時は遡り、早朝。いつもの時刻に家を出て合流した妃那と零の前に一台の黒塗りの車が停車した。親族からの知らせで神託が降ったことを知っていたので特に驚くこともなく一族の者なんだろうなと思っていたふたりだったが、しかしそこから降りてきた人物を見た瞬間、それまでの余裕を根こそぎ失ったかのように硬直した。

 まず目立つのは、車に立て掛けるように置かれた薙刀。ひらひらと柄に巻かれた細い布が風に泳いでいる。ついで道場であれば違和感はないだろうに早朝道端ではコスプレかと目を疑うしかない袴姿の女性。しゃんと伸びた背筋やとしなやかな体躯を覆い隠し、頼りなげにさえ見せている。気の強そうな美貌が目立つのはその次ぐらいである。さらさらのロングヘアをポニーテールに結わえ、勝気そうな瞳を妖しくにんまりと笑ませた化粧っ気こそないものの美しい容姿をしたその女性を、ふたりは誰よりも理解していたし、慕っていたし、恐れてもいた。

 里の中でも屈指の武力を誇る女武者。本人が興味を持たないのと神の一族なため全国大会などと言った晴れ舞台に出ることはまずないが、その実力は恐らく優勝候補に挙がる者たちを赤子の手を捻るように蹴散らしてしまうだろう。妃那や零が里にいた頃、時折目にした彼女の薙刀を振るう姿は舞うように艶やかで、音もなく急所を狙う様は寒気を催すほど華麗で、相手が強ければ強いほど実力以上の結果を見せつけていた。持って生まれた能力が弱いにも関わらず、従者候補に名が挙がるほどにその実力は凄まじかった。

 そんな彼女の唯一にして最大の欠点は、究極の男嫌いにして女好きであることだ。別にそれ自体はいい。誓って妃那や零が人の性癖趣味嗜好に理解がないわけではないのだ。ただ、レズビアンではないとほづみ本人は胸を張って公言してはいるが、男性には恐ろしく冷ややかな態度を貫くのに対して、女性にはとことん優しく接してくる。そう、優しくされた方が身の危険を感じるぐらい、逃げ出したくなるぐらい、骨抜きにせんばかりに優しくしてくる。

 だから、心底嬉しそうに咲いた花笑みに、長年の付き合いから寒気を覚えずにはいられなかった。

「ほ、ほづみ……さん?」

「お、おひさしぶりですー」

 じりじりと顔を強張らせながら後ずさるふたりに気づかないのかほづみと呼ばれた女性が頬を軽く染めながら薙刀に手をかけた。

 恋する乙女の眼差しにも似た甘くうっとりとほころぶ瞳や、恥じらう生娘のような頬の色とはそぐわない、だが手慣れた仕草に妃那と零がきょとんとすること数秒あまり。覆い布がはだけ鈍く輝く切っ先を視界に捉えるなり、何をするつもりかと顔から血の気を引かせた妃那が素早く零の後ろに隠れ、零は零で一足飛びに何が起ころうとも対処できるように身構える。

 三人の間に流れる空気が痛いほど張りつめた。

 だが、薙刀が振るわれることはなかった。緊迫した空気に頓着せず、ほづみはくるりと薙刀を一回転させるとそのまま元の通りに車に立て掛けた。

 ほう……と妃那が全身から力を抜いた。女性の挙動に零が物珍しそうに眼を見張ると、ふっと息を吐き出して構えを解いた。僅かな疲労が覗く顔色にほづみが苦笑を浮かべながら後ろ側の扉を開くと座席の上に置いてあった包みを取り出した。

 ぱっと見でわかる光沢のある生地や慎重な手つきから、それが大切に保管されてきたものであることは確かなようだ。それほど大きな物ではなさそうだが、形状が変わっているのか大人が両手で持ってやっとバランスがとれる程度の大きさだ。見た目的にはそこそこ重たそうではあるが、思っているほどほど質量はないのかほづみは苦も無く持っている。

