エピローグ
新世界チャンピオンになって数日が経った。
新堂はいつものカフェで彩音と待ち合わせていた。
店へ行くと、すでに彩音が来ていた。コーヒーを傍らに難しそうな本を読んでいる。
「待たせたな」
声を掛けると、彩音が笑った。
「世界王者になったのに、なんか全然変わらないよね」
「そりゃそうだろ。同じ人間なんだから」
席に着くと、新堂もコーヒーを頼んだ。店員は目の前の男がボクシングの世界チャンピオンだと気付かないのか、特に変わりなく接してきた。周囲の人間も新堂が何者かに気付いている様子はなかった。
世界を獲ってから同じようにこのカフェで会った理由……。あまり深い意味はない。ただ、世界王座を獲って自分を取り囲む世界が一転する中、新堂はどこか安心出来る場所が欲しかったのかもしれない。
「あらためてだけど、世界王座おめでとう」
そう言うと、彩音は手土産を取り出す。新堂の喜ぶものが分からず、無難に地方の名菓で済ませていた。
「ありがとう。悪いけど、俺は何も持ってきていないぞ」
「いいんだよ。祝われるのは君なんだから」
彩音が笑う。
「この前の試合、本当にすごかったね」
「ああ、自分でも映像を見直したけど、なんであんなパンチを打ったのかは自分でも分からない」
新堂が自虐的に答える。
しばらくは試合を振り返るような会話を淡々とした。彩音も元ボクシング部のマネージャーだけあってか、選手視点の裏話には興味深そうに耳を傾けていた。
「そう言えば」
ふいに彩音が思い出したように口を開く。
「インタビューで伊吹君のことを言ってじゃない」
「ああ、言ったな」
「一緒に闘っていたっていう話をしていたけど、あれってどういうこと?」
「どうも何も、話したままだ。信じようが信じまいがな」
彩音は伊吹が死後もなお新堂と会話していたことを知らない。普通に聞いたらオカルト話や超常現象にしか聞こえない話を詳しく話すわけにもいかない。
そう思っていると、ふいに彩音がどこか腑に落ちたようなリアクションをする。
「やっぱりそうなんだ」
「何が?」
「だって、わたし、明らかに丈二がリングにいるなって思いながら試合を観ていたんだよね」
新堂は思わず彩音の顔をまじまじと見る。冗談を言っている顔には見えなかった。
「説明は難しいんだけどさ、ほら、なんかあるじゃない。雰囲気で人がいるとかいないとか。あの日のリングで新堂君が闘っているまさにその時、まるで丈二が一緒に立って構えているように見えたんだよね」
「そうか。不思議なこともあるものだな」
平静を装いつつ、新堂は彩音の第六感に驚いていた。そして、伊吹を失った彼女の傷を思いやった。プロポーズこそされていないとはいえ、二人が結婚するのは時間の問題だったはずだ。それだけの関係に至りながら、愛する人を失った者のつらさは計り知れない。
「なあ、日崎」
「なに?」
「言葉にするのが非常に難しいんだが」
自分で言っていて、実際にこの問題を口にするのは何と難しく気を遣うものなのだろうと思った。だが、それを差っ引いても彩音にこれから悲しみをずっと引きずって生きて欲しいとは思わなかった。
「俺は確かにリングでは伊吹と闘っていた」
「うん」
「あいつは実際に力をくれたし、一歩前に踏み出すだけの勇気をくれた」
「うん」
「だけど、今後ずっとあいつの力を借りて闘っていくわけにはいかない。いつまでもあいつのことを想って闘うのは違う気がするし、伊吹だって望んでいないだろう」
「そうだね」
「日崎、伊吹がいなくなって、恐らく一番つらいのはお前だと思う」
新堂がそう言うと、彩音の目つきがいくらか変わった。
「この世界から大好きな人がいなくなって、自分の一部がどこかへ行って、そんな気持ちは俺には経験が無いし、理解しようとしても無理だと思う」
彩音は答えずに、わずかに残ったコーヒーの水面をじっと見つめていた。
「別にあいつを忘れろっていうんじゃない。だけど、日崎にも日崎の人生を生きて欲しい。たとえそれが隣に伊吹のいるものでなかったとしても、それは間違いなく日崎だけの人生なんだ。分かるか?」
「……分かるよ」
