指先の想い出(マリー編)
若林亜季
指先の想い出(マリー編)
マリー・フォン・ブラバン。それが私の名前だ。北の丘陵地にある広大だけど痩せた領地を持つ、貧しい男爵家の長女である。
お母様は立派な領主だったが、私を産んだ後に亡くなった。婿養子のお父様は私が一歳の頃に平民出身のお義母様と再婚し、私は新しい家族と共に育った。お義母様や異母兄弟たちは優しい人々だったが、領地の運営は段々と厳しくなり、作物もあまり取れなくなってきた。今や両親は領民と共に農作業に励む日々だ。
いずれ領主となる私は、幼いころからハーブを育てることに夢中だった。そして、前世で六十代で亡くなった老女の記憶を頼りに、領地の土壌改良に取り組んできた。そう、私には前世の記憶があったのだ。
十四歳で土壌改良の論文を国に提出し、その成果が認められ、特別奨学生として王都の王立学園に十五歳で入学することができた。未来の婿を見つけるために入学して三年、卒業まであと三ヶ月。まだ友達もいない。当然、マリーが理想とする前世の夫に似た人には、まだ出会えていない。
***
「キャー。エリヤス様よ。今日も麗しいわー」
今日もエリヤス様はモテモテだ。前世の夫に似た名前だったので学院に入学してすぐにチェックしたが、全く似ていなかった。それに、もし中身が前世の夫であっても、あんなふしだらな人はお断りだ。
黄色い声が響く中、私は家政の課題である刺繍に取り組んでいた。卒業試験では勉学の成績はトップだった。しかし、家政の実技で苦戦していたため、先生が追加課題を出してくれたのだ。
「はあ。刺繍ができなくても困らないのに……。お義母様や妹は器用だし、領が豊かになってお針子さんに頼めばお金が回るから、それはそれで良いんじゃないかしら」
段々とギチギチと通りにくくなった針を布から無理やり押し出し、刺繍糸を思い切り引っ張った。図案がもう歪になっている。これ以上やっても綺麗には仕上がらないなと思い、針を裁縫箱にしまおうとしたその時、フェンシングの真似事をする男子生徒たちの誰かがぶつかり、刺繍枠ごと地面に落としてしまった。
「あっ!すまない。大丈夫だったか?」
私は急いで拾いあげようとするが、ぶつかった人の方が早かった。彼は、まじまじと刺繍を見つめていた。そこには金髪碧眼の美青年がいた。エリヤス様だった。
「ちょっと汚れてしまったね。弁償するよ」
「いいえ。結構です。洗いますので、ご心配はいりませんわ」
下手な刺繍を見られてしまい恥ずかしかったので、少しつっけんどんになってしまった。私はこれ以上目立つのは嫌なので「失礼いたします。ごきげんよう」と、さっさと挨拶をして教室に戻った。
エリヤス様なんて全然タイプじゃないのに、胸がドキドキする。前世でステレオタイプの王子様の刷り込みがされていたのかもしれない。
私はブラバン領を立て直すために、サポートをしてくれる誠実で心優しいお婿さんを見つけるんだ。あんな王子様のような人が私みたいに地味な女の所に、お婿さんに来てくれるわけがない。
マリーはとにかく地味なのだ。小柄で痩せぎす。黒髪は真っすぐで三つ編みにしておさげにしている。瞳もこげ茶色。肌の色も黄味がかっている。鼻も口も小さく、主張がない。日本の「
翌日の放課後、同じSクラスのニルス様から声を掛けられた。三年間同じクラスだが、こんなことは初めてだ。
「マリー嬢。ちょと尋ねたいことがあるのだが」
「はい。ニルス様。何でしょう」
彼の婚約者のナタリー様の視線がこちらに向いている。
「いやー、ちょっと聞きにくい事だから外に出ないか?」
「いえ、こちらで大丈夫です」
私には、何も隠す事は無い。ナタリー様にやきもちを妬かれる方が面倒だ。
「君はたしか長女で爵位は君が継ぐんだったか。それで婿を取るのか? 婚約者はいるのか?」
「……まあ、婿取りを希望していますし、婚約者もおりません。でも、なぜそんなご質問を?」
「ああ、あの、君に一目ぼれした奴がいるんだ」