 何なんだこれは、と疑問を率直に態度で表すふたりにほづみが手の中の包みを弄ぶ。

「ふたりの可愛さにわたしとしては抱きついちゃいたいとこなんだけどさ、先にお役目を果たさないと里のじじいとばばあどもがうるさいからね」

「……役目?」

「届け物だよ」

 ほら、これだよ、と差し出された包みを束の間戸惑いも顕わに見ていた零だったが、不意に何か思い当たることがあったのか鋭く息を呑むと敬うような手つきでそれを受け取った。隠れるのをやめて出てきた妃那が何が入っているのかと包みに触れ、静電気が走ったわけでもないのにびくりと弾かれたように手を引っ込める。

 言葉にならない無言の問いかけにほづみが憂鬱そうに頷いた。

「ナオにぃの野郎が封印の解呪を承認した上に、天海と時雨に祝詞をあげさせたんだ」

「ナオ様が?」

「……まじで?」

「まじ。こんなことで冗談を言うなんていくらわたしでも勘弁だし、何よりこれがいい証拠、だろ?」

 自嘲するように包みを示すほづみに零と妃那は釈然としない様子で顔を見合わせる。

 ナオ――それは千尋の味方勢力に属する者であり、ほづみの遠縁に当たる青年であり、最も強く先祖返りを果たした男の名前だ。そして、一族の里で最も強い権限を持つ者の名前でもある。

 詳しく言えば、里には先の戦で勝利した《天の姫》の血を継ぐ一族と従者の血を継ぐ一族以外にも、とりわけ強い権威を持つ者たちがいた。その者たちの祖は、直接戦に馳せ参じたわけではなかったが、聖戦において重要な役割を果たしたと記録が遺っている。

 姫神たちが従者を供に従えて闘争を開始するのとほぼ時を同じくして、戦場に顕現した三柱の神がいた。それぞれ《時空の大神》《日輪の神子》《月詠の神子》と呼ばれ、その名に恥じない力を行使したそうだ。彼等の系譜はどれも今世にまで続き、その末裔は直系に近ければ近いほど強力な力を発揮する傾向にあった。そのため、力の強さがイコール保有する権力にもなり、自然と里の者たちも対象者には一目を置くようになった。

 ナオは《時空の大神》の血を継ぐ神の一族の直系である。その子孫の中でも稀有な能力を生まれてすぐ発現した。それだけではなく、群を抜いて際立った美貌を持って生まれたのだ。神の一族であれば暗黙の了解として、力の強さと容姿のよさがそのまま神の血の濃さに比例することを知っている。

 それ故に、彼には《時空の大神》の一族に細々と伝わる系譜の頂点にある神の名前が与えられた。彼の神は、《天帝》と《大地の女神》にさえ許されていない時空への干渉を簡単にしてのけたばかりか、《天帝》の父母神よりも強力な力を備えていたと記録には記されている。その神の名前にあやかって、彼はナオと名付けられたのだ。

 それは、縁起担ぎだった。形ばかりのものだった。そのはずなのに、いつしか本物に成り果てた。

 ある時、里の者が言ったのだ。

 彼の言葉は即ち遙か神代の《時空の大神》の御言葉に他ならず、神具の封印を施した者の名を継ぐナオが今現代で封印を解くと言うのなら、それこそが天意だと。

 妄信する者は年を経る毎に増え続け、特に権威の強い年嵩の者ほど崇拝を強め、若者も次第に呑まれていった。ナオもそれがごく自然なことのように祀りあげられた。

 《姫》に絶対の揺るがない忠義を捧げる従者やほづみのような主家と分家の関係にある者、天海や時雨、妃那や零といった特殊な役割についている者以外は皆ナオを神聖視した。ナオの言葉に間違いはないと盲目的に彼の言葉を肯定した。

 その狂信ぶりを、ほづみは恐れていた。

 里の者の殆どは気づいていなかったが、ナオには不思議なところがあった。従者になりたくないと言いながら、彼は姫という言葉をいとおしそうに紡ぐのだ。己を祀りあげる一族を遙か高みから見ているように、誰を相手にしても透明な壁を築くのだ。

