③
そして、千尋が一方的な要求を迫られていたそのころ。
「お迎えにあがりました、姫」
「――は?」
残っていた雑務を終えて靴箱から靴を取り出そうとしていた咲希は、いきなり横合いからかけられた突拍子もない言葉にぽかんと口を開けていた。まじまじと大きな目で見降ろした先には、何の冗談なのか片膝をつく青年がいて面食らう。
ご丁寧にも恭しく俯いているためしっかりとは見えないが、綺麗な顔立ちをしているのは長い前髪の下から僅かに覗くパーツでわかった。瓏々と澱まず響く声は耳に心地よく、なじみのある音にすら感じられる。
感じられるが、それは安心する理由にならない。
「…………」
無言のまま、すっと片足を引いた咲希は凍りついた表情で青年を見下ろした。
見覚えがないのだ。少なくとも咲希の記憶の中にこのような男の情報はない。もし会ったことがあるのなら――仮にその姿形を忘れていたとしても――特徴的な姫という呼び方をする変わり者として記憶にいるはずだ。
変質者か、不審者か、人違いか。いずれにせよ、警戒に値する人物なのは疑う余地もない。
咲希が纏う張りつめた空気に気が付いたのか、それとも何か言葉が返されるのを待っていたのか。恭しく跪いたまま、青年が何の前触れもなく顔を上げた。
姫、失礼を。と直前に許しを乞う言葉が聞こえた気もしたが、気のせいだろうと判じて反応を返すことはしなかった。
青年の誠実さを秘めた静謐な瞳と咲希の冷え切った瞳が真っ向からぶつかった。ぴりっとひりついた空気が肌を撫でる。産毛がぶわりと逆だった。
一瞬だけ、何かが青年の瞳に重なった気がしたが、はっきりと掴む前に霧散してしまう。
「……誰?というか、まず立ってくれません?」
どれぐらいの時間がそのまま過ぎただろう。恐らく数秒か数分なのだろうが、永遠のように長く感じられた沈黙の末に、咲希はゆっくりと口を開いた。同時にそれまで醸し出されていた剣呑な雰囲気が消失する。残ったのは若干の警戒を秘めた刺々しさだけで、青年に対する敵意は根こそぎ消えていた。
心境に変化が生じたわけではない。見覚えのない青年が不審人物なのは確かなことなのだ。それでも、咲希は何の根拠もなくただ信じた。
青年の目に浮かんでいた誠実な光と嘘偽りのない彩りが、悪人のものではないということを。
さらに青年が咲希に害をなすことはないだろうということを。
本当に、何の根拠も理由もなく、直感で、無条件に信じたのだ。
そうとは知らない青年は、悪目立ちを嫌う咲希の勧めに数瞬迷いを見せた。何度か咲希の顔と自らを見やり、葛藤している様子だった。
「立って。早く」
「しかし、」
しかしも何もない。女子高生に跪く青年の姿の異質さを重々承知している咲希は、なるべく早く目の前の青年に立ってほしいだけだ。
やがて咲希の睥睨の視線からそのことを察したのか、軽く頭を下げてから青年は立ち上がった。
そうして見ると、随分と背が高い。今の日本人男性の平均より五センチ以上は上だろう。
「
青年――慧斗が名乗った。姫、という呼称に咲希の頬が引き攣る。
「……いろいろ物申したいことはあるけど、とりあえず、どうして咲希を姫と呼ぶの?人違いではない?」
「はい。
ひとかけらの逡巡もなく返された回りくどい返答に、咲希は頭が痛むのを自覚した。
どうやら慧斗にとって咲希は間違えようもなく姫と呼ぶべき対象らしい。だが、今の時代、ごくごく一般的な家庭で生活してきた者が姫のはずがない。それに、姫と言う呼び方が文字通りの意味ではなかったとしても、大仰すぎる呼称を呼ばれる心当たりが咲希にもないのだ。