教室がざわめく。そうだろう。三年間いるかどうかわからない地味な貧乏男爵家令嬢だ。こんな卒業前に顔つなぎをしてほしいなど、よっぽど窮地に追い込まれている人としか思えない。
「ご冗談ではありませんか?」
「冗談じゃないよ。昨日からエリヤスが、アレは誰だってうるさいんだ。一回会ってみてくれないか?」
教室内が一瞬にして無音になった様に静まった。
「エリヤス様が? あの、毎日どなたかに告白されているとか、毎日連れて歩く女の子が違うとか、毎週末お姉さま方と怪しいパーティーに出席し、ドレスを脱がすのも着せるのも上手だとか、髪結いが上手で帰ってきた時の方が綺麗にまとまってるとか、そんな噂のあるエリヤス様が、私なんかに興味を持たれるわけがございませんもの! やはりご冗談だとしか思えません!」
その時、ナタリー様が隣に来られた。
「マリー様。エリヤス様のあなたが聞いたような噂は、色々嘘が混じっていてよ。三男でEクラスで剣術が好きではないエリヤス様が、この時期に婚約者がいらっしゃらない事で察してあげてはいかがかしら?」
違うクラスだとは分かっていたが、Eクラスだとは知らなかった。学園は成績順でクラス分けがされていて、S、A~Eの順となっている。ナタリー様は、勉強も剣術もできない伯爵家の三男のエリヤス様は意外にモテないとおっしゃりたいのね。
「では、ナタリー様もご一緒していただけるなら。お会いするくらいは構いません」
ナタリー様はいつもはツンと澄ましたような美しいお顔をほころばせた。三年間同じクラスだったけど、こんなにかわいらしい笑顔をされるのねと私は驚いた。
「よろしくてよ! そうだわ! ニルス様、集団デートにいたしませんこと?」
「いいね! 明日は休みだし、いつものカフェの二階を貸し切りにして楽しもう!」
予定はマリーの都合も聞かずドンドン決まっていく。流石、上級貴族は違うなと私は思いながら、発言するために手を上げた。
「あのー。ご存じの通り、貧乏男爵家ですのでカフェに行くようなお金も洋服も持ち合わせておりません」
「まあ、そのような事はご心配には及びませんわ。ニルス様とデートする際はいつも二階は貸し切りにしておりますし。ね。ニルス様、良いでしょ?」
「もちろんさ。楽しみだね」
「では、マリー様。明日、午前十時に寮にお迎えに参りますわ」
ナタリー様は笑顔でニルス様と帰って行かれた。つ、疲れた……。
半信半疑だったが翌朝十時に制服を着て待っていると、侯爵家の立派な馬車が迎えに来た。侯爵家に着くと、使用人と一緒にナタリー様がお出迎えをしてくれた。思っていたより気さくな人なのかもしれない。
そして、現在は侯爵家の広い浴室の中。マッサージルームにいる。
「ふぁあーー! なんでマリー様がこんなにマッサージが上手なんですの?」
「うふふ。なんででしょうねー」
前世の記憶の中で私はマッサージの資格を持って、夫と共に働いていた。
侯爵家の侍女さん達には悪かったが、二人でマッサージを受けた後、私がナタリー様にストレッチとツボ押しを施術したのだ。血行が良くなっていたので効果的だったのだろう。
「あら、ずいぶん肩が軽くなったわ!」
「ええ、ナタリー様の豊かなお胸はたいそう重いでしょうから。肩こりは大変ですよね。体操をお教えしますね。バストアップにも効果的ですよ」
「まあ、あなた。美容にも造詣が深くていらっしゃるのね。お堅くて私たちのように美容やおしゃれのお話をするのを嫌がられているのかと思っておりましたのよ」
三年も一緒のクラスだったのにお話できなかったのは私が見た目に気遣わなかったからか? 貧乏が憎い。
ナタリー様や侍女さんたちとマッサージ談議をしながら、髪を結ってもらい化粧をしてもらった。
艶々になった黒髪はハーフアップにしてもらい、ナタリー様の妹君のオリーブグリーンのワンピースを借りることになった。十一歳の服は十八歳の私にあつらえたようにピッタリだった。
