第7話 水面に広がる波紋のように
チャイムの音が鳴り響く。
うっすらと目を開けた千尋は机に突っ伏していた顔を上げ、朝礼前の予鈴に浮足立つ面々をぐるりと見渡すといつも喋っている友達ふたりがまだ室内にいないことに気づいて瞬きをする。
千尋の友達なだけあってマイペースを貫くような性格をしているふたりは、それほど時間に余裕を見るような性格をしていない。朝礼に間に合わないのはしばしばで、今更驚くようなことでもなかった。だが、今日のように一限が移動教室の日に教室に遅れてくるのは初めてだ。
そして、たったそれだけのことに胸騒ぎを覚えるのも。
「…………調子、狂う」
どうしてこれほど不安を覚えてしまうのか、心当たりはきっちりとある。
昨日の非日常を体験してしまったからだ。些細なことすら引っ掛かるほど過敏になっているのも、友達を関係者ではないかと疑ってしまうのも。
普段であれば、あのふたりは遅刻だと誰かに言われたら、ああそうですか、と何の疑いもなく素直に信じられるというのに。
何もなければいい。朝礼が終わるころに気張っていたのががっくりとくるほど呑気に「遅刻しましたー」と笑いながら入ってきてくれたらいい。それだけで、千尋の心配は杞憂に終わり救われる。変な肩肘を張らないで済む。
そう必死で思う一方で、胸騒ぎがやまないのは、友達ですら関係者から逃れられないと確信しているからだ。
雪は言った。
神の一族は総じて美形だと。
友達二人も顔立ちは整っている。少なくとも片方はそこらの男子よりもかっこいい外見をしているし、もうひとりは文句なしに愛らしい。
神の一族だと名乗られたら、否定できないほどに。
「(しかも、従者が学外の人ばかりではないとあいつが証明した)」
昨夜の段階でお互いの従者の特徴を教えあった時、咲希の方にはクラスメイトがいると聞いた。学内きっての美少年として噂になっていた人物だというその人物は、よくよく聞けばクラスの違う千尋とも委員会で接点がある生徒だった。そういうこともあるのかもしれないと思ってはいたが、自分側で学内の者はいなかったので意表を突かれた。
知っている人が一族の者でもおかしくはない、単なる知り合いだった人が味方かもしれないし敵かもしれない。昨日まで何も知らなかった千尋や咲希とは違い、神の一族としての自覚がある者はずっとこの日を恐れながらも待っていた。
命を奪い合う古からの聖戦。勝つか負けるかしかない理に縛られた最悪の舞台。
それが今日から千尋たちを取り巻く現実(リアル)なのだと後になってから身に沁みて感じる。
もやもやとして晴れない苛立ちに舌打ちをして鞄の中から夜翅に貰った写真を取り出す。
貰った時のままビニール袋で持ち歩くのは憚られたので、シンプルなデザインのアルバムに綴じ直してある。夜翅は《天の姫》勢力だけの写真だと言っていたが、その厚さは正直言って異常だった。
何百にも及ぶ膨大な量に昨夜同様に吐き気を覚えたものの、仮にも護ってくれると誓ってくれた相手からの忠告とあれば無視をするわけにもいかない。
既にしぶしぶとながらも一通り目を通してはあるのだが、意味はなかっただろう。写真に写っていたのは揃いもそろって皆が一度見たら忘れられないほどの強烈なインパクトがある美形だった。おかげで、総じて美形だった、という我ながら情けない印象しか残っていないほどに。
「(馬鹿みたい、なんて、もう言えないか)」
御伽噺が現実になるなんて――それもその渦中で他人を巻き込む厄介者になるなんて。
現実にはとうに飽きていた。何の変哲もない日常をひっくり返すような非日常を求めていた。退屈な毎日を刺激するスパイスが、スリルが欲しかった。
毒を飲み干す覚悟はあったから。
両親の手前、言葉にしたことはなかったが、ずっと何かが起こるのを切望していた。この生ぬるい空気に犯された世界を壊してくれる何かを待ち望んでいた。それは嘘ではない。
だが、こんな展開を願っていたわけではなかった。咲希と争うのが定めだったのだとしたらそれは受け入れる。でも、誰かに迷惑をかけるのだけは嫌だった。誰もが千尋みたいに考えていると思い込んだことなど一度足りとてなかったからこそ、それだけは起こってほしくなかった事態だった。
「(理不尽な世界だ、相変わらず)」
願ったことは叶えてくれないのに、願わないことばかり叶えてくれる。無理難題な無茶苦茶な試練ばかりを提示して、何の策も思い浮かばないのに助けてなんてくれない。
鬱屈した思考が煩わしく、本鈴の音を契機に結局空いたままの席を見やりながら授業の用意を整えておく。
友人たちが来るにしろ来ないにしろ、一限の授業はあるのだ。世界は千尋が背負った使命程度では揺らがないのだから、この程度の誤差で流れが変わったりはしない。
教室へ入ってきた担任の姿を視界におさめ、もう習慣化した号令の声をかける。途端に周囲で賑やかに飛び交っていた雑談が止んで椅子を引く音が室内を埋めた。礼、と声を張れば操り人形よろしく皆がそれに従う。
