遅かった男
後日、大学の授業を終えた彩音は待ち合わせの時間まで図書館にいた。
元々優等生だった彩音にとって大学の授業は楽勝以外の何物でもなく、何なら授業に出なくてもテストで良い点を取ることも可能だった。お陰で余った時間は趣味に全振りしている。
彩音の趣味は読書だった。これはボクシング部のマネージャーをやっていた時の名残で、選手ではない彩音は大会やその他打ち合わせで待ち時間が多かった。
スマホでずっとゲームをしていればあっという間に電池が無くなるので、暇つぶしに読み始めた本がそのまま趣味になった。
彩音にとって本の世界は特別であった。たかだか文字が羅列してあるだけなのに、それは人を熱狂させたり涙を流させることすらある。しかも、脳内の映像は視覚から得た映像よりも理想的な形を伴って再生される。自分で好きなように想像するからだ。その不思議な魅力に彩音は惹かれた。
たかだか暇つぶしの目的だったが、あっという間に時間が溶けていった。気付けば伊吹との約束に遅刻しそうな時間にすらなっていた。
「ああ、しまった」
彩音は荷物をまとめると、さっさと集合場所へと急ぐことにした。読みかけのミステリー小説で犯人が気になるところだが、それを気にしている場合でもない。
◆
「ごめん、待った?」
「いや、そんなに」
集合場所となる駅へ着くと、すでに伊吹が待っていた。
ボクサーとしてのキャリアを積んだせいか、卒業時よりもさらに精悍な顔になっていた。
二人並んで夕暮れに染まる街を歩く。美男美女のせいか、周囲からチラチラと視線が集まってくる。歩きながら会話した。
「珍しいね。伊吹君から誘ってくるなんて」
「ああ、ちょっと色々と考えがあってな」
「考え?」
「まあ、それについてはメシでも食いながら話そう」
そう言うと、伊吹は予約しておいた店へと彩音を連れて行った。駅近くにある、比較的新しめのビルに入ると、エスカレーターで上階へと登っていく。エレベーターは強化ガラス張りになっており、夕暮れに染まる街が美しかった。
エレベーターは9階で止まった。なんとなしに、テンカウントを思わせる10階でなくて良かったと思った。少しだけ廊下を歩くと目当ての店があった。
居酒屋とは聞いていたが、懸念していたような小汚い内装ではなく、現代風のスタイリッシュな内装になっていた。
照明はやや暗めで、店内にはジャズが流れている。高級そうに見える木材で出来たカウンターに小奇麗な各種調度品が並ぶ。いかにも粗野な客もいなかった。お陰で落ち着いて話が出来そうな雰囲気だった。
「なんか、いい感じだね」
「スポンサーの人がやっている店だ。本当は高いんだけど、友人価格でサービスしてくれるってさ」
店員に名前を告げると、予約していた席へと案内される。店の奥まったところにある個室。壁で仕切られているだけで扉はないので自由に出入