仇討ちは世界の舞台で

 彩音は観客席にいた。リングから少し離れた席。それでも選手の動きはよく見える。


 この日の試合もノックアウトが多かった。やはり皆大舞台のせいか、いつもより張り切る傾向があるようだ。


 興行としては盛り上がるのかもしれないが、彩音からすれば嫌な流れだった。


 どうしてもこの会場やKOが重なると伊吹の試合が脳裏をよぎってしまう。まだ引きずりまくっているのに、人々が豪快に倒し倒される姿を見ていると時々逃げ出したくなる。


 こんな感覚は初めてだった。高校でボクシング部のマネージャーをやった際、選手が倒れる瞬間など腐るほど見てきた。それもあり人が倒れる状況について感覚が麻痺していたのかもしれない。


 伊吹が亡くなって今さらのように感じたが、やはり人が殴り合って倒れる光景というのは一般的に言って日常の風景とは言えないのだ。それを今になって思い知らされたみたいだった。


 先ほどの試合も終盤にKOで終わった。後は新堂の試合を残すのみだ。もしかしたら自分がボクシングを観ようとするのはこれが最後になるかもしれない。彩音は独り静かにそう思っていた。


 ふいに照明が落ちる。それだけで観客が雄叫びを上げはじめた。


 会場に設置された巨大なビジョンが映像を流しはじめる。映っているのは新堂だった。


「あの試合についてはね、決して美談にしないでほしいんです」


 その一言を皮切りに始まった映像は、前回の伊吹対ロブレス戦の映像を断片的に流しはじめる。


 映像では伊吹丈二と新堂零が高校の同級生であったこと、そして戴冠の後には伊吹に新堂が挑む話があったことを紹介していく。観客はそれらを食い入るように見守っていた。


 次に映ったのは、計量時の新堂がロブレスの侮辱を看破した瞬間の映像だった。


「お前もカマを掘り合ったダチと一緒に地獄へ送ってやる」


 のちにロブレス本人も認めた失言が微かにマイクで拾われており、エンジニアが復元した肉声が字幕とともに流れる。会場にすさまじいブーイングが流れる。


「あいつは反省なんかしていませんでした。絶対に許しません」


 新堂が鋭い目つきで言うと、会場には一気に声援が鳴り響く。


「俺達は、二人で夢を叶えるんです。伊吹と一緒に、です」


 映像が終わると、すでに爆発しそうな声援の中にいくらかすすり泣く声が混ざっていた。


 彩音もすでに泣いていた。あまり選手のストーリーに感情移入することは無い方のはずだったが、今回はあまりにも近過ぎる存在があまりにも重すぎる重荷を背負って闘いへと赴く。それを思うと、涙を堪えることが出来なかった。


 リングアナが両選手を呼び出す。新堂の名前が呼ばれるとほとんど一生分にも見えるだけの声援を受けて入場してきた。


 ガウンは無く、試合用のトランクスを履いて登場すると、そのまま後ろからセコンドが付いてくる。顔つきは険し過ぎるわけでもなく、かといって緩み切った感じもなかった。自分のやるべきことをやるといった風の顔つきをしていた。


 リングインすると、サウスポースタイルで弾丸のようなスピードのシャドウを披露する。それだけで観客達は大喜びだった。


 次にフアン・カルロス・ロブレスの名前が紹介されると、会場には盛大なブーイングが鳴り響いた。ここまで国内で憎まれたボクサーは過去にもいなかったのではないか。


 出てきたロブレスは開き直っているのか、ブーイングに対して「もっとやれ」とばかりにグローブを装着した手で煽った。ブーイングはさらに大きくなる。それでも全く気にしていないようだった。


 ロブレスがリングインすると、すでに新堂コールが起きていた。鳴りやまないので「ご静粛にお願いします」とアナウンスが入り、やっと収まった。


 世界戦ということで、お決まりの国家斉唱が行われる。


 さすがに国歌斉唱を妨害すると問題になると理解していたのか、君が代が流れていようがアメリカの国歌が流れていようが観客は大人しかった。


 リングアナがスーパーフェザー級の世界王座決定戦のアナウンスをすると、観客は溜め込んでいた歓声を一気に吐き出した。


 もちろん新堂の名前がコールされる際には万雷の拍手と声援を、ロブレスの紹介時には地響きのするようなブーイングがあちこちから起こっていた。観客達は新堂を心の底から応援するとともに、散っていった伊吹を悼み、ロブレスに怒っていた。


 当事者だけでなくとも、様々な感情がこの会場に大きく渦巻いている。


「伊吹よ、お前は愛されていたんだな」


『ありがたいことだ。こりゃあ、勝たなきゃな』


「もちろんだ」


 伊吹との会話を挟み、リング中央でレフリーの諸注意を受ける。ロブレスはもはや本性を隠すことなく、血走った眼で何かを言っていた。


 レフリーに各自コーナーへ戻される。試合を待ちきれない観客達が大騒ぎを始めた。


「なんて言ってた?」


『殺してやるから覚悟しろっていう感じのことをいっていた』


「そうか。悪党はそう来なくちゃな」


 新堂の目つきが一気に鋭くなる。


「ラウンド1」


 運命のゴングが鳴った。

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