第5話 優しさの形と愛の行方
春も近いと言うのに、今日は冬の風が吹き荒れている。
ひとりで帰り道を歩くのが久しぶりなら、こんな風に冷え込むのも久しぶりだった。最近では梅の花が蕾をつけ始めるぐらい心持ち暖かい気候が続いていたのだが、しょせん冬は冬だったということだ。
空を仰いでいた咲希は肌を刺す空気の冷たさを苦にするでもなく歩きながら、今日一日に起こった出来事を振り返った。
護ると口走った面々の話をろくに聞かず、最終的には逃げ出した自分自身にも、簡単に身命を賭して護ると誓っている従者にも、とことん嫌気が差していた。
同時に、少しだけ三人に申し訳なさを覚えていた。あの場から逃げ出してから気づいたが、もしかしたら、彼らは使命を疑うことを知らないだけなのかもしれない。幼いころから洗脳のように御伽噺を繰り返し言い聞かされて、勘違いしているのかもしれない。
一族に生まれたからには、姫を護る必要があると。
自分と言う個よりも、姫を優先しなければならないと。
重たい呪いのように、使命と言う鎖がその身を蝕んでいるのではないか。
だとしたら、使命や宿命に己の命を費やす神経が理解できないからと彼らにつらく当たったのは、あまりに理不尽でかわいそうなことだ。
マンションに近づくにつれ、そういった思考に囚われだしていた咲希の歩調は徐々にゆっくりとしたものに変わる。
衝撃を受けたわけでもないのに、と内心苦笑いを堪えた咲希はオートロックの前に立つと鞄の中から自宅の鍵を取り出して手の中で転がした。
すぐに開く気にはなれない。
「でも、開けないと馬鹿みたい、かな」
目の前に転がった現実を肯定しようが否定しようが、いつまでもこのままではいられない。ただ突っ立っているだけでも、時は流れている。
我ながら感傷に浸りすぎているなと呆れ、開けなければ、と自分自身に言い聞かせる。
言葉と共に零れ落ちた息が白く染まり、それが何となく引っ掛かった。冬に息が染まるのは当たり前で、この冬も例に漏れなかった。それでも、思い出せ、と促されている気がしてかじかんだ指先に息を吐きかけてみる。視界に広がった白に妙な懐かしさを覚えたのは錯覚だろうか。
喉の奥まで答えが出かかっているもどかしさは気持ちが悪い。つかめるようでつかめないそれを形にするのを諦めて、ふるりと頭を振った咲希は、鍵を差し込みオートロックを解除する。些細な機械音が鳴り、閉まっていた戸が開く。
歩きなれた道もあんなことがあった後だからかよそよそしい雰囲気で、時折すれ違うマンションの住人も見知らぬ人のように思える。にこやかに交わす挨拶の言葉さえ、遠い世界で交わしているかのようだ。
常識が崩れた後に体感する日常と、それをひしひしと浸食する違和感に吐き気がする。
何の変哲もない日々は、嫌いではなかった。一方で、非日常的な何かを夢見ていた。どこでもいいから此処とは違う異世界に行けたらと、そう夢想したことは一度や二度ではない。
そして今日、それが訪れたわけだが思っていたほどの気分の高揚はなかった。望んでいた日常の崩壊が思っていたよりもシリアスな内容だったのは驚いたが、嬉しいとかそう言った感情を抱くよりも先に、何の悲哀も抱かない自分自身に幻滅してしまった。
殺し合いをしろと言われて、驚きはしても動じなかった咲希に稀紗羅たちは気づいていた。醒めてはいないのに、普通なら見せる悲痛さを見せなかった咲希に、彼らは気づいていた。
何の抵抗もなく家まで帰れたのがその証だ。言い伝えを知っていて咲希と千尋を育んだ親に、何もかもを知っていて黙っていただろう両親に、逢うことを何とも思っていないのがその証拠だ。
どうして生んだの、とかそんなテンプレート通りのことは興味がない。
どうして教えてくれなかったの、とか駄々をこねたいわけでもない。
運命なら流されるだけで、なるようにしかならないなら考えるだけ時間の無駄だ。悲劇のヒロインになるつもりはなく、被害者ぶるつもりもない。
だから、帰宅しても親を責めるつもりはない。気まずさも覚えない。
かわいそうだな、と思うだけだった。
敵になる姉を非常な奴だと厭うつもりもない。同じことを咲希もする。
だから、立場が少し変化したと思うだけだった。
割り切らなければいけないことなのだと頭の片隅で主張する声があるからそれに従う、言葉にしてしまえばそれだけのことで、それ以上でも以下でもない。動揺なんてしないし、悲しみに沈むこともない。
この状況下で咲希の頭を悩ませているものがあるとしたら、従者だと告げた三人の存在だけだった。死ぬかもしれない戦いに身を置くことを恐れない目が、微塵の迷いも何もない目が、真摯に真剣に据えられることが殺し合いをすることよりも恐ろしかった。
明日から従者をどうしたらいいのか、正直な話、そちらの方がよほど難題だ。護られるつもりはないから相手側の要求を受け入れることは万に一つもないが、断ったところで聞く耳を持たないと最初に宣言されている。
どれだけ冷たくあしらったなら、諦めてくれるだろう。
考えても詮無き事を思いながら、咲希は鍵を持つ手に力を込める。
「あの、咲希さん。どうかしたんですか?」
よほど気合いを入れ直しているように見えたのか、唐突に後ろから肩が叩かれた。聞きなれない声に内心警戒を高めながら振り返り、そこに立っているフードを目深にかぶった少年の姿を見て、ああ、と緊張を解く。