おしゃれで豪華な貴族向けのカフェの二階は広いサロンになっていた。
ナタリー様が皆様を紹介してくれた。
「私はナタリー・フォン・アネートですわ。こちらがキールマン伯爵家の長男ニルス様、ルッツ伯爵家長男のパウル様、その婚約者のエレオノール様、ツァンダー伯爵家の次男アントン様、その婚約者のアーマリア様ですわ」
皆様、優雅にお辞儀をして微笑んで挨拶をしてくれる。
「そしてこちらがエリヤス・フォン・キルシュ様。キルシュ伯爵家の三男。ただいまお婿入り先を探されている様なの」
エリヤス様は慌てて立ち上がり挨拶を始めた。
「よ、よろしく。マリー嬢。今日は本当にこのお茶会を楽しみにしておりました。今日も、その、可愛い……」
美しい顔を紅潮させて私を見つめる。なに? あなたの方が美しいうえに可愛いですよ。
ナタリー様たちは興味津々で見守っている感じだ。何となく、私とエリヤス様のお見合いのお茶会のようにも思えた。
初めは新作スイーツをいただきながら、ナタリー様のリードで領地の話などをした。
ナタリー様とニルス様は結婚後、領地を流通の街にして更に大きくし、流行を自分たちで作り出したいと考えているそうだ。
エレオノール様は、美容や健康に熱心な学園の1年生。婚約者のパウル様は領主になるため医師の夢を諦めた。そのため自領に総合病院を設立し、医療・健康・美容に関連するサービスが充実した領地にしたいらしい。
アントン様とアーマリア様は剣術仲間で、アーマリア様は騎士学校を卒業後、アントン様の実家のツァンダー伯爵家の騎士団に所属しているそうだ。アーマリア様は美しい姿勢や切れのある動き以外は、美しい令嬢にしか見えなかった。
エリヤス様はケーキを咀嚼する姿も美しい。観賞用には良いねって言われているのは納得する。皆から促されてエリヤス様は自己紹介をした。
「名前はエリヤスって呼んでくれ。伯爵家の三男。昨日、君は大声で俺のふしだらな悪口を言っていたそうだが、半分は嘘だから! 恋文は一週間に一~二回もらうし、ファンクラブの子が毎日日替わりで隣に来るが、俺は女の子と付き合ったことも無い。ましてや年上の女性との関係も無い! 俺が器用なことを知っている兄やその悪友たちがドレスの着付けと髪結いを依頼してくるだけだ」
ナタリー様たちは、それぞれの婚約者への疑惑の眼差しを向け、男性の皆様は必死の形相で否定している。
「あ、こいつらは婚約者一筋だから。俺も、婚約者が決まれば絶対浮気などはしない」とエリヤス様のフォローが入る。
アントン様は眉をしかめながら言う。
「エリヤスは女性に追いかけられすぎて、女性不信なんだ。少し好意をもった令嬢からは『嫡男のほうが良い』とか『守ってくれる逞しい人が良い』とかで振られてばかりなんだ。そこでだ。マリー嬢。君のタイプの男性はどんな人かな?」
私は理想の男性のお話しをした。
「お婿に来ていただけて、私の代わりに家の家政を取り仕切っていただき、領民を大切に思ってくださる方がいいですね。一応のマナーを習得されていて、健康で丈夫であれば、年齢や容姿や成績や剣術の技術等は問いません。浮気は生涯せずに、私だけを愛していただきたいです。あと、お仕事はしないでも大丈夫ですし、お好きな事をされてもかまいません。でも貧乏ですので、派手な遊びや設備などへの投資はできません。贅沢を言うなら、疲れて帰ってきたときに甘やかしてくださる方が理想です」
ナタリー様たちが言った。
「何も求めていない様で、とても難しい条件ですわね……」
ビシっと挙手をして立ち上がったエリヤスが胸を張って言う。
「俺は勉強は下の中だ。ダンスとマナーとピアノはまあまあだとは思っている。剣術は苦手だけど、走るのは好きだ。特技は刺繍とレース編みだ。料理も筋が良いと言われた。健康で丈夫だし、君だけを愛するし、毎日ドロドロに甘やかしてやる! どうだ?」
