世界へと駆け上がる
その後、世界挑戦を見据えた伊吹丈二は盤石の強さで防衛線を積み重ねていった。やはり日本王座獲得となった新堂戦の激闘が自信となったのか、伊吹が危なくなる試合展開そのものが無くなった。
強豪と呼ばれる挑戦者をことごとく叩きつぶし、伊吹に挑戦したがる国内のフェザー級の選手そのものがいなくなった。
そこには言外の「伊吹に日本王座を早く返上してもらい、後釜を争った方が勝算アリ」という各ジムの思惑が透けて見えた。現に伊吹の世界戦は秒読みとさえ言われていた。
伊吹に敗れた新堂も負けていない。
復帰戦こそ無名のタイ人ボクサーを相手に秒殺KO勝ちというありがちな復帰ロードを辿ったが、そののちは伊吹の王座を狙うランカー達との連戦が待っていた。
新堂も日本王座に挑む前は危険な相手として牽制されがちなきらいがあったが、タイトルマッチで負けてからは「伊吹に壊されているのではないか」という希望的観測とともに強豪との試合が立て続けに決まっていった。
実際のところ、新堂は壊れてなどいなかった。高校入学時の新堂であれば、一度の負けで腐っていることも考えられた。だが、今の新堂は伊吹へのリベンジを果たすという目標を達成するべく、さらなる努力を重ねていた。
才能だけで昇りつめる選手も確かにいることはいる。だが、才能だけで昇りつめた選手は今持っているその能力が絶対値であり、自分よりも強い相手が出てくればお手上げになる。
新堂も伊吹に叩きのめされまでは才能に依存しすぎるところがあった。それは高校入学時も日本王座戦もいくらか似た部分がある。
だが、前回の負けを経験して、新堂は自身に足りないものをより分析するようになった。前は強打を振り回してガードなど構わずになぎ倒す試合展開が多かったが、復帰後には強打を当てるプロセスで頭を使うようになった。
身体能力の高さだけでなく、フェイントを巧みに駆使して距離感も計算しつつ強打を当てていく姿は、一見大人しくなったようで対戦相手からすれば一層タチが悪くなった。
新堂の手数は減ったのに、倒す回数は増えていった。気付けば思わぬ角度から迫る強打で、並み居る強豪達がバタバタと倒されていった。
早いラウンドで倒すパターンが多かったこともあり、新堂は短いスパンで試合を繰り返していった。
日本人がすっかり新堂の強打に怯えきった頃、東洋太平洋王座挑戦の計画が浮上した。新堂人生は一も二も無くこの話に飛びついた。
相手はオーストラリアの強豪選手だった。その選手も世界挑戦を見据えて新堂を手頃な相手として考えていたようだったが、調査不足から見事にババを引いた。
新堂はアウェーの地へと渡った。海外のリング。そこでは相手を殺さないと勝つことが出来ない。新堂もそれを分かっていた。判定ではなく、最初から倒すと決めていた。
いざ東洋王座戦が始まると、開始早々に新堂の強打が爆発した。
――ジャブに合わせたいきなりの左クロス。
初回に左のストレートでダウンを奪うと、連打で延々と追い詰める。
初回で倒し切る展開こそ阻止されたものの、ほとんど虫の息となった相手を2ラウンド目で滅多打ちにしてストップを呼び込んだ。暴風雨のような連打でダウンを奪った瞬間に、レフリーが問答無用で試合を止めた。前王者はしばらく立ち上がれず、担架で運ばれて行った。
海外のファンは、その強打を賞賛するというよりは恐れ慄いた。こんなに強いボクサーが極東の地にいたのか。誰もがそう思いながら、リングで殺気を放つ新堂を眺めていた。
新堂の海外での戴冠はネットでいくらか話題になった。というのも、世界王座だけでなく、東洋王座も海外での奪取は国内より難しいからだ。
彩音は伊吹と付き合いながら、新堂のニュースも日々チェックしていた。どのような立ち位置になろうが、彩音にとって新堂は仲間だ。伊吹と付き合おうが、新堂が伊吹を倒そうと奮起しようが、それはずっと変わらない。伊吹もそのことは知っていたし、嫉妬に身を焦がすことも無かった。
伊吹は相変わらず修行僧のようだった。時々デートはするものの、近場へ出かける程度のもので、激しく愛し合う夜もほとんどない。これは伊吹の自己管理が厳し過ぎるのもあるだろうが、彩音は出かけた先でも知らずにシャドウをしだしている伊吹を見ると、時々寂しくなった。
伊吹がボクシングのことを考えている時、そこに彩音はいないのだ。それを感じると、どこか自分が離れた世界に隔離された気分になった。
タイトルマッチから時はまた過ぎ、彩音は大学の勧めでインターンシップに参加しはじめた。会社員の疑似体験のような経験は、彩音にとって新鮮な感覚を呼び起こした。
気付けば高校の卒業式から数年が経っている。人生は容赦なく進む。時の流れる速さはまさに弾丸のようだった。今なら浦島太郎の気持ちが分かる気がする。油断していればすぐに大人になり、中年になり、老人になる。それを考えると、時折何とも言えない切なさに襲われた。
そんなある日、伊吹が今までにないほど嬉しそうな顔をして帰って来た。あの修行僧よろしく感情を出さない伊吹がそんな顔をするのを見て、逆に怖くなった。