「久しぶり、結城。声、低くなったね」
「それは、まぁ、変声期が終わりましたから」
ぼそぼそとしたはっきりしない喋り方をする彼は、
「高校には行くわけ?」
「……それを聞きますか。咲希さんはひどいです」
「ああうんごめんそうでしたよね」
「僕だって高校は行きますよ」
「行くの!?」
え、何この流れ。今完全に行かない流れではなかったか。
勢いよく突っ込んだ咲希の反応が気に障ったのか、翔陽が不服そうにずいっと近寄ってきた。思いの外近くなった距離にたじろいでしまう。
「高校に行くのは嫌です。最悪な人だっている学校なんですから、出来れば行きたくないです。学校なんて滅びればいいんだ」
「いや、じゃあなんで行くのさ」
そこまで嫌なら、しかも不登校になった原因が進学先にいるなら、無理して行く必要はない。中学は義務教育だが、高校は個人の意思で選択できる。勉強が嫌でないなら通信制の学校を選択するのも手だ。一昔に比べたら増えているし、進学実績だって引けを公立や私立に取らない所が多くなってきた。何も学校に直接通うことだけが、学歴を得る方法ではなくなっている。
幸いと言っては何だが、翔陽の親はおおらかで寛容な人たちだ。ひとり息子だからと言って翔陽の意に沿わないことを強要するような人たちではなく、一言嫌だと告げたなら二つ返事で許してくれるはずだ。それこそ勉強が嫌だから、とかそんな理由でも、翔陽の人生だものね、と笑って背中を押してくれるはずである。
「誰も翔陽に学校に行けなんて強制してない。決めるのは翔陽でしょ?」
「――――僕だって、わかってるんです。それぐらい」
裂けるのではないかと思うほどきつく唇を噛み締めた翔陽に咲希は気圧される。
誰に対しても逃げ腰な翔陽は面倒事を好まない。驚くほど自分の感情に素直に従う。嫌だと思えば全身全霊で拒絶する。
だが、これは。
「翔陽。何か、事情がある?」
「……ええ。まあ、あると言えばありますが」
「そっか。どこに通う予定?」
「………………咲希さんたちと一緒です」
「……………………ああ、さいですか」
だからいつまで経っても教えてくれないのか、最悪な人とやらの名前を。
呆れ半分に納得したとつぶやけば、居心地悪そうに目が逸らされた。それを何とも言えない心情で見守りつつ、思考を巡らせる。
いるという表現を使ったからには、翔陽が言うところの最悪な人は少なくとも咲希たちと同級生か次に入ってくる新入生ということになる。現在通っている高校に、中学校の同級生がいた覚えはない。たぶん。少なくとも咲希が記憶している限りではいなかったはずだ。
ひとつ年の違う翔陽とその最悪な人がどう接点を持っていたのか、咲希にはわからない。だが、恐らく咲希か千尋のどちらかがそれなりに友好的な関係を築いている人物であるのは間違いないだろう。
「困ったことがあれば、言って。咲希も千尋も、翔陽を助けるのはやぶさかではない」
事情があるのだと翔陽は言う。行きたくないという意思を捻じ曲げてでも通わなければならない理由があるのだと、遠回しに告げてくる。
ならば、詳細が気にならないでもなかったが、咲希は何も口を出すべきではない。もどかしさを覚えても、彼の自由意志に委ねるべきである。
「それ、咲希さんらしいですね。どうせする後悔なら自分で買えって言っているんでしょう?これで僕が親に言われて、とか言っていたら、助けてくれる気もないくせに」
「誰かに責任をなすりつける馬鹿を知り合いにもった覚えはないから、そんな知り合いを持った自分の運が悪かったとでも思ってください。ね?」
「手厳しすぎて泣きそうです。……でも、そうですね。発破をかけられたからか、ちょっとだけ元気が出ました」
僕は、と。翔陽が緊張気味に告白する。
「昔から、好きな人がいるんです」
「………………はい!?」
「僕なんていてもいなくても同じなんですけど、それでも、その子の力になりたいんです」
突拍子もない暴露に慌てふためく咲希を尻目に翔陽がぎこちなく笑った。不自然なほど強張った笑みだったが、その目は心からその人が愛しいのだと叫んでいる。優しくて、甘くて、綺麗だ。緊張に揺れる声すら尊いものに感じられる。
学校に行くと決めたのは、きっとその人のためなのだろう。
いいな、と。衒いもなく思った。だから自然と笑みが浮かんだ。
「頑張って。大切な人のために一歩を踏み出せる強さは嫌いじゃないよ」
手を伸ばしてフードの上からくしゃりと頭を撫でてやる。瞠目する気配がしたが、笑顔で黙殺する。そのままいい子いい子と二度ほど撫でて手を離した。残った温もりを確かめるように翔陽が自身の頭に恐る恐る手をやって唇を噛み締める。
「甘やかさないでください」
「激励だよ。次に会う時は鞭をあげる」
涙の滲む声だったが憎まれ口を叩く気力はあるらしい。それなら気を揉まずとも彼は真っ直ぐ背筋を伸ばして好きな子を守るために歩いていける。
いつの間にか立派な男になった幼馴染みへほんの少しの寂しさを覚えながら、手のひらに残る温もりを振り払って咲希は背を向けた。
――だから、気づかなかった。
「…………姫、ごめんなさい。あなたを一番に考えられなくて」
密かに落とされた謝罪とともに贈られた、憐憫の視線に。
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