計量
――試合前日。
この日は記者会見を開いた同じ場所で、両選手の計量が行われる。
計量前にジムへ寄った伊吹。体重はすでにリミットを割っていた。いくらか落とし過ぎの感もあったので、わずかに食べて調整をしたほどだった。
ジムの陣営とともに車で計量会場へと向かう。
「いいか、あのアホは計量でも普通に殴ってくる可能性がある。どれだけムカついても、試合までその怒りは取っておけ」
「はい」
伊吹は静かに答える。
道路は渋滞もなく、順調に会場へと到着した。
今度の計量では最初からセキュリティの人垣が出来ていた。昨日の事件もあり、すでに乱闘はあるものとして想定されていた。今まで紳士的なスポーツマンとして知られてきた伊吹にとってはいくらか心外な対応だった。
あとは秤に乗るだけというところだが、ロブレス陣営はまた遅刻していた。
「体重が落ちなくてヒイヒイ言ってるんだろうよ」
トレーナーが聞えよがしに言う。ある意味ではもう試合は始まっている。
今回の世界戦ではあるオプション項目が契約に付いていた。それは、ロブレスが体重超過をした場合、ファイトマネーから20%の罰金が引かれることになっている。それは1キロだろうが1ポンドだろうが変わらない。常習的に体重オーバーをされるのではフェアな試合が成立しなくなるからだ。
ロブレス側は難色を示すと思われたが、意外にもこの契約オプションをあっさりと了承した。それだけ体重をリミットまで合わせるのに自信があるということなのか、体重超過の前科が散々あるだけに、どこか不気味なところがあった。
ロブレスがあまりにも来ないので、先に伊吹が計量を行った。盛り上がりには欠けるかもしれないが、試合前会見でインパクトは十分に残しているのでそれ以上は必要ないのかもしれない。
秤に乗った伊吹は丁度57キロ。フェザー級のリミットである126ポンド(57.15キロ)の範囲内で一発計量クリアだった。
計量パスが告げられると会場に拍手が響く。伊吹はそれに応えるように鍛え上げられた肉体を誇示した。
無事に計量を終えた伊吹は、スポーツ飲料を酒のように一気飲みする。おそらく世界中を見て今この瞬間にここまで旨そうにスポーツ飲料を飲む人間は伊吹だけだろう。それだけ減量は過酷だった。
計量時間に40分ほど遅れてロブレス陣営が到着する。大遅刻をしても罪悪感の欠片も無いらしく、ふてぶてしい顔で周囲を睥睨しながら会場入りしてきた。
遠くに座って待機する伊吹と目が合う。周囲もそれに気付き、セキュリティが壁を作りはじめる。
ロブレスがお付きの通訳に耳打ちする。
「大丈夫だ。試合が開始されるまでは食べてしまうのを控えるから、怯える必要はありませんよ、とのことです」
会場の温度感が一気に高まる。通訳はかなり優しく「意訳」したようだが、実際の英語にはFからはじまる単語が大量に入っていた。そのまま訳せばもっと刺激的な内容になるに違いない。
ロブレスがボクサーパンツ一丁になり秤に乗った。
計量を担当する協会の職員が数値を慎重に確認する。一瞬だけ、職人がフリーズした。嫌な予感がした。
「フアン・カルロス・ロブレス、58.95キロで1.8キロオーバーです」
会場がどよめく。一つ上の階級であるスーパーフェザー級が58.97キロをリミットにしており、ロブレスはその枠に辛うじて収まったレベルの体重だった。
「おい! ふざけるんじゃねえぞ! やる気あるのか!」
伊吹のトレーナーが怒号を飛ばす。それも無理のない話だ。ボクシングで計量オーバーといえば、一般的に300グラムか400グラムぐらいがせいぜいで、あとはどんな選手でも大体は規定範囲内に落としてくる。
だが、1.8キロの超過となると、そもそも落とす気があったのかというレベルの話になる。会場にいる者全ての脳裏に、悪夢のシナリオが蘇る。
ロブレスはこうやって気分次第で大舞台をぶち壊してきた。それがいまだにボクシング界で最重要視されない理由でもある。
肝心のロブレスは謝る素振りを表面上だけ見せると、席に戻ってペットボトルの水を飲みはじめた。会場にいる誰もが唖然としてその光景を見ていた。
――ロブレスが、諦めた。