どうだ、と言われたら「あり」よりの「あり」なのだが、何と答えていいかわからない。マリーが、もじもじしていると、ナタリー様がエリヤス様と目くばせをされていた。
「そうそう。マリー様の刺繍の課題の事、エリヤス様にお伝えしましたの」
やめてー! 個人情報ってこの時代無いのかしら。まあ刺繍が下手なのは知られてるけどね。
エリヤス様が輝く笑顔で提案してきた。
「良かったら、刺繍を教えてあげようと道具を持ってきたんだ」と、バスケットを取り出した。
冗談じゃない。皆の前で恥ずかしい思いはしたくない。
「本当に下手過ぎて、皆様には見せられません」
ちなみに男性が刺繍やレース編みをするのは決して特別な趣味ではない。美的センスを磨くためとか、集中力を身に着けるためなどと言われている。
「じゃあ、こちらのソファで二人で刺繍すればいいじゃないか。我々は、こっちで話しているから」
「そうね。誰も見ない事をお約束しますわ」
「ああ、店の者に頼んでついたてを持ってこよう」
皆さま押しが強い。上級貴族ってやっぱりこんななのね。昨日から振り回されっぱなしだ。あっという間に準備がされてしまった。
ソファに並んで座りなおす。エリヤス様から良い匂いが香ってくる。王都で流行っているムスクだろう。良い匂いだと思ったが、前世の夫なら絶対に選ばない香りで頭の中が冷静になった。この人にドキドキしているのは、王子様の様な美形が近くにいるからで、恋愛の好きではないと私は思うことにした。
エリヤス様の刺繍の指導が始まる。外野は穏やかな歓談が続いている。
「マリー嬢。糸の準備は大切だよ。面倒臭がらず、一本一本解して癖を取って丁寧にね」
私のガサツさがばれてしまいそう。エリヤス様が初歩から丁寧に教えてくれる。
「ああ、マリー嬢。刺繍枠にセットする時にはもっとピンと張らないと」
緊張からか、今日は中々上手に張れない。いや、不器用だからいつもなのだけど。
「僕が引っ張ってあげるから、マリー嬢は枠をはめて締めて」
あ、エリヤス様の指。前世の夫の指にそっくりだ。何故か剣術も得意ではないと言っていたのに手はごつごつと大きく厚い。まるで農夫の様だ。そして親指は特に長さが短く、爪が縦より横に長いので更に指先が丸く見える。マムシ指だ。
前世の「先生のマムシ指が良いところを解してくれるんだよね」と、常連の患者さんの声が蘇る。
「初めにサテンステッチをしてみようか。うん。花びらの中心から外側に向かって刺繍して立体感を出すんだよ」
エリヤス様の見本の刺繍は、あっという間に赤いバラが咲いた。私の刺繍は、不器用だから針が出るところが一定の距離にならないのよ。あ、でもなんか針が良いのか刺繍の枠の張り方がいいのか、いつもよりスムーズにできている様に思う。
「そう。ゆっくりでいいから、出してゆっくり引っ張って。待って、引っ張り過ぎたらダメだよ」
エリヤス様の声って甘いのね。耳の中で溶けてしまいそう。
「葉はフィッシュボーンステッチで表現するよ。これも中心から外側だよ。よく見てね」
ああ。近い。金色のまつ毛が下を向くと瞳に影を作る。綺麗な宝石を飾る繊細な金細工みたいだなと思う。容姿なんて関係ないと言い張ってたけど、目が離せない。美しいのは罪ね。
「っつ!」
「あ! 大丈夫?」
近くにある美しいエリヤス様の顔に気を取られていたら、思いっきり指を刺してしまった。紅い血液がぷっくりと玉を作る。刺した指を手に取り心配げに見ていたエリヤス様は何を思ったか、私の指を口の中に含んでしまった。
「!!」
エリヤス様は美味しいモノを食べた時のように満足気に目を細める。エリヤス様の口の中が熱い。柔らかく、湿った舌の感触。くちゅっと音を立てて口の中から出てきた指を呆然と眺めた。
あまりに衝撃的な光景を目にした私の頭の中に、神様の声の記憶が蘇る。
「お前たちの願いを聞き入れよう。善良な夫婦よ。最期の願いまで一緒とは……」
マリーの頭の中に真理の記憶が流れ込む。その記憶の中のほとんどを占めるのが前世の夫との記憶だ。