 他人事のように世間を見ているナオが恐ろしかった。だからこそ、恐れた。

 ナオが従者ではないのに姫に固執することから、神具の解呪を命じるのではないかと。

 人で賑わう現代に神具はもう必要ないのに、解除の命を出すのではと。

 いつかそれ以上の過ちを犯すのではないかと

 不安を打ち明けられた従者と天海、時雨は同意した。彼等もそう予期していたと言った。

 いつかナオは神具の解呪を言い出すだろうと。姫を誰よりも重んじている彼だから、もしもの時はいつか来ると。過ちすら微笑んで、禁忌の領域を容易く犯すだろうと

 誰もが疑いを向ける中で、それでも妃那と零のふたりは信じていた。

 聖戦は避けられなくても、神具の解呪だけは成されないと。

 ナオはそんなことはしないと。

 もし解呪される時が来るのなら、それは必要にかられてのことだと。過ちを犯す時が来るのなら、誰もが間違った選択をしてしまった時だろうと

 けれど。

 零の手の中にある包みに重たい沈黙が流れる。

 それはここにあってはならない代物だ。社に奉られていなければならない、もの。遙か太古の昔に封じられ、時とともに忘れ去られなければならなかった“彼ら”の、神様の神具。

 妃那がそろそろと手を伸ばし、包みに触れた指先を顔を歪めて見つめた。

「哭いてる、よ。目覚めたくなんて、なかったって」

「……そっか、妃那には聴こえるんだったな」

「うん。哭いてるし、嘆いてるし、もんのすごく怒ってる」

「これからを思えば、神具も嘆きぐらいするんじゃね?あたしもめんどいし、憂鬱だよ」

 ぽつぽつと紡ぐ妃那の頭をほづみが撫でる前で怒りや苛立ちや遣る瀬無さや、そう言った幾つもの感情が混ざり合った複雑な面持ちで零がぼやいた。

 何も知らされずに育った双子の姉妹のうち、零と妃那は千尋と親友の関係にあった。だからといって咲希と面識がないわけではなかったし、仲が良くないわけでもない。友達だし、大切だ。だが、生まれた一族の系譜が《天の姫》側に縁がある以上、咲希とは敵対するのが定めだ。覆せない掟に抗って馴れ合うと、お互いに後がつらくなる。だから、咲希とも仲は良かったが、護るべき千尋とより親しくなった。

 その身に背負うた使命など忘れてしまうほどに。

 いつか来る残酷な運命など忘れてしまうほどに。

 正しい選択などこの世界には――姉妹を取り巻く世界にはないからと、開き直るように現実逃避をしながら。身勝手に関わって、偽りの中に本当の関係を築いて、虚構の砦が壊れる瞬間に怯えた。

 日常の崩壊を告げる使者の声を千尋がどんな思いで聞いたのか、零や妃那には知る術がない。

 一族であることがばれるのを恐れ続け、そうして今日を迎えてしまった。

 嫌われたくない、ただそう思った。そう思うことしかできなかった。

 千尋を“姫”ではなく“親友”としていつしか過ごすようになっていたから。

「これは《天の姫》の神具だ」

「わかりたくないけどわかった。預かるわ」

 不安は消えない。怯えも恐れも強まりこそするが、弱まりはしない。でも。

 妃那の手を押しやり包みを恭しく額の高さにまで上げた零は、複雑そうな面持ちになったほづみに小さく微笑する。

 神の一族の禁忌、それは使命や誇りと紙一重の忌むべき罪の象徴。一族の誰もが嫌悪を覚え、同時に再来を喜んでしまう。零が神具を預かろうが預からなかろうが、極端な話、世界が滅ぼうが、その因果の渦からふたりを解き放つことなどできはしない。

 贖いを欲し呪いをかけた偉大なる始祖の神々の力は、想像を絶するほど強大なのだ。

 下手な期待を抱いて儚い夢に微睡むよりも、傷口に爪を立ててでも起きながら、現実を直視している方が神の一族にとっては優しく感じられる。

 それさえも、逃げではあったが。

「いこ、零」

 ぺこりと頭を下げた妃那が零の手を引っ張り駆け出した。迷いも何もないその足取りにほづみがひらひらと手を振る。

 どうか幸あれ。と。

 振り返らない背中に声なきエールを贈りながら。


 

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