待合室の激震

 伊吹の葬儀が行われた。


 都内の小さな寺院で、近しい関係者に絞って執り行った。導師が経を読み、参加者は焼香をあげた。


 葬儀には高校時代に顧問であった菊池の姿もあった。勤務先は変わったそうだが、まだ元気そうだった。


 葬儀が終わると最後の別れとして棺桶に花を詰めた。棺で眠る伊吹は化粧が施され、ボクシングで負った外傷がそれほど気にならなかった。だが、厚く化粧をしているせいもあってか、ついこの前に話した男と同一人物とは思えなかった。


 ほとんどの参加者が涙を流しながら花を捧げていた。誰もが伊吹の幸せで輝かしい未来を思い描いていた。たった一試合で彼の未来全てが打ち砕かれた。頼んでもいないのに、誰もが自分を責めていた。突然の喪失に誰一人として心のキャパシティが追い付いていない。


 新堂も彩音も葬儀中は泣かなかった。涙は病院の待機室で枯れていた。そこにあるのは悲しみと言うよりも、急すぎる現実に準備も無く置いていかれてしまったような、妙な感覚だけだった。


 棺が花で満たされると、焼き場へ向かった。


 焼き場の重々しい自動ドアが開くと、いかにもな炎がちらりと揺らめいているのが見えた。


「それでは最後のお別れです。何か掛けたい言葉があればどうぞ」


 その言葉で皆が我に返ったように伊吹の遺体へと声を掛ける。新堂は独り立ちすくし、そのさまを見ていた。何も言えなかった。何を言えばいいのかも分からなかった。


 彩音が伊吹に語りかけている。あの二人は結婚するはずだった。彩音には黙っていたが、あの試合で伊吹が勝った場合はリングの上からプロポーズする予定になっていた。


 そもそもが結婚秒読みの二人だったのだ。プロポーズするのに、それ以上のタイミングは無いだろう。だからこそ伊吹はすぐに彩音を会場で見つけられたのだった。


 だが、この計画もずっと新堂の胸に秘めたまま、文字通り墓場まで持っていかなければならなくなった。


 誰が始めたのか、納棺が成されるまでのわずかな間に伊吹コールが始まった。気付けば新堂や彩音もそれに加わっていた。明らかに不作法なのだろうが、職員も咎めはしなかった。伊吹の遺体は声援とともに送られていった。


  ◆


 納棺が済むと、遺体を焼いている間に食事を摂った。喪主の用意した弁当を食べながら、近しい者が集まって故人の思い出話を交換していく。


 新堂は彩音、そして菊池と同じ席で食事を摂った。


「しかし伊吹もそうだけど、新堂も日崎も大人になっちまって……」


「いや、監督。さすがに自分らでも年は取りますって」


 新堂はいつもよりも腰の低い雰囲気で応じる。体育会の人間は目上の人間に対して「俺」という単語は使わない。


「監督って、お前何年前の話よ」


「自分にとって監督はいつまで経っても監督は監督ですよ。なあ日崎?」


「うん、ええ。そうですね。監督もお勤め先が変わったのにいらしてくれて、きっと丈二も喜んでいると思います」


 菊池は「そうか」と言うと新堂をチラと見た。今の一言で伊吹と彩音の関係を察したようだった。新堂はその確認の意味でアイコンタクトを送られていたのだが、菊池の真意を理解することが出来なかった。


 菊池はまた口を開く。


「あいつ、いいやつだったな」


「そうですね」


「あいつなら世界を獲るなんてチョロいもんだと思ってたけどさ、たまにああいうバケモノみたいな王者がいるんだよな」


「そうですね」


「……」


「……」


「……」


 全員が黙り込んだ。理由は様々にある。確かにフアン・カルロス・ロブレスは純粋に選手としてバケモノだった。だが、一階級分ほど体重オーバーをして、ハンデのある状態でなされたパフォーマンスでもある。


 もし彼が規定通りに体重を落としていれば。落とせないにしても、直前までリミットに体重が入るよう努力していれば――結果は違ったのではないか。伊吹も死ぬことはなかったのではないか。どうしてもそんなことを考えたくなる。殊に競技に携わっていた者についてはそういった思いが強くなる。


 今のネットではロブレスではなく、大幅な体重超過にも関わらず試合決行を許したジム側に非難が集中している。


 何もかも後から知った人々が訳知り顔で「どうしてこんなに愚かな判断を」と言葉の暴力を投げつけている。明らかに間違えたターゲットを攻撃しているのだが、それを指摘する者はほとんどいない。


 そういった諸々の状況を三人とも把握しており、それを考えると話が出来なくなった。


 気まずくなった菊池は話題を変える。


「ところで新堂よ。お前は良かったな」


「はい。……何がでしょうか?」


「ほら、あの試合でロブレスがフェザー級追放になったから、お前は空位になった世界チャンピオンの座を争える位置にいるだろう」


「ええ、理論上はそうですけど。自分、多分ですけどロブレスと闘いますよ?」


「は?」


 新堂の言葉に菊池と彩音が呆然とした。周りにも聞こえたのか、聞き耳を立てている雰囲気を感じた。


「新堂、それはどういう……?」


「ええ。実は自分もフェザーまで減量するのがあまりにもキツくて、階級を上げようと思っていたんです。そこで丁度ロブレスが上の階級にやってきて、しかも実質王者で……ってなると、そこではランキング1位の自分とロブレスが試合になるのではないかと思われますね。五分五分ですけど」


「なんと……」


 呆気にとられる菊池。その脇で「なんで黙っていたの?」と彩音が訊く。


「いや、まあさ。これもジムの関係者情報っていうか、まだ確定も何もしていない情報なわけよ。だからここだけの話というか、本来は絶対にリークしたらいけないわけ。だから誰にも言わないでくれよ。それでマッチメーカーとかランキングとか挑む団体のシステムとかが分かっていると、必然的にそういう流れが分かるわけよ。それをこの前ジムの人から聞かされたわけ。繰り返すけど絶対に他の人には言うなよ」


「新堂君は、その、ロブレスと闘うつもりなの……?」


「そりゃもちろん」


「怖く、ないの?」


「そりゃ怖いっちゃ怖いけどさ」


 新堂はお茶を飲んでから続ける。


「伊吹もそうだったと思うけど、このスポーツをやる時点で一生残る障害が残ったり、場合によっては命を落とす危険性なんてとっくに分かり切っているわけよ。その覚悟が出来ているから現役でいるわけで、覚悟が出来なくなったら俺はとっくに辞めているね」


 気付けば待合室全体が静まり返っていた。新堂達の会話は丸聞こえだった。


「まあとにかくさ」


 新堂は咳払いして続ける。


「あのアホは俺がちゃんとお灸を据えるから安心して見とけ」


 新堂は言い切った。本音としては恐怖の部分もかなりある。自分に勝った伊吹が殺されたのであれば、自分だってそうなってもおかしくない。それでもここでロブレスにイモを引いて下の階級で無理矢理戴冠しようなどとは思っていなかった。


「そうか、じゃあ応援しにいくよ」


 菊池がそう言うと、他の席から関係者が「私も応援に行きます。チケットを買いますのでお願いします」と次々と押し寄せた。


 新堂は「しまった」と思いながらも「ありがとうございます」と一人一人礼を言った。それに「この話はくれぐれもご内密に」と付け加えていった。無駄だろうがやらないよりはマシだ。


「新堂も新堂なりに成長しているんだな」


 菊池が嬉しそうにそのさまを眺めていた。彩音も嬉しくはあったが、あのロブレスと闘うことで新堂が壊されてしまわないか――そんな不安を抱くことになった。

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