激闘の行方
――5ラウンド目。
両者がリング中央へと歩いて行く。身体を揺すりながら、またアウトサイドの取り合いが始まる。
先ほどのラウンドで反省したのか、新堂は距離をとって右回りにサークリングをしている。伊吹のジャブは厄介だ。あれでリズムを掴まれると、次に来るのは打ち下ろしの右。それを喰らえば致命傷になりかねない。
伊吹もそれが分かっているせいか、新堂の移動する方向に左ジャブを突いていく。距離は遠いものの、そう易々とはアウトサイドを取らせないと無言で圧力をかけていた。
遠くからジャブを突き合う。不用意な一撃を誘い、行くフリをしては引く。濃密な駆け引き。リングの上で、静かな騙し合いが続いていく。
伊吹のジャブ。新堂がわずかに首を動かして外す。飛び込む。肉食獣のバネを思わせる右フック。伊吹が頭を下げる。右拳が空気を切り裂く。身体を戻しながら、伊吹が左アッパーを放つ。新堂が本能的に首を捻って外す。左ボディー。弓なりに放たれた一撃が、伊吹のみぞおちに突き刺さった。
伊吹の身体が沈む――効いた。観客が爆発する。一撃必殺の拳が飛び交う中で、先に当てたのは新堂だった。
新堂が狂ったように左右の連打を放つ。効かせたボディーを中心に、時折顔面にもパンチを返していく。防戦一方の伊吹。よほど腹が効いたのか、ガードを固めたまま身体を丸めている。新堂はガードの上などお構いなしに打ちまくった。まるでバトル漫画のワンシーンのようだった。
何発もパンチが繰り出されて、伊吹が吹っ飛ばされたように尻餅をつく。二度目のダウン。観客が爆発した。
レフリーがカウントを数える。ニュートラルコーナーでぜえぜえと息を切らせながら立つ新堂。伊吹はしばらく呆然としてレフリーを見上げていた。
「立て、伊吹!」
セコンドの声。伊吹がハッとしたように立ち上がる。膝が揺れている。誰が見てもダメージがあった。
「やれるか?」
レフリーが訊く。
「大丈夫です」
レフリーが伊吹を数歩だけ歩かせる。この足取りがフラフラであれば、レフリーは躊躇なく試合を止める。伊吹は膝が揺れないよう全神経を研ぎ澄ませて歩いた。レフリーはいくらか険しい顔をしていたが、試合再開しても良しと判断した。
「ボックス!」
伊吹側の応援から、試合が止められなかったことへの安堵と歓声が上がる。まだ勝負は終わっていない。
ニュートラルコーナーから出てきた新堂は、ほとんど走るように伊吹へと距離を詰める。飛び込みながら右フックを放つ。伊吹は足が震えて使えないのか、その場のダッキングで右拳に空を切らせる。二人はもつれて、リングを仲良く転がった。
レフリーに促されてゆっくりと起き上がる。転んだ二人のグローブを、レフリーが自分の腹付近の衣服をこすらせて汚れを落とす。服を使って汚れを落とすのは、グローブに付いたゴミが選手の目に入らないようにするためだ。
二人分のグローブを拭く作業を挟んだお陰で、伊吹にはわずかに回復する時間が出来た。たかだか十秒前後の時間だろうが、あると無いでは全く意味合いが違ってくる。
試合が再開される。新堂も反省したのか、右フックでは突っ込まず、剣道の突きを思わせる左ストレートで距離を詰める。やや斜め下から迫る軌道。身長で上回る伊吹にとっては見えにくい攻撃だ。
新堂は完全に倒しにきていた。暴風雨のような連打が襲いかかる。
左右のフック。伊吹のガードを叩く。ガードの上からでも十分効かせる威力だった。よほど効いているのか、伊吹が防戦一方になる。
レフリーが伊吹を一瞥する。試合を止めるべきかどうか考えているのだろう。
このままいけば、試合を止められる――
誰もがそう思った時、ゴングが何度も打ち鳴らされる。5ラウンド終了を告げるゴングだった。
知らぬ間に時間が経っていた。新堂が猛攻を仕掛けている間、あっという間に時間が経っていた。
