第6話 私たちは愛されていた
夜翅を置き去りにする形で後ろ手に扉を閉めた千尋は靴を脱いでいる片割れを見やり、その向こうに続く廊下の先、リビングを見据えた。
気の重い時間の始まりだ。
家の中は奇妙に静まり返っていたが、人気がまったくないわけではない。明かりも灯っている。もう七時を回っているので母親が帰宅していると考えるのが妥当だ。父親はこの頃昇進したとかで残業が増えたので、疲労が蓄積していない限りこの時間帯に家にいることはない。
ないのだが。
「ただいまー?」
棒読みの呼びかけに返る返事はなかった。いつもいつも返事が返るわけではないが、今日は気分的にしてほしかったなと自室に鞄を放り投げる。今の状況で母親に求めるのは、酷なことだとわかってはいたが。
「やりづらいというか、息苦しいというか」
家中を漂う重苦しい空気もそうだが、普段ならこの時間帯に香っている夕食の匂いもしないというのは、非常に微妙な気分にさせる。朝方何かへまをしたとか気分を損ねたとかではないので、親側にも千尋たち姉妹が背負った宿命の話が行き渡っているのだろう。
それでこの調子なら、少しやりづらい。訊きたいことは山ほどあるのに、うかつには切り出せなくなる。
両親が嘆きたい気持ちはわからないでもない。世間一般的な親の心情としては、愛する子どもには何の病気にもならず、危険に関わることもなく、いずれ想いを交わした人と幸せに過ごしてほしいと願うはずだ。何の憂いも心配もない未来は無理でも、人並みの幸せを手に入れてほしいはずだ。
日常から離れた殺伐とした運命を歩むなど、言語道断。卒倒するほど驚くに決まっている。千尋が親なら、血を分け合った姉妹の殺し合いなど望まない。
始まりの日の親である《天帝》と《大地の女神》は何を思ってふたりの姫を巻き込んだのだろう。
愛していなかったのだろうか。
死んでほしかったのだろうか。
「千尋、どうする?」
ブレザーをハンガーに吊るしながら出てきた咲希が、廊下に立ち尽くす千尋に声をかける。どうせ最終的にとるべき道はひとつなのだが、家の雰囲気の暗さから話を後に回すのかと咲希なりに気を遣った結果の問いかけに首を振る。
どうせもう、何も知らなかった昨日のようには過ごせない。どれだけ気を遣って優しさを注いでも、腫物を扱うようにぎこちなくなる。
言葉にしたら壊れてしまう。失ってしまう。
流れる時間が、千尋と咲希の間にあった姉妹という関係性をたやすく引き裂くように。
「母さん」
意を決してリビングに足を踏み込む。ソファの上に寝っころがっていた母親――雪が上体を起こして振り返る。
すべてを諦めた、苦笑交じりの笑顔が浮かんでいた。何もかも話す決意をした、悲壮な色よりも強さの色の方が濃い微苦笑。
知っていたのか、そう思った。
知っていて、それでも千尋と咲希を育てたのか、そう思った。
それはいったいどれほどの勇気がいる行為だったのだろう。
禁忌とされた存在をこの世に産み落とすのが―――関係のない子どもまで、終わることのない業に巻き込むのが、どれだけ勇気のいることなのか、想像を絶する。いや、想像することすら、冒涜になる。
教えて、とは言えなかった。まだるっこしいのが苦手な咲希が雪に近づきカーペットに腰を下ろしても、近寄ることに躊躇を感じればどうしても質問を口の端に上らせることができない。
立ち尽くす千尋に雪が手招きをした。
「聞いてしまったのね」
深い悲しみに沈んだ声で、雪が言った。
ふらり、と近づいた千尋がすとんと咲希の隣に並んで座るのを待って雪は儚く微笑んだ。
「教えてあげる。あなたたちの知りたいことを。知らなければいけないことを」
たとえそこに希望が欠片もなかったとしても、もう目を逸らすことなどできはしないのだから。
******
始まりがいつなのか、詳しいことは誰も知らない。永劫の年月の中に寂れてしまったのか、辿れるだけ辿った系譜の先からしか過去の形跡はなく、悲鳴にも似た残酷な未来を記す御伽噺だけが色褪せることなく残っていた。
ただ、遠い昔、確かに神はこの地にいたのだ。それを一族の血縁者だけが身に宿し、継承し続ける不思議な力が教えてくれた。
裏を返せば力だけが永い時の中でも朽ちることのなかったはっきりとした真実だった。今はこの地からその存在を感じることはできなくても、‘い’たのだという揺るがない証であり、神としての矜持を失わないための強固な戒めだ。
神の血を宿す者はどこにいてもすぐにわかった。程度の差こそあれ、人に非ざる透き通った美貌を誰もが持ち、風変わりともとれる独特な性格に稀有な雰囲気を例外なく兼ね備える。神の血を引く者同士にはごまかせない何かを絶対に持って存在する。
それが、神の子。
人には交われない、人としては生きられない、誇りとともに始まりの呪いを継ぐ悲劇の末裔たち。