「だから、自分の人生を生きてくれ。伊吹を失った悲しみ暮れるのではなく、寝る前に明日が楽しみで仕方がない毎日を生きてくれ。きっと伊吹だってそれを願っている」
言葉にしたくても出来なかった言葉。いや、いまだに全てを完璧に表現出来たとは言えない。それだけ新堂の心に残っていた澱のような何かは、表現するのが難しかった。
正直なところ、上手く伝わるのかは分からない。余計なことを言って、彩音を激高させるだけかもしれない。それでも、彼女には伊吹の死を本当の意味で乗り越えて欲しかった。
「そうだね」
彩音はテーブルに視線を落としたまま、どこか遠い視線で答える。
「丈二が亡くなった時ね、本当に何が起こっているのか訳が分からなくて、正直悲しんでいるヒマなんて無かった。それでもお葬式とかやっている内にだんだんわたし自身がそれを理解するようになって、それで今度はそれを受け入れるのが嫌になっていた」
「うん」
「この前の試合ね、本当に丈二がリングにいるって感じた時、少しだけど涙が出たんだ。彼は間違いなくそこにいて、それでもこの先に会うことはずっと出来ないの。それを実感したような気がして、嬉しいと同時に悲しいっていう、なんか不思議な気持ちで試合を観ていたの」
「そうだったんだな」
「うん。それで、新堂君がロブレスを倒した瞬間にそれが終わったっていうか、説明は難しいんだけど、終わるべきだったものがちゃんと終わった気がしたのね。それを思った時に、知らぬ間に涙が溢れてきた」
勝利者インタビューの時、確かに彩音は泣いていた。その理由が少しだけ理解出来た気がした。
彩音は続ける。
「なんだかねえ、その時丈二に怒られた気がしたんだよね。悲しんでいないで、全力で生きろって」
「あいつなら言いそうだな」
新堂は笑った。事実として伊吹ならそのようなことを言いそうだった。
「だからね、わたしも悲しむのはやめよう。未来に向かって生きていこうって思ったんだ。それは丈二のことを忘れるってことじゃなくて、彼が失ったことを受け入れて、自分の足で歩んでいくんだって」
新堂は目を細めた。まだ大学を卒業してもいない小娘がこのようなことを口にするとは。それを言ったら自分も同い年ではあるが。
彩音は続ける。
「だから、わたし、もう平気だよ。丈二はいなくなっちゃったけど、いつでも一緒にいるっていうか、耳を澄ませば彼の声が聞こえる気がするんだよね」
彩音は指で目の端を拭うと、屈託なく笑った。
それを見た新堂は、彩音は誰かが助ける必要などないほど強い女だと確信した。
――話が一通り落ち着くと、二人でカフェを後にした。
彩音はこれから卒業論文のために図書館へ寄ると言う。手を振って、その場で別れた。
また明日から、少しも変わらない日常が始まる。日が経てば防衛線の対戦相手が決まり、その一戦に向けて気が遠くなるほど自分を追い込む毎日が待っている。
この世界はそう簡単には変わらない。たとえ、誰かが死んでも。
空には雲一つなく、どこまでも広がる青空の真上に、暑苦しいほどの太陽が光り輝いていた。
新堂は目を細めながら、その空の青をじっと眺めていた。
しばらく時間が経ち、新堂は無駄だとは知りながら、青い空に向かって語りかける。
「伊吹よ、お前の奥さんは想像以上に強かったぞ」
伊吹に頼まれたように彩音を助ける必要はもうない。彼女はとっくに自分の足で歩いている。つい先ほどにそれを実感した。
風がそよぎ、温かい風が頬を撫でていく。新堂はこの先の未来を想像して、なんとも言えない気分になった。
「帰るか」
カフェを後にして、街を独りで歩いていく。
その時、良く知った声が意識の中で響いた。
『俺も正直、あそこまで強い女だとは思わなかった』
【了】
本作を読了いただき、ありがとうございました。
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それではまた次回作でお会いしましょう。
もう会えぬ君は友とリングへゆく 月狂 四郎 @lunaticshiro
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