「ねえ、どうしたの?」
彩音が恐る恐る訊くと、伊吹は笑顔を隠さずに言う。
「決まったんだ」
「決まったって、なにが?」
彩音は出来る限りの推測を働かせる。卒業後に一緒に暮らそうとか、そんな話だろうか。それも悪くないが、お互いの家は普段から行き来しているから、今までとも大して変わらないのにとも思っていた。
「世界だ」
「世界?」
「今度は俺が、世界戦に挑むことになったんだ!」
「……は?」
彩音は何を言われているのか理解出来ず、しばらくフリーズする。ほどなくして、伊吹の世界王座挑戦が決まったことを理解する。
「嘘? 嘘でしょ?」
「本当だ。現地のプロモーターが俺の試合を気に入ってくれたんだよ」
伊吹は思わず彩音を抱きしめる。まるで妻の懐妊でも知らされた夫のようなリアクションだった。
とても嬉しそうな伊吹には申し訳ないと思いつつも、彩音にはある考えがよぎった。
「ところで、チャンピオンは誰なの?」
現在ボクシングは主要4団体といって、WBA、WBC、IBF、WBOという四つの団体の王者がいる。本来世界王者は一人でいいはずだが、各団体が自分の抱える王者こそ最強という自負を持っているため、実質的に王者は四人いる。
「俺が挑むのは、もちろんフアン・カルロス・ロブレスだ」
伊吹が誇らしげに答える。彩音は一瞬、寒気がした。
フアン・カルロス・ロブレス――メキシコ系アメリカ人で、父親もボクサーだった。幼い頃から軍隊並みに厳しいトレーニングを課されて、期待通りに世界へ誇る強さを手に入れたものの、「力こそ全て」という指導のもとで育った魂は子供のままだった。
ロブレスは体重超過が原因で世界王座を剥奪された経験が三回ある。体重超過をしてのはスーパーフライ級、バンタム級、そしてスーパーバンタム級だ。
四階級制覇の世界王者だが、醜聞や素行不良も相まって、相応の敬意を獲得出来ているとは言いがたかった。
同じ過ちを何度も繰り返すロブレスに、関係者からは非難の声が上がっている。だが、当のロブレスは「頑張った結果体重が落ちなかったんだから仕方ないじゃないか」という子供のような理屈で己の失敗を正当化していた。
王座は剥奪されたものの、抜群の知名度と強さのお陰で王座戦自体は行われてきた。ロブレスの王座は剥奪だが、挑戦者が勝った場合のみ新王者誕生という変則ルールだ。
だが、ここでもロブレスはふてぶてしかった。挑戦者よりも明らかに大きな体でリングインした彼は、圧倒的なパワーで哀れな犠牲者達を粉砕してきた。
ルール上は相手も合意してきたことだが、それを差っ引いても体重超過をした選手が堂々とパワーで挑戦者をなぎ倒す姿は、誰が見ていても気持ちの良いものではなかった。
だが、体重超過が無くても誰も倒せない王者であることも事実だった。そのため、好んでロブレスと闘いたがる選手はあまりいない。ただでさえ強いのに、ロブレスの気分次第でハンデ戦にようになるからだ。
フェザー級の強豪選手をチェックしていた彩音は、当然フアン・カルロス・ロブレスの恐ろしさも知っている。
「大丈夫なの? あんな危険なチャンピオンで」
「さあな。でも、決まったら勝つしかないだろ」
伊吹はこともなげに言った。言っていること自体は正論だが、リングで実際に危険な目に遭うのは他ならぬ伊吹だ。
「だって、また計量オーバーするかもしれないじゃない」
「そうだな」
伊吹が笑う。ボクシングファンの間では、よくフアン・カルロス・ロブレスは今度の試合で体重オーバーをせずに試合が出来るのか、ということが論議の的になることさえある。
だが、そんなことはおかまいなしとばかりに伊吹が続ける。
「それでもな、俺はやりやすい相手を選んで『こいつなら勝てるだろう』なんて方法で世界チャンピオンになんかなりたくないね。そうやって王者になる選手もいるけど、それじゃあ誰もが納得する世界王者じゃない。本当に認められたかったら、誰もが認める強豪を倒すんだ。それで初めて本当のチャンピオンなんだよ」
清々しいほどのド正論。彩音は何も言い返せなかった。
だが、相手はあのフアン・カルロス・ロブレスだ。何をしてくるか分からない。体重超過もそうだが、持って生まれた身体能力をこれでもかと活かして闘うスタイルは、手堅い闘い方をする伊吹にとって相性が悪いのではないかと思えた。
だが、ここまで来たらそうも言っていられない。
高校の同級生であり、現在は恋人である男が世界の頂を掴もうとしている。もはや試合に直接関われない彩音は、陰から伊吹を支えることしか出来ない。
しばらく考えて、彩音も覚悟を決める。
「そう、だね。それでこそ世界チャンピオンだよね」
「一緒に来てくれるか、彩音」
伊吹が彩音の手を取る。
「うん」
「お前に最高の景色を見せてやるからな」
取りようによってはプロポーズにも聞こえる言葉。
だが、この時彩音は何かとても嫌な感じがした。一瞬だけ発生した悪寒は、伊吹とはしゃいでいる内に忘れられていった。
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