それ故に神の子は神の子としか結ばれない。数えきれない時の彼方には稀に人と婚姻を結ぶ者もいたが、外部にまで『呪い』が及ぶのを恐れたいつかの先祖がそう取り決めを成して以来、破られることはなく、神の子と人が結ばれることは完全になくなった。
やがては居住する土地まで一か所に定めるようになった。
そこは、日本とは思えないほど深々と雪の積もる人里離れた極寒の地。それも標高が高く見渡す限り色味のない殺風景な光景の広がる山脈地帯、そこに人払いの呪をかけて永住することを神の子は決心した。灼熱の地よりも極寒の地の方が人は寄り付かない、そう考えた末の決断だった。
問題は外部に漏れた血を継ぐ末裔たちであったが、混血者だったからかその力は驚くほど脆弱で歯牙にかけるほどでもなく、生される子の数と性別にすら気を配れば何の問題もないレベルだった。千里の目を司る現在視の能力者を代々酷使する形にはなったが、姫の誕生を防ぐためとあらばと誰もが協力的だった。
呆気なく外の問題が片付けば、あとは徹底的に伝承を《御伽話》を継承して『姉妹』を誕生させなければいいだけだ。そのための社を創り、《天地の姫神》を祀りあげ、御伽が刻まれた石板を永久に語り継ぐ。
計画は完璧だったはずだった。
少なくとも、数十年前までは。
「私の母がね、里を出たのよ」
若気の至りだった。退屈な日々に刺激を求めていた。ほんの少し両親を、里の者たちを困らせてやりたかった。それだけの子どもっぽいわがままが年若い娘を突き動かした。どうせ誰かが探し当ててくれるだろうと、安易に考えていた。
「でもね、母を探す者はいなかった」
理由はわからない。雪深い地だったからのたれ死んだとでも思ったのかもしれない。両親でさえ、里を飛び出した少女を探そうとはしなかった。
それが酷く彼女の心を傷つけた。傷心の少女は里に帰るという選択肢を失い、そのまま外の世界で暮らし、やがて空虚な心を癒してくれた普通の人と結ばれて、そうして雪が産まれた。
名の由来は、深雪。深々と親切な心が雪のように降り積もるように、とただそれだけを願われて雪は産まれた。
何千年来の混血児が、誰にも知られることなく誕生したのだ。幸い雪の異能は混血の例に漏れずとても弱くて、普段の生活では何の役にも立たない‘超聴覚’だったので周りに異端とばれることもなく幼少期を過ごすことができた。
しかし何の気まぐれだったのか、ある時神の子たちは雪の母を探し当て、尚且つ既に女児を産み落としたのを知るなり里に戻れと無情にも告げた。
母は咽び泣いた。里は懐かしい、恋しい、でもあの人を置いて帰りたくはない、この子に自由でいてほしい。そう繰り返す母が子ども心に哀れで、雪は言ったのだ。
――私がいくわ。それじゃあ、だめ?
御伽噺は知っていた。それだけは母が口を酸っぱくして話して聞かせてくれていた。
だから、御伽噺が怖いなら、妹が生まれた瞬間に私を殺せばいいよ、と死の怖さに震えながら雪は言った。愛された記憶が――愛されているという確信が雪を奮い立たせた。
そして、雪だけが里に戻った。皆が何も知らない父親にどう説明したのか知る術はなかったが、別れ際の父と母の涙に濡れた眼差しから、もうあの暖かな日々はこないのかもしれないと予感していた。
その予感を裏切らず、里は雪に冷たかった。閉鎖空間が作り出した空気になじめなかった雪は、夜が訪れるたびに幾度も涙を零した。父母に会いたいと泣いても慰めてくれる者はいなかったが、子どもであった雪には泣くことでしか悲しみを発散することはできなかった。
そして親と離れてから十年が経ったある日、雪に転機が訪れた。刹那という蝋細工のような美貌を持つ青年が、里に迷い込んだのだ。
「あの人はね、探していたの。自分の家に伝わる御伽噺の真実を」
姉妹を禁忌と厭う慣習に疑問を抱いてさすらい訪れた年若い青年。
数えるのも億劫なくらいの過去に混血の血筋となった一族の末裔。
脆弱すぎる力しか保持しない――――けれど、同じ神の子。
里の者は彼を扱いあぐねた。歓待するにはあまりにも人の血が濃い存在で、同じ神の子だと断言するのは憚られたのかもしれない。断絶された世界に根を下ろした里の者と外界の風に当たって過ごしてきた刹那とでは価値観もマナーも何から何まで違いすぎた。
刹那が冷遇されたのは仕方のないことだった。
その一方でつまはじきにされた刹那と孤独な雪が寂しさを埋めるために仲よくなるのは必然だったのかもしれない。お互いに互い以外の親しい者を持たないふたりはやがて惹かれ合い、同情からではなく心から愛し合って子を成し――かつてないほど里を震撼させた。ぎりぎりで保たれていた均衡は一気に崩れ落ちて、一夜にして里を恐怖に陥れた。
「不思議なことに、それまで一度も双子の事例はなかったの」