本来ならにべもなく人違いだと言ってしまいたいところだったが、慧斗の顔を見て諦めた。ひたむきに据えられる誠実そうな目が、それを口にするのをはばからせた。違うと言っても、違わないと返されるだけなのが目に見えていたのもある。どちらにしても、何をもって姫と定義して呼ぶのか不明である以上、簡単に否定してしまうのは間違っている気がした。それに、いたずらに人を傷つける必要もない。
さて、どうしたものかと目を伏せた咲希は、靴が廊下を打つ音を聞きとがめてはっと反射的にそちらを見やる。
氷の美貌、と表現するにふさわしい冷徹そうな印象の生徒がすぐ近くの靴箱にもたれかかっていた。
ネクタイピンの色から先輩にあたる人だと見て取った咲希は、今の常識はずれな会話の応酬を聞かれたのではと身構える。
真っ向から視線がぶつかった。その瞬間、やはりさきほどと同じように心の琴線に何かが引っ掛かった気がしたが、雲をつかむのと大差なくすぐにその感覚もなくなった。
誰?と慧斗にした問いを再び重ねるべきかどうか思案した咲希だったが、それよりも先にその生徒の陰からもうひとり出てきたのを見て取り、それが顔見知りであるのを認めると今度こそすべての警戒を消した。
「蓮咲」
「……悪い」
困惑が伝わったのか、同じクラスの
「なんだ、蓮咲の知り合い?」
「……お前な、訊きたいのはそれじゃないだろ?」
胡乱げに問いかけた咲希に稀紗羅が腕を組むと目を閉じてため息混じりに切り捨てる。張りつめた空気がなくなってもなお無駄な問いを続けるのかと言いたげな声音に咲希は肩を竦めた。
知り合いなのかなど、問うべくもなくわかるものだ。苛立つ気持ちもわからないでもない。
「おい、お前」
口を噤み視線を逸らした咲希を低く艶のある声が上から目線で呼ぶ。有無を言わせない力強さに嫌々顔を向けた咲希は、何、とぶっきらぼうに吐き捨てた。
「どこまで知っている」
「……何を?」
主語のない意味不明な質問に咲希は疑問符を返す。
姫と呼ばれる理由なのか、彼らにまつわることなのか、それともこれからのことなのか。それさえも咲希にはわからない。わかる術がない。
だから一つだけ答えを返すとしたら、何もわからないが適切だった。
「
助け舟なのか稀紗羅が口を挟んだ。
桜祈と呼ばれた先輩が無言で稀紗羅を射抜く。その目に宿る背筋が凍えるほどの冷たさは氷点下よりも低い。向けられたのが自分ではないと言うのに、咲希は気が気ではなかった。
とは言え、怖くはなかった。
むしょうに苦しく、哀しいだけだった。
「こいつの姉も、何も知らないよ」
「……待って。あいつも関係あるわけ?」
姉、という言葉に反応して稀紗羅を睨みつけた咲希の前に桜祈が滑り込む。いつの間につかまれたのか捉えられた左腕が鈍く痛んだ。
苦悶に微かに顔をゆがめた咲希を暖かみのない目で見据えた桜祈が酷薄に言う。
「お前が何を思っているかは関係ない。姉を敵に回す覚悟さえあればな」
「……ほんとに待って。時間がかかってもいいから、ちゃんと初めから話して。何の話?」
「知る必要のないことだ」
言いたいことだけを言って手を振りほどいた桜祈が稀紗羅と慧斗に一瞥をくれる。たたらを踏むのを何とかこらえた咲希は異変を感じて周囲を見渡した。
慧斗がすっとその横に並ぶ。
「姫、御安心を。明日が来るまでは、誰も御身に手出しはできません」
「いや、だから」
本当に何の話だと何度目になるのか数えるのも億劫になりながら懲りずに繰り返した咲希の頭に稀紗羅の手が乗る。
「説明してやるよ。いいな、桜祈」
「……好きにしろ」
ただし、訊いたら今度こそ戻れないからな。
厳しく言い渡す声が、無人の廊下に木霊した。
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