レフリーに戻るよう言われた二人が、息を切らせながら半ば呆然と互いを見ていた。両陣営がリングへと入り、それぞれの選手を引きずっていく。
まだ折り返しのラウンドだが、両者の体力はすでに限界が近付いていた。
各コーナーでセコンドが選手を休ませ、檄を飛ばしながらアドバイスを送る。試合は佳境に来ている。ここまで来ると、どちらかと言えば頭脳より気力、体力がモノを言う帯域になってくる。
遠くの席から、彩音は二人を観察していた。
椅子に座った二人は明らかに消耗していた。両者ともに8回戦の試合は経験があるはずだが、ここまで密度の濃い5ラウンドは経験が無かったのだろう。それだけ消耗を感じさせる様子だった。
――こんな時、わたしはどっちを応援したらいいんだろう。
心の中で響く声。彩音はいまだにどの立場でこの試合を観たらいいのか分からなかった。
もちろんいい試合になることは大いに同意出来る。だが、どちらかが勝つとなると、どちらかは敗者になるのだ。それを思うと、何とも言えない気分になった。
笛が鳴る。迷いは消えない。それでも闘いは続く。
「ラウンド6」
観客が沸く。無常に試合再開を知らせるゴングが鳴った。
両者が声援を浴びながら歩いてくる。先ほどのラッシュで疲れたのか、新堂も走ってリング中央へと出て来るほどの元気は無かった。
伊吹は相変わらず冷静というか、動揺をさして見せずに構えている。表情からは読み取れないが、それなりにダメージは溜まっているはずだ。
伊吹が左を放つ。基本に忠実な戦術。意表を突くわけではないが、王道を行く戦略で強い選手はそれだけ崩しにくい。伸びる左が新堂のガードを打ち、時折その頭を撥ね上げる。
新堂も先ほどのラッシュで疲れたのか、手が出ない以前に身体の動きそのものが少なかった。前のラウンドで数ラウンド分の体力を使ったのだから、それも仕方のないことだろう。
伊吹は淡々と左を突いていく。正直なところ伊吹も弱っているのか、ジャブが当たっても右を積極的に振っていかない。おそらく伊吹自身も打たれてスタミナが無くなっているのだろう。
完全なる倒し合いだった試合が、一転して技術戦になった。
伊吹の左が当たると、応援から発せられる声が大きくなっていった。また左ジャブで試合展開がひっくり返りつつある。左を制する者は世界を制するという言葉があるが、伊吹はそれを地で行くような試合を展開していた。
――流れが完全に変わった。それも、誰もその潮目に気付かぬままに。
新堂も知らぬ間にまずい状況に追い込まれていることに気付いた。ジャブを突きながら、要所要所で左を差し込んでいくが、左ジャブでペースを握り返した伊吹はなかなか崩れない。
そのまま時間が過ぎていく。気付けば9ラウンド終了のゴングが鳴っていた。
ダウンを奪った回数は新堂の方が多いが、その後のペースは完全に伊吹が握っている。ポイントが分からなくなった。
観客が妙なざわつき方をしている。おそらくそれぞれでポイント計算をして、どちらが勝っているのかの議論があちこちで起きているのだろう。
彩音も試合のパンフレットに記載してあるスコア表に自分の採点を記載していた。ダウンは2回取られているものの、現在のポイントは伊吹が有利。だが、その差はわずか。次のラウンドで全てが決まる。
笛が鳴る。異様な緊張感の中、両選手の応援が競うように声を上げる。
「ラウンド10、ナウ、ラストラウンド」
大歓声の中、レフリーが最終ラウンド前の握手として両選手のグローブを合わせる。伊吹と新堂の目が合う。どこか、笑っているように見えた。
「ボックス!」
掛け声ととも、新堂が右フックで飛び出していく。伊吹もこれを右ストレートで撃ち落とそうと迎え撃つ。
轟音。身体のどこかには当たったのだろうが、二人は倒れない。新堂は最後の力を振り絞り、左ストレートから右フックを返し、また左ストレートを放っていく。全て顔面狙いで雑にも見えるが、ここまで来たら後は根性で闘うしかない。細かい戦略は不要だった。
