲愴感が増す。

「……あなたはいつもひとりだね」

 どうして、と、一昨日から聞く回数の増えた言葉をまた繰り返し紡ぐ少年に笑みを引っ込めた咲希は窓の外に視線を馳せる。

 一日経って、慣れた日常を過ごして、混乱した状況を落ち着いて考えられるだけの余裕ができてきて、そうして初めて従者を拒んだ己の弱さと頑なさが認識できた。むろん、拒んだことを後悔はしていないし、受け入れるつもりなんてこの先もない。感情だけで突っぱねたのを気まずく思い、もっとうまく拒絶できたのではないかと不用意に傷つけたことを悔やむだけで。

 ひとりでいい。ひとりでも大丈夫。だって。

「あんたは咲希を殺せない。千尋の従者も、みんなそう。《姫》を殺せるのは同じ存在だけ」

 強がりでも何でもなく、ただそうあるのだろうと何の根拠もなく口にすれば、少年の表情が戸惑いに染まった。

「そうだね。確かに、僕たちはあなたを直接的に殺せるわけじゃないよ。《姫》と《従者》の力量にはかなりの差があるし、単純な暴力での話ならあなたは誰よりも強い。何より校内には用務員の方がいる。戦闘を仕掛けるのはルール違反だ。そうでなくとも、きっと無策の僕は、返り討ちに合って負けると思う。でも、だとしても」

「危険」

「――!」

「そんなの、百も承知してる」

 従者は《姫》を殺せるほどの力を有してはいない。基本的に殺戮与奪は《姫》の間でのみ成立する。今目の前の少年はそう認めた。

 だが、同時にそれは己の《姫》の為に敵対する《姫》を足止めしたり弱らせたりすることは可能だと言っているのと変わらない。仕えるべき《姫》の元まで誘導するも良し、止めだけ与えさせるも良し。命を奪うこと以外であれば、彼らは自らの手で成すことができる。

 ただそれは全て、咲希が《地の姫》の本領を発揮できることが前提の話だ。

「この状況下を生み出した時点で、咲希の敗色は濃いよ」

 どれだけ自力に差があろうとも、《地の姫》の力の使い方など知らない。彼の言う暴力だって振るったことがない。

 武器になるようなものもない部屋で、何の武術の手ほどきも受けていない咲希と従者として育ってきた少年であれば、少年に軍牌があがるのは言うまでもなかった。

「でも、不思議と負ける気もしないんだ」

 優しい優しい、目の前の少年。敵にまで情けをかけてしまう、優しい従者。

 咲希の従者も千尋の従者も、優しすぎる。どうしてこんなにも優しくて、一途で、ひたむきでいられるのだろう。未来を狂わせた少女を護ろうと、揺るぎなき忠誠を捧げようと、思えるのだろう。心を砕いて、くれるのだろう。

 答えを待つ少年に視線を戻し、泣きたい気持ちを抑えて、それでも首を振る。

 だってさ、と続けて何食わぬ顔で微笑めたのは勝利を確信しているからではなく、やっぱりそうあることを信じているからで。

「護りたいものがあると、人は強くなれる。それは従者の強さ。咲希の強さは、何も残っていないからこそ生み出される、諸刃の剣」

 護るものがある者は、強い想いに囚われる。それは微笑ましく、暖かく、情と言う絆で結ばれたら避けられない道だ。

 護らなくてはならないから、強くなれる。それが真ならば、護るものを奪われた時、一気に弱くなってしまうのもまた真だ。

 逆に失うものを持たない者は、ひどく寂しい反面どこまでも捨て身になれる。我武者羅になって戦える。帰るべき場所がないからであり、弱味を握られることがないからであり、攻撃的になれるから。

「遠慮しなくていい。かかってきなよ」

 無造作に束ねていた髪ゴムを外して一歩踏み出す。少年の肩がびくりと跳ね上がる。怯えすら窺わせる目が軋み、できないよ、とか細い声が血の気を失った唇から吐かれる。

 敵対する覚悟、それは少年にもある。ないのは、丸腰の相手に挑む卑怯さだろうか。

 直感でそれを見抜いていた咲希は情けないとも言える公平さを嘲笑することなく、戸締りを確認し終えると帰り支度を整えて鍵を手に取る。

 そろり、少年の目が咲希を窺った。

「僕は、危ないよ」

「…………え?」

「たとえ無人の場所であったとしても、僕は君を殺さない。今はまだ姫の安全が保障されてて前みたいに笑ってるから、彼女の覚悟が真に確固としたものになるまで姉妹を奪うなんて真似はしない」

 でもね、と。少年が言い募る。敵であるはずの咲希に、危機感を持てと説教するようにその語調は険しい。

「僕は、危険だよ。それでも、あなたは僕を殺さない。自分でも気づいてないみたいだけど、殺せないんだ。だって、あなたの倫理観は至極真っ当なものだもの」

「それ、は」

 殺人は犯罪だ。少年に言われずとも十分承知している現実を遠回しに突きつけられて口ごもる。嫌な汗が額に滲んだ。

 戦う覚悟は、ある。千尋と敵対して武器を向け合う覚悟もある。その覚悟がなければ、咲希が殺されるからだ。

 でも、そう。殺す覚悟を固めていたかと訊かれたら答えに詰まる。

 そんな咲希を見透かしたように夜翅は哀れみをその目に浮かべた。

「誰も言ってくれなかったみたいだから、言うね。あなたはね、僕と戦えても、殺せないよ。絶対にあなたの中の常識があなたを裏切れない。だから、その一瞬が命取りになる。だって僕は、あなたを殺せるから」

 里育ちの倫理観は違うのだと、彼は言う。

 咲希とは違って最後のその瞬間、その気になれば相手が丸腰であったとしても躊躇うことなく命を奪えるのだと隔たりを突き付ける。咲希の抱いた勘違いを幻想だと懇切丁寧に教えてくれる。

「不器用で、不思議で、伝わりにくい人。子どもみたいにわがままをねだっても大人びていて、でもやっぱり大人にはなりきれない人。あなたはずっと変わらないね。だから、きっとお人形でいることを望んでいたあの子も動いたんだ」

「変わらないって、いやそれよりあの子ってどういう」

 意味、と言い終わる前に少年の姿が掻き消えた。慌てて廊下に飛び出して辺りを見渡すが、薄暗がりの中を木霊する足音も進む人影も聞こえないし見当たらない。

 息を呑み立ち尽くす咲希は、気づかなかった。ほど近い階段の上、長刀を片手に携えた慧斗がいたことに。その気配を察して少年が普通に帰るのではなく、能力を使って逃走を図ったことに。

 最後まで気づかなかった。


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