だから誰もが油断していた。一族に双子は生まれないのだと。女児を持つ家庭がそれ以上子を生そうとさえしなければ、神代の戦いは到来しないと思い込んでいた。
それは雪も刹那も同じだった。その為に雪のお腹に宿ったのが双子だと知った時、それも女の子だと知った時、落雷にでも打たれたような衝撃を受けた。そしてそれを受け入れきるよりも早く、雪の祖父母や親戚や里の者すべてがこぞって子どもを殺せと言った。まだ意思すら芽生えていないだろう命を絶てと言った。それが正しいのだと、誰もが知っていたからふたりにそう告げた。
呪いが、因果が巡る前に殺せ、と。それが子どもの為でもあると。
彼らの言うことが正しいと、一族の者である雪たちとて理解していた。
けれど。
「殺せるわけが、ないの」
罪の子だとわかっていた。いつか来る殺し合いを避けるために殺すのが、神の血を引く一族に生まれた者の務めだと、しっかり理解していた。悲劇を繰り返してはならないと、子どものためにも殺してしまうのがよいのだと、周りの者が正しいと、そう頭では理解していたのだ。
でも、おなかに宿った新しい命を殺すことはできなかった。生まれたいのだと叫ぶように、確かに生きている命を殺すなどできなかった。何の罪もない無垢な命を奪うなど、どうしてもできなかった。
――だから、逃げ出した。愛する者と手を取り合って、逃げて、逃げて、逃げ続けて。彼らの手が伸びないだろう田舎の病院へ転がり込んで、罪の子を産んだ。
選んだ道は間違いだったのかもしれない。多くの人を巻き込み傷つける修羅の道だったのかもしれない。子どもにとって、いっそ殺された方がマシだったと思わせるような残酷な未来しか世界には待ち受けていないのかもしれない。
それでも、よかった。憎まれても嫌われても、蔑まれてもいい。
「私も、刹那も、ふたりに生きてほしかったの」
たくさんたくさん、いやな目にあうだろう。手に入れたものの儚さに、眠れないで震える夜を過ごすだろう。夜明けなど永遠に来ない宿命の重さに狂いたくもなるだろう。
雪が体験したのとは次元の違う辛苦がふたりを苦しめる。
姫としての味方はいても、千尋と咲希の味方はいない。雪に刹那がいたように、姫の宿命から助けてくれる者がいるとは断言できない。血で血を洗う惨い定めしか、誰にも見えていない。
だけど、明けない夜はない。終わらない悪夢はない。必ずどこかに道はあるはずだ。
雪に刹那が現れたように、救いの手はあるはずだから。
そう信じて、絶望の中に僅かな希望を見出してほしかった。
それはとても難しいことなのだとわかっていたけれど、その強さをふたりに願わずにはいられなかった。
「殺しあう定めにも、負けない子だって、信じているのよ」
「母さん……、それは」
「……根拠は?」
「私たちの子どもだもの。刹那との間にできた、子どもだもの」
身勝手な祈り、身勝手な願い。重たいだけの、期待。
そうと知っていて、雪は愛する子どもに笑いかける。
慈しんできた罪の子。誰からも誕生を望まれず、誰からも祝福されない世界に生まれてきてしまった、愛しい子どもたち。姫として敬われ、姫として大切にされても、現存することは望まれなかった哀しい姉妹。
昼間に現れた少年たちを思い出す。神託を届けに来た、ふたりとそう年の変わらない若き従者たち。一番年少の夜翅と名乗った少年は笑っていた。玲と名乗った少年も、透と名乗った少年も、変わらぬ忠義を誓いましょうと、過酷な使命を嘆く素振りも見せずに嬉しそうに微笑んだ。
刹那の元にもまた違う少年たちが来たと連絡があった。何があっても姫を護りきると、純粋な思いでそう誓ったと。
刹那がそういうのなら、大丈夫なのだろう。刹那は嘘を見抜く力の使い手だ。従者に選ばれた三人が護るべき《姫》に牙を剥くことはない。
覚悟の強さをこの目で見たからこそ、彼らのことを信じてふたりを送り出すことができる。
「わかった」
沈思していた千尋が音もなく立ち上がる。多くは語らないまでもその顔を染め上げるのは毅然とした決意と悠然とした余裕。待ち受ける運命に恐れも気負いもしない、強かさ。
咲希がそれを見上げ、あくびを零した。
「運命も使命もどうでもいい。殺しあわないといけないならそうする。それだけ」
「咲希、何を」
「母さんの言いたいことはわかるよ。殺しあわないのが一番なのかもしれない。でもね」
見てみたいよ、と咲希が笑う。何が、とは言わず、雪を見て屈託なく笑う。
話が読めずに口を噤んだ雪とは違い言いたいことがそれだけで察せられた千尋が苦笑する。促すように視線を向ければ首が緩やかに振られた。
話さない、と。
聞かない方がいい、と。
それが必死で子どもを守ってくれた母親に、そしてここにはいない父親に返せる最後の優しさだった。
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