夫は盲目の鍼灸・あん摩マッサージ指圧師だった。私は彼の後輩として入社し、二人は恋をして、結婚した。二人で独立して小さいながら自分たちの鍼灸院を建てた。日々研鑽し、他県の患者さんも来るようになった。子どもは二人。夫と共通の趣味は庭で育てるハーブ。私は元来の不器用さもあり、経営の方が得意だったようだ。全国に分院を作った。その中で夫はカリスマと言われるようになる。最期は講習会を開いた帰り真理の運転する自動車に、居眠り運転のトラックが衝突した。痛みで意識が遠のく中、盲目の夫の手を取ったのが真理の記憶の最後だ。
エリヤスがマリーの顔を見つめる。そしてそっと目を閉じて、マリーの顔を触ってきた。ああ、真理が大好きな働き者の夫の手だ。
確認するように両手で顔を包まれた。瞼を両の親指が優しくなぞる。耳を指で挟み耳介に沿ってはわせ耳朶を押して弾力を楽しむ。頬を優しく引っ張る。痩せていても真理の頬が伸びるのを夫は気に入っていた。顎の尖りを確認した後、唇を少しかさついた親指の腹でそっと触れられる。マリーははキスされたかのようにウットリとエリヤスを見つめていた。エリヤスの手は、首から肩の先までを大きさや厚さを測るように往復する。
マリーは確信した。これは前世の夫だ。目を瞑る。抱きしめられ、抱きしめ返す。前世の夫の様に同じ身長ではないから胸に顔を埋めることになる。大きく匂いを吸い込む。似合わない香水の奥に、夫の体臭を嗅ぎ取り安心した。マリーの背中を何往復もしたエリヤスの手は、私を抱きしめたままセットした髪の中に指を差し込み、丸みを愛おしむように優しく撫でた。
「マリ……。真理だろ?」
「はい。
「ああ。やっと会えた……」
「現世でも出会えるなんて。私たちはなんて幸せ者なのかしら」
きつく抱きしめ合う。二人の熱を孕んだ視線が絡み合う。マリーは目を閉じ顎を少し上げる。エリヤスの顔の熱を感じる。
「「「「「「ストオォォォープッ!」」」」」」
ついたての横から顔だけ出した六人の野次馬は、全員顔を紅潮させてなだれ込む。そして一斉に自分の思っていることを話し出す。
「なんということだ! 婚約者にもなってないのに、あの触り方! 私だってまだあんなにナタリーを触ったことなどないと言うのに! 順番が違うぞ!」
「エリヤス様、破廉恥ですわよ! マリー様は怖くて動けなかったのですのよね? ロマンス小説みたいで見入っちゃったけど!」
「エリヤス! お前は童貞だったのではないか? 女が苦手だって言っていたじゃないか! なんだその余裕のある絶妙なタッチは。今度私にも教えてくれ!」
「キャーッ! 素敵! 大人だわっ。マリー様って見た目より積極的ですのね。エリヤス様のリードが上手なの?」
「お前はまだ卒業もしていないのに手を出すなど、紳士にあるまじき行為! 責任を取るべきだぞ」
「なんと、まあ。ウットリする程ロマンチックだわ。はあ。何か、私まで熱くなってしまったわ……」
凄くうるさい。一斉に注目されていることに気付き、今の状態を冷静に振り返る。そして、もう離さないという風に隙間なく抱きしめられている今の状況を理解する。
マリーの頭の中が沸騰したように熱くなり、膝から力が抜けるのを感じる。意識が遠のいていく中で、最後に聞こえたのはエリヤス様のマリーの名前を呼ぶ声だった。そして、暗闇に包まれた。
マリーが気が付いた時には、六人には私たちが前世で夫婦だった事の説明は済んでいた。そしてエリヤス様が前世、盲目の「
***
私たちが学園を卒業してもう十年たった。
私とエリヤス様はあのカフェではっきりと記憶を取り戻した後、すぐに婚約し、卒業と同時にブラバン領にお婿さんとして来てもらった。
お父様やお義母様や異母兄弟たちはマリーが領主になると、領内でのんびりとマリーの事業を快く手伝ってくれた。
