叱咤激励

 激闘の日本タイトルマッチが終わって2週間ほど経過した。


 彩音は新堂と会うことにした。名目は慰労会(および残念会)といったところだった。先日の負けは新堂にとっても痛かったはず。国内最強を決めた伊吹は世界戦線へ向けてまっしぐらだが、新堂はその逆となる。


 現在の日本ボクシングコミッションが定めた規定で、日本王座か東洋王座を獲得していない選手は世界挑戦が出来ないルールになっている。


 そのため、伊吹は次戦が世界戦になってもおかしくない。防衛は重ねるのが通常とはなるが、先日の日本タイトルマッチは期待値が違った。勝った方が世界タイトルを獲るだろうと言われているほどの注目度だった。そのため、伊吹の場合は次戦が世界戦になっても少しも不思議ではなかった。


 彩音は試合後、伊吹と新堂と連絡を取っていた。双方に労をねぎらうメッセージと、伊吹にはおめでとうと祝福を、新堂にはお疲れ様と送った。


 もちろん伊吹の方は喜んでいたが、心配だったのは新堂の方だった。


 あれだけの試合をした後だと、「もう十分だ」と思う選手がいても少しも不思議ではない。ボクシングは一回の負けが非常に大きいスポーツでもある。特に新堂のように、様々な方面からバックアップを受けていたような選手は、人生の全てを目の前の一戦一戦に懸けていく。


 そのため、一度負けると満足してしまうか、もう十分頑張ったと諦めてしまう選手が少なくない。彩音は新堂の図太さは知っていたが、同時に多大なプレッシャーと闘っていたであろうことも知っていた。だから、どんな結末が待っていてもおかしくはないと思った。知らずに涙が流れたのは、そういったことを知っていたからかもしれない。


 新堂とは良く知ったカフェで会った。高校時代に、伊吹も含めてよく通ったカフェだった。


 新津は遅刻することもなく現れた。まだ顔に傷は残っていたが、思ったよりも元気そうだった。


「久しぶり」


「ああ」


「元気……じゃなくて大丈夫?」


「ああ、大丈夫だ。病んじゃいない」


「そう。良かった」


 彩音は笑う。店内に入ると、高校時代によく頼んだパフェを注文した。新堂はブラックコーヒーとケーキのセットを頼んだ。注文の品は間もなく来た。


「相変わらず好きだな、それ」


「ん、憶えてくれていたんだ」


「そりゃあな」


 二人で注文したスイーツを口にした。数十秒ほど、無言で咀嚼する。


「この前は、お疲れ様」


「ああ、お陰でまたやられたけどな」


「うん。でも、カッコ良かったよ」


「ありがとよ。だけど、世界戦線からは後退だ。無敗で世界王者の夢は断たれた」


「また頑張ればいいじゃない」


 彩音はあえてこともなげに言った。


 ボクサーにとって一つの敗戦はとても大きな意味を持つ。「また頑張ろう」と思える選手も多々いるが、同じだけ「もういい」と思う選手もいる。それだけ全てを懸けて試合に臨むのだ。


「それに、新堂君のことだから、やられっぱなしじゃ嫌でしょ?」


「まあ、そうだな。確かに」


 新堂は彩音の言葉を受けて、それまでに無かった認識を得たようだった。


「伊吹君には、世界タイトルマッチでやり返せばいいじゃない」


 新堂があの約束を忘れているはずがない。本来伊吹との決着は世界タイトルで着けられるはずだったのだ。


「そういや、そんな約束をしたな」


「え? 忘れてたの?」


「うーん……。いや、単に負けたことで頭の中から吹っ飛んでいただけかもしれない」


「そう……」


「……」


「……」


「これからはどうするの? まさか引退しちゃうとか?」


 彩音はあえて軽いタッチで核心に触れた。今日確かめたかったのは新堂が今後の進退をどうするかだった。


「いや、引退はしないよ」


「良かった」


 思わず彩音が安堵の溜め息を吐く。試合が終わった直後から、それがずっと気になっていた。


 新堂は神妙な顔で続ける。


「ただな、この前の試合は絶対に勝ちたかったんだ。ただの日本タイトルマッチだけじゃなくて、俺がずっと超えられなかった壁というか、伊吹丈二に勝つことに意味があったんだ。だけどそれが叶わなかった。また挑めばいいっていうのは確かにそうなんだけどさ、そう簡単に気を持ち直せない部分もあるわけだよ」


 新堂は率直な気持ちを吐露する。


 新堂にとって伊吹は特別な存在だった。それこそ、アマチュア時代についぞ手の届かなかった内海瞬よりも伊吹には対抗意識があったかもしれない。


 ようやく果たせると思ったリベンジを跳ね返され、新堂にも色々と思うところがあったのだろう。


「燃え尽きちゃったの?」


「どうなんだろうな。俺にも分からない」


 新堂は他人事のように言うと、ケーキを頬張る。おそらく彼自身が迷っている最中なのだ。


 しばらくは気まずい沈黙が続いた。


 彩音は色々と考えたのちに、意を決したように口を開く。


「ねえ、新堂君」


「なんだ」


「わたしね、伊吹君と付き合うことになったの」


「……そうか」


 新堂が一瞬フリーズした。軽く咳払いをすると、コーヒーを一口飲む。


「どっちから告白したんだ?」


「伊吹君の方。返事はこの前の試合が終わるまで待ってと言ってあったの」


「そうか……」


 再び沈黙が流れる。


「ねえ」


「どうした」


「悔しくないの?」


「ん?」


「わたし、伊吹君のものになっちゃうんだよ?」


「……」


 新堂はどうともつかない反応だった。表情は乏しく、彩音が次に発する言葉を待っている。何を言ったらいいのか分からないようにも見えた。


 しばらくして、彩音の方が沈黙に耐えられなくなった。


「まあ、いいや。ねえ、これだけは言っておこうと思ってたんだけど」


「なんだ」


「伊吹君と付き合っていたって、新堂君はわたしにとって大切な存在なんだからね?」


「……そうか、ありがとう」


 新堂はカップに口を付ける。もうコーヒーは残っていない。カップを傾けながら、彩音の表情を読み取ろうとしていた。


「だから、頑張って。立場がどうなったって、わたしは新堂君のことを選手として応援しているから」


「ああ、頑張るよ」


 新堂の表情が気持ち明るくなった。伊吹との交際を伝えたことがどう出たのかは怪しいところだが、士気は上がったようだった。


「次の試合も観に行くからさ、絶対呼んでよね」


「もちろんだ」


 会計を済ませると、その場で新堂と別れた。


 再開した直後は重そうだった空気もすっかり変わっていた。去り行く新堂の背中からは、力強い意志が溢れ出ていた。

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