伊吹もその漢気にこたえる。長身から右を振り降ろし、左ボディーから顔面へと左フックを返す。両セコンドが「熱くなるな!」と叫んでいるが、両者ともに事前に取り決めでもしたかのようにフルスイングのパンチを繰り出していく。
観客が沸く。ほとんど叫びに近い応援。気付けば彩音もそれに加わっていた。どちらを応援しているのかも分からない。だけど、ここで大人しく座って見ているのは嘘だと思った。
伊吹の左フックが当たる。新堂の腰が落ちる。踏ん張り耐える。喰らいながら右フックを打ち返す。今度は伊吹のテンプルにヒットする。伊吹の足元がおぼつかなくなる。
迷うレフリー。どちらを止めたらいいのか分からない。止めようとすればやられた方がやり返す。まるで果たし合いのような試合だった。
伊吹の右、そして新堂の左が同時に当たる。互いによろけたところで、試合終了を知らせるゴングが何度も打ち鳴らされた。
ゴングに気付かず、なおも打ち合おうとする両者の間をレフリーが割って入る。「試合は終わりだ」と告げられて、二人ともしばらくは呆然としていた。
会場はいまだに熱狂が冷めやらず、あちこちから歓声や拍手が聞こえた。下手なKO決着よりもよほど盛り上がっていた。二人の選手が期待以上のパフォーマンスを披露したからだろう。
彩音は観客席で泣いていた。どうして涙が出たのかは分からない。ただそれは、悲壮感というよりも二人の選手が死力を尽くして闘い抜いたことへの感動が強かった。
両選手ともに、自陣のコーナーでロープにもたれかかっていた。よほど消耗したのだろう。まさに激闘といった試合ぶりだった。
誰もが固唾を呑んで判定を待つ。これで名前が挙がるか否かに、天と地ほどの差がある。ざわめく会場。採点に時間がかかっているのか、通常の試合よりも待ち時間が長かった。
「ただ今の判定をお知らせします」
会場が息を呑む。誰もが耳を傾けた。
「ジャッジ村谷、95対92で新堂」
会場が沸く。歓声と悲鳴。それが順当なのか意外な結果なのか、どちらとも取れる反応だった。
「ジャッジ三村、95対92で伊吹」
歓声。やはり見方によってこの試合は結果が変わってくるものらしい。
あと一人――
「ジャッジ新村、94対93で、勝者、新チャンピオン――」
伊吹に新堂、どちらが勝っても新チャンピオンだ。果たして勝利の女神はどちらに――
「伊吹~丈二~!」
その名を読み上げた瞬間、会場に歓声が爆発した。
伊吹は両手を挙げ、フルマラソンを走り切った選手のように目を閉じたまま天を仰いでいる。
新堂は暗い表情ながらも、どこか納得したような、それでいて清々しさも含んだような表情をしていた。落胆はしたが納得はしているということだろう。素直に拍手で伊吹を称えていた。
伊吹の腰に日本王座のベルトが巻かれる。国内であっても王者は王者だ。あの伊吹が珍しく涙を流していた。それだけ苦しい闘いであったに違いない。
新堂が歩み寄る。歓声と拍手に包まれる中、互いの健闘を褒め称えていた。二人がどんな言葉を交わしたのかは分からない。だが、遠くからそのさまを見ていた彩音も涙が止まらなかった。
不思議な感覚が彩音を襲った。とても嬉しくて、とても悲しい。無理もない。苦楽を共にしてきた三人の関係性は、そう簡単に割り切れるものではないのだから。
遠くでリングに立つ伊吹と目が合った。伊吹が手を振る。彩音も手を振り返した。勝利者インタビューが始まると、新堂は応援団に手を合わせて、謝罪するような恰好で退場していった。
誰も彼を責める者などいない。十分すぎる健闘を遂げた新堂に、敵味方も関係無く万来の拍手が起こった。
控室に消えていく新堂。その背中を見守った彩音は、言い表すことの出来ない寂しさを感じたのだった。
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