――試合中止か。
皆の脳裏に嫌な言葉が横断幕のようによぎる。少なくともロブレスは王座剥奪だ。
ざわつく中、ロブレスがマイクを取る。英語で謝罪の言葉を述べてからその先の言葉を続けた。謝り慣れているのか、嫌にスムーズな謝罪だった。通訳がマイクを持つ。
「まずは皆さま、本当にごめんなさい。私は計量を突破する事が出来ませんでした。ベストは尽くしましたが、フェザー級の体を作ることが出来ませんでした」
まるではじめから用意でもされていたかのような言葉。ロブレスの顔からは、少しも申し訳ないという気持ちは伝わってこなかった。通訳は続ける。
「恥ずかしながら、このようなケースは今回が初めてではありません。そのため、後は協会に判断を委ねるところですが、この試合を伊吹選手が勝った場合のみ新王者、私が勝ったら空位という変則マッチの対応は出来ないか打診するつもりです」
謙虚な言葉に聞こえるが、実際には協会の内部にロブレス陣営と親しい誰かがおり、強引にその対策を採用させるつもりだろう。タイトルマッチが消失すればあちこちに損害が出る。おそらくロブレス自身はそれを分かってやっていた。
「てめえ、ふざけんじゃねえぞ!」
通訳の話を聞いていた伊吹のトレーナーがブチ切れた。そのまま殴りかかる勢いでロブレス陣営へと向かって行くのを伊吹や会長、他のトレーナーで止めた。
あちこちでたかれるフラッシュ。その中で、なんとかトレーナーを元の位置へ戻した。そのさまをロブレスは珍しいものでも見るかのように観察していた。
「伊吹選手はこの提案についてどう思いますか?」
争いの隙間を突いて、記者の一人が叫んだ。伊吹がゆっくりとマイクを握る。
「やりますよ、もちろん。自己管理もまともに出来ない選手にビビってるわけにいかないんでね」
通訳がそれをロブレスに伝えると、英語で「チャンピオンは俺だ!」と叫んだ。
「今は『元』だろ?」
まさかのド正論返し。ロブレスは黙った。
どうあれ、一度は協会の決定を待たなければならない。
「絶対に手を出すなよ」と釘を刺された状態で、互いに至近距離で睨み合う。ロブレスは余裕なのか、薄笑いを浮かべていた。
「I’ll kill you fuck’in Jap」
囁き。伊吹も返す。
「何度も言わせるな。ファッキンジャップぐらい分かるって言ってるんだよクソバカ野郎」
侮辱されたことぐらいは分かったのか、ロブレスの額に太い血管が浮き出る。だが、ここで手を出せば取り返しがつかなくなるぐらいのことは理解出来たようだった。
しばらく睨み合うと、両陣営に引き剥がされた。
「それでは今回の試合について協会の決裁を仰ぎますので、しばらくお待ち下さい」
アナウンスが流れると、いくらかの報道陣とロブレス陣営は帰って行った。騒動の口火を切った自覚は無いようだった。
「あのクソ野郎」
伊吹のトレーナーは、親の仇でも見るかのような眼でロブレス陣営の背中を睨んでいた。
「あいつ、最初っから落とす気なんか無かったですね」
伊吹が苦々しい表情で言う。
その推測通り、ロブレスの態度や陣営の異常な落ち着きを加味すると、ロブレスは当初よりフェザー級まで体重を落とせないと分かっていた可能性が高い。そうなると、体面だけ整えて一階級上の体でリングに上がる権利を「買った」感覚なのだろう。
それほど時間は要さず、プロモーターからの話が伊吹陣営に来た。内容はロブレスの提案した通り、伊吹が勝った時のみ新王者誕生でロブレスが勝てば世界王座は空位になるというものである。
「もちろんやりますよ。断る理由なんか無い」
伊吹が即答する。試合成立。関係者達が複雑な表情をしていた。
「逆に言えば、ファイトマネー20%を失ってでもハンデを付けて俺と闘いたいんでしょ」
伊吹は全く臆していなかった。闘争心の塊のような発言だった。
「行きましょう。とりあえず試合が無くならなかっただけ良かったじゃないですか。明日はあいつをシメますから」
「お、おう……」
気合の入った伊吹に陣営の方が呆気に取られていた。
試合は明日――
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