姫。従者。神話。戦い。

 翔陽と別れた後、階段を登りながら咲希は目紛しい一日で耳にした単語をもう一度脳内で羅列して整理していた。

 不思議なもので、気分はこの上なく落ち着いていた。今なら唯一頭を悩ませていた従者に関する問題にも向き合えそうだと薄ら笑みを零す。

「らしくないな、もう」

 告げられた宿命に大きく動揺した覚えはなかったが、知らず冷静さを欠いていたようだ。千尋と顔を合わせる前に翔陽と会えたのは幸運でしかない。

 久方ぶりに見る顔は心地の良い驚きを伴って思考を冷却させ、頑なになった心を解く。もう少し人当たりよく従者はいらないのだと拒めば彼等との関係に目立った軋轢を生むこともなく明日から付かず離れずの距離で過ごせるのではないかとか、そんな甘ったれた考えすら浮かぶほどに。

 最後の一歩、階段を登り切る。心地よい気だるさが太ももからじわじわと伝わる。

「咲希」

 こちらを見ろと訴える声に、思考の海に沈みかけていた意識を引き上げる。

「千尋」

「やっぱり、ひとり?」

「うん、まいた」

 思索とも言えない思索の途中、玄関口でばったり再会した千尋に遠回しかつこれ以上ないほど‘誰か’とどんなやり取りがあったのかを想像できる肯定の返事を返した咲希は、姉の後ろで鞄を持ったまま立ち尽くす少年の姿に目を止めた。

 ひとり、と聞かれたからには相手はひとりではないのだろうと考えていたが、予想よりも華奢な少年の姿に意表をつかれずにはいられない。咲希の所に来た三人も強そうには見えなかったが、目の前の少年はそれ以上に優しげで物騒な荒事には百歩譲って見たとしても不向きに見えた。

 それこそ、怪我人を助けている方がよほど絵になる容姿だ。

「初めまして、でいいのかな?」

 どうせ敵になる相手なのだから、と無視をするという手もあったが、いくらなんでもそれは大人げないかと向き直った咲希に、困惑したのか少年が千尋を見やった。

 華奢な体躯をしているからか、それだけでうっかり綺麗な少女に見間違えてしまいそうな容姿に内心感嘆した咲希に気付いたのか、少年の視線を華麗にスルーした千尋がにぃっと唇をつりあげて肩を竦めた。

 どうやら紹介はしてくれないらしい。

 そう、と追及を断念して納得した咲希に、ひとり置いてけぼりを食らった少年が肩身狭そうに立ち尽くした。

 その時になって明日からは敵――それも命を狙われる張本人によろしくされても困るのかなと遅まきながら気づいたが、訂正するのも面倒なので無言で千尋に視線を送る。手持ち無沙汰なのか、暇そうな目が向けられた。

「あんたが従者を拒むのはわかっていたとはいえ、明日いきなり死ぬとかになったらしゃれにならないんだけど」

「失礼な。そう簡単には死なないよ」

 開口一番の聞き捨てならない発言に顔をしかめれば、千尋がしたり顔で頷いた。明らかに何かを意図した顔に咲希は口を噤み、その目が連れの少年を示しているのに気づく。

 お優しいことで、と千尋にしか聞こえないように皮肉ってしまったのは、まともな反応だろう。

 少年が気づいているのかは知ったことではないが、従者の彼を千尋が家まで連れてきたのはこのためだ。恐らく彼は千尋から咲希が従者を拒むと聞いて、心配してくれたのだろう。もしくは、なぜ?とでも千尋に問うたのかもしれない。

 説明するよりも見せた方が早いと踏んだ千尋が此処まで少年を連れてきた。そう考えて間違いはないはずだ。

「死なないために、切り捨てたんだ」

「――え?」

「死を回避するために、いらないと言ったんだ」

 その気遣いに免じて、答えにならない答えを返す。

 これだけの語彙から何を言っているのかを正確に当てられるのは、きっと千尋だけだ。だけど。

 十中八九、従者たちはお互い顔見知りだ。親しい付き合いだったかまではさすがに予想できないが、知己ではあるだろう。

 だとしたら、そうやすやすと答えに気づかれるような親切な説明はしてやれない。

「護りきれるとは、言えないでしょ?」

「それは……でもっ」

「まあ、そうだろうとは思ったけど」

 物言いたげに口ごもった少年の横で答え合わせが済んで満足したのか、千尋が咲希の手から鍵を取る。温度のない無機物から伝導するぬくもりも、もうふたりを繋ぐことはない。明日という日が訣別の時だと告げるだけだ。

 運命のさいころの目は、平穏を示しはしない。

 不憫な理に溺れるしかない暗雲たる先行きは、前途多難に違いない。お互いに明日から待ち受ける日々の説明は受けているので、この場で一触即発にならなかっただけよかったと言える。今日ばかりは休戦中だという何の根拠もない言い分ではあったが、それを信じているうちはまだ平和なのだ。

「気は済んだ?心優しい少年君」

 くしゃりと頭を撫でて曇った瞳を覗き込む。従者を拒む咲希が心配の気持ちを寄せてくれる彼を安堵させてあげることはできないが、敵味方の関係には不毛なその優しさを一時的にでも邪険に扱わないぐらいの配慮は配れる。

 ごめんね、と稀紗羅たちにも言わなかった謝罪を紡ぎ、マイペースにもさっさと先に家へと入っていた千尋の後を追う。

 振り返りはしなかった。次に扉を開ける時は、もう敵なのだと知っていたから。

 馴れ合うだけつらくなる現実を忘れられるほど、咲希は冷酷にはなれなかった。

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