放課後。

 登校時とは違い、夕焼けに染まる道を千尋はひとりで歩いていた。いつもなら一緒に下校するようにと口うるさく母親に言われているので咲希と帰るのだが、生徒会での仕事が終わっていなかったらしく時間がかかるから先に帰れと言われたのだ。もともとすぐに帰路へつけないようなら置いていくつもりだったので、連絡ミスの指摘だけをした千尋はあっさりと待つのをやめて帰路についた。

 久しぶりにひとりで歩く通い慣れた道は、未知のものに思えた。鳥の鳴く声が響くだけで人通りはなく、まるで世界に独りきりになったかのような覚束なさを思い起こさせる。そしてそれは、不思議なことに朝方視線を感じた辺りに近づくにつれて強くなった。

 明瞭にならない感情に、次第に不愉快さが募った。思わず違う道を通って帰ろうか、と普段なら浮かばない発想が千尋の頭に浮かんだ。

 逡巡したのは、時間にして一秒に満たない程度。だが、その一秒が命運をわけた。

「こんにちは」

 優しげな声が、前方からかけられた。誰に向けられたのかわからないものの、人通りのない坂道だ。恐らく自分だろうと顔を上げた千尋は、面識のない少年ふたりと青年が数メートル先からそれぞれ視線を投じてきているのに気づき眉を顰める。

 少年たちが着ているのは千尋と同じ学校の制服だ。指定のネクタイピンの色からひとりは二学年上か来年入学のひとつ下、もうひとりは同学年だと推測できたが、どちらも見覚えがない。青年に関して言えばもっと手がかりはない。総じて何かのタレントかと疑うぐらい目鼻立ちの整ったタイプの違う美形、としか判断ができなかった。

 学校で噂に訊く美形は同じ学年と年上がひとりずつだったはずだ。同学年の方は咲希と同じクラスで千尋とは委員会で面識がある。年上の方は冷酷を絵に描いたような美貌だと聞いた。だから、彼らが噂の主では断じてない。

 少年ふたりは転校生、だろう。たぶん。転校生にしたって随分と季節外れのため、自信はないが、心当たりはそれぐらいだ。

 さぞかしもてるだろう文句なしの美貌を前に、しかし千尋の心は弾まなかった。世間一般にもてようが、騒がれるほどの美形だろうが、千尋からしたらあまり関わり合いになりたくない人種なのだ。

 もてるということは目立つということ。騒がれるということは話題の渦中にいる存在だということ。

 そんな者たちと接点を持っても、千尋には何の得もない。

 胸の内でそんなことを考えているとは微塵も考えさせない微笑を浮かべながら、さりげなく千尋は三人から距離をとった。

「私に何か?」

 言外に「君たちは誰?」と滲ませたよそよそしい声音に、身をすくませていた年下の少年がひらりとてのひらを差し出す。

「僕は、氷哉夜翅です」

「…………こおりや、やはね」

 初めまして、と何故か泣きそうな顔をして少年――夜翅が手を出した。

 意味が解せず、名前をおうむ返しに繰り返した千尋だったが、唐突に握手を求められているのだと気づいてその手を握り返した。見た目に反して意外にも硬い掌はいくつもの修羅場を知っていそうだ。何となく、そんなファンタジーめいた思考が千尋の頭をよぎる。

「オレは神谷玲かみやあきら。よろしく、綺麗な姫君」

「――――姫?」

「そう、あんたのことだよ」

 いつの間に近くまで来ていたのか。不意に肩を引っ張られて抱き寄せられた腕の中、耳を疑う呼称をかけられた千尋は突き飛ばすのも忘れて玲と名乗った少年を見上げる。

 意味深く意地悪にくすぐる声に潜む底知れない感情が向けられているのが自分であるということに、いまいち実感がわかない。というか言葉が胡散臭い上にうすら寒い。

 とりあえずとばかりにするりとその腕の中から逃れた千尋は、いまだ名乗らない青年を鋭い目で射抜いた。

 くすりと青年が笑い声を漏らして大仰なしぐさでお辞儀をした。深々とした、最敬礼。

「姫、私は汀透みぎわとおるです」

 お前も姫呼びか。

 以後お見知りおきを、と締めくくった透に突っ込みたい気持ちを全力で抑えた千尋は愛想笑いをやめて目を細める。

「――じゃあ、次。私に何が言いたいんですか」

 はっきりとした甘さのない声の質問に、すぐに返答は返らなかった。言いたくないとばかりに落ちた沈黙に千尋は鞄を地面に置くと待つ体制に入る。

「ええと、言いにくいんだけどね」

 やがて代表するように夜翅が困った風に首を傾げ、瞳を曇らせた。深く吸い込まれてしまいそうな澄んだ眼差しが悲しげな光を灯して揺れる。痛ましげに染まったその双眸に浮かぶ確かな謝罪の念に、不思議と警戒はわかなかった。嘘を言おうとしている、とも思わなかった。

 しかし、決して好ましい内容でもないのだと、慌てて自らに言い聞かせた千尋は視線を逸らすと唇を噛み締める。

 見ず知らずの人間がいったい何を言おうとしているのか、正直予測はつかない。ただ、どうしてだか、聞きたくないと反射的にそう思った。

 聞いてしまえば、今日には戻れない。昨日までの時間は流れない。

 勘の鈍い千尋にもはっきりとわかる。それぐらい強く嫌な予感を抱き、だが千尋は逸らしていた視線を躊躇いもなくまっすぐに戻した。

 ひゅう、と感心したように玲が口笛を吹く。

「ふふっ、お前みたいな女、オレは好きだよ。強く、気高く、優しい」

「……戯言を聞く気分ではないけど?」

「いいね、その目。星屑を散りばめた瞳だ」

 人の話を聞いているのかいないのか、マイペースに戯れの言葉をささやいて玲が微笑む。もし、今その微笑みを見たのが千尋ではなく人の美醜に興味のある者だったならば、恐らくその妖艶さに魅せられていただろう。

 それぐらい、文句なく美しい微笑みだった。

「玲、それぐらいに」

 それまで成り行きを見守っていた透が一歩前に出る。ゆるく束ねられた髪がふわりと一瞬風に乗り、浮世離れした印象を強める。

 ぞくり、と千尋の肌が泡立った。それは何の根拠もない直感に過ぎなかったが、強制力を持って体を巡る。

 怖い人、と抑揚に欠けた声音で言ったのが届いたのか、穏やかな笑みを浮かべた透がそっと千尋の頬に触れ――顎をつかむと無理矢理上向ける。

 完璧な笑みを保った顔の中、人の良さそうな目だけが笑っていなかった。

「敵対して下さい、姫。あなたの妹とその従者と。命を賭けて」

「――え?」

 とっさに払いのけようと動いていた千尋の手が空中で止まる。切れ長の瞳が信じられない言葉を耳にして、恐怖からではなく意味を理解し損ねた幼子のように小刻みに震えた。

 それを目にした夜翅がつらそうに視線を逸らした。あれだけ妖艶に微笑んでいた玲の顔からも笑みが消え失せる。

 透の言葉を、否定する者はいなかった。質の悪いことを、と笑い飛ばす者もいなかった。

 それができるはずのふたりは黙り込んで、ただ千尋を見ていた。

 呆気にとられて停止した思考のまま見返す千尋に透が残酷にも繰り返す。

「敵対して下さい、姫。あなたの妹とその従者と。命を賭けて」

 それがあなたの役目だと。

 不可解な言葉を添えて。


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