何一つ昨日と変わらない毎日の繰り返しは、哀しくなるほど平和的でいつも通りでそれなのにどこか遠い世界の出来事だ。
既に隔離されてしまっている、既に隔離してしまっている。もう戻れない日常の輝きに見惚れてしまう。
失ってから初めて気づいた普遍は、もう懐かしく思うほど手が届かない位置にある。
これからどうすればいいのか、なんて当事者である千尋にわからなければ誰にもわからない。
昨日は雪を安心させるために何も知らなかった頃と同じ振る舞いを心掛けていたが、夜翅たち従者の言う猶予期間を終えた今日からは一歩でも“日常”から離れた世界に踏み出せば戦場になるのだ。
怪我を負うだけならいいが、最悪待ち受けているのは死だ。悠長に悩む暇はもうない。
ルールで行動を制限されているとはいえ、咲希の従者が校内にいるのだから。
「(従者、姫を護る騎士みたいなものなんだろうけど)」
一般人がいる時には手を出せない決まりとはいえ、相手側の従者がいるというのに自らの従者がゼロというのは心もとないものだ。頼るつもりがないとは言っても始終警戒しないで済む場所があるというのはそれだけで心強い。
千尋の従者が存外薄情なのか、それともたまたまだったのかは本人たちに訊かなければわからない。
鬨の声が上がったからには皆それなりに動き出している可能性もある。夜翅も玲も透も優しいとか気配りが上手とかこまやかだとかそういう印象が根強いが、使命を果たすための準備を怠るような馬鹿ではない。昨日の短くも濃い時間で把握しているのでそこは疑っていない。
夜翅は疑うべもなく放っておけば自己犠牲すら厭わないお人よし。
玲は一線を引きながらも女の子には親切にするだろうフェミニスト。
透は喰えない性格だが親切心を見せてくれてはいる一番の食わせ者。
常識人がいないのが傷なのだが、いたらいたで混乱の種にしかならない。千尋が必要としている気配りや温和な性質も、これからの血なまぐさくなるだろう非日常を思えばいらないものだ。遠からず、捨てなければならなくなる。
あくまでこれから起こるのは殺し合いなのだ。そこに仁義はない、正当性もない。勝者に残るのは人殺しの汚名と、命を消したという罪悪感。
だから夜翅に問うたのだ。一番心優しそうで、誰よりも人の死に心痛めそうな彼に。
なぜ、逃げないと。
「――――」
担任の話が右から左にすり抜けていく。雑音のように、ノイズのように、終には効果音になって。
前から真面目に耳を傾けていた、ということではないのでそのまま聞き流すつもりだった。
黒板に白いチョークが走るまでは。
「……は?」
頭が真っ白になった。思考が停止した。呆然とした声がどよめきに消えた。
信じられなくて目を疑う千尋を嘲笑うように、大きく黒板に書かれた見覚えのある名前がやけに白々しく映る。
担任の「入れ」の声に扉が開いた。今見たものを冗談だと言える材料が欲しくてそちらを見るが、入ってすぐに視線があったそれは、並外れた容姿に頬を染めた女子ややっかむのも忘れて大口を開けている男子など歯牙にもかけずに艶やかな笑みを返してくる。
そのまますまし顔で教卓の横に立った少年――玲に驚きが消えうせ腹の底から笑いが込み上げた。
確かに転校生だろうとは思った。でも、流石に季節外れすぎるから、新学期からの転校生だろうと思っていた。
行動に移すのが早い、とかのレベルではない。最初からそのつもりで先手を打っていたのだ、彼らは。
「初めまして、それからよろしく。これが定番の挨拶かい?」
季節外れの転校生、神谷玲がセオリーに従う気はないと主張するように肩を竦めて見せる。ぶしつけに向けられる好奇の眼差しや見惚れる瞳に怯えもしなければ照れもしないその態度はふてぶてしく、退廃的な雰囲気の彼をよりいっそう周りから浮かせている。
協調性を見せない皮肉げな物言いに担任が渋い顔で玲に名前を促す光景は無駄な努力だと見えているのでなかなかに滑稽だ。
喉の奥で殺した笑みを目ににじませた千尋は、怒れる担任そっちのけで茶目っ気たっぷりにウインクをよこした玲に口ぱくで「ご苦労様」とねぎらう。
空席の椅子は埋まらない。クラスで一番仲のよかった友達ふたりが敵なのかもしれない。笑顔の下にずっと殺意を忍ばせていたのかもしれない。
そんな懸念は相変わらず否定できなかったが、何があっても味方がいる限り孤軍奮闘にはならないとそう思えるだけで負担は軽くなる。
いてもいいのだと、従者がいる限り心の天秤は保たれる。それはイコール、精神的に追い詰められるのはありえないという事実証明。戦いが始まる前に精神的に参るという可能性が減るということだ。
護り手を受け入れた時に最大限その忠誠を利用するのを決めたのだ、護られるのが嫌でも力をつけるその時まで傍にいることを許す。
――――それが、見返りなく護ってくれる彼らへの裏切りでも、いい。
負けないと、強くなると、改めて自分自身に誓いを立てる。
そうすることでしか、前に進めないと本能的に悟っていた。
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