私は国から派遣された技術者と共に、ブラバン領の土壌改良を成し遂げ、ハーブを特産とした領地づくりに励んだ。今ではブラバン領を貧乏領地だと言う人はいない。ブラバン領はハーブの一大特産地として、そして広大なハーブ園のある観光地として、さらに貴族の保養地や庶民の湯治場として知られるようになったからだ。
ニルス様とナタリー様にはブラバン領で商会を立ち上げる際には大いに助けられた。ナタリー様は「よろしくってよ! 各種ハーブには購入時に料理人向けの簡単なレシピを1つだけ付けて差し上げていますの。それを気に入った方が他のハーブやレシピを沢山購入されますのよ。マリー様の研究ノートやレシピ本は金の卵を産む鶏でしてよ!」と国を巻きこむハーブブームを引き起こした。
パウル様は、エリヤス様やマリーと共に「鍼灸・あん摩マッサージ指圧の教科書」を書いた。そしてブラバン領内に鍼灸・あん摩マッサージ指圧の学校を建て、鍼灸・あん摩マッサージ指圧師を養成した。今ではエリヤス様とマリーの弟子たちがルッツ伯爵家の医療やリハビリや美容に携わっている。
その他は、ナタリー様の逆子をなおしたり、エレオノール様のお母さまに施した美容針や小顔矯正でマリーが「ゴッドハンド」と呼ばれるようになったり、アントン様のEDで不妊に悩むアーマリア様ご夫婦が定期的に休暇に来られて三ヶ月目に妊娠されたり……色々な事があった。
とにかく、ブラバン領は大きく飛躍した。マリーは母を越える立派な領主と称えられ、エリヤス様はこの国でも「カリスマ針きゅうあん摩マッサージ指圧師」になった。
***
保養に来ている王族の施術をした後帰宅し、疲れたエリヤスはソファに深く座り込んでいる。私は夫の隣に座り、そのごつごつとした厚い手を握り、丸く短い働き者の親指にキスをする。
「あなたの指が大好きだわ」
「指、だけかい?」
意地悪そうに微笑むエリヤスを軽くにらむ。
「私がエリヤスの事が全部大好きなのは知っているでしょ? 前世でも、現世でも、あなたはどちらの世界でも素敵だもの。どちらでもあなたの妻になれるなんて奇跡だと思うわ。でも神様ってケチだと思うの。また康さんに出会えるなら、私もゴージャスな美人にしてくれたら良かったのに」
私は転生させた神に文句を言った。
「俺は盲目の時に気付いたんだ。人の美醜なんて所詮、皮一枚、数ミリの骨の大きさや長さなんだって。俺には、指先の想い出が何よりも大切なんだ」
エリヤスは私の骨ばったインクの染みがある指先にキスを落としながら言った。私は問う。
「指先の想い出って?」
「真理は僕が醜いのに前世とても愛してくれただろう? そしていつも励まして支えてくれた」
「そんな! 康さんは素敵だったわ! 康さんの顔も体形も、私にとっては今のエリヤスと大して変わらないもの」
「俺の指先はとても敏感で、記憶力が良い。真理とマリーは身長も体重も顔の形もほとんど一緒なのも分かる。
だが、俺の前世は、目が見えない上に、ごつごつした顔の輪郭、小さい目、低く大きい鼻、大きく厚い唇。身長も真理とあまり変わらなかったし、凄いがに股で短足だったしね。なのに心から愛してくれた。
だから、死ぬ直前に神様にお願いしたんだ。『また、真理と夫婦にしてください』って願った。そしたら神様が『お前は目が見えない。来世では目が見えるようにしてあげよう。そして互いがすぐわかるように、互いに抱いているイメージで転生させてやる』って約束してくれたんだ。真理が俺を王子様みたいに思っていたなんてびっくりしたよ」
「当然よ! 康さんは私の王子様だったもの。だから些細な事で落ちこんで欲しくなかったの。貴方が美しくても、世間一般の美意識に当てはまらなくても、私は貴方を何回でも好きになるわ。私を迎えに来てくれてありがとう」
エリヤスとマリーは、ごつごつとした厚い手と骨ばったインクの染みがある手をしっかりつないだ。
【 完 】
指先の想い出(マリー編) 若林亜季 @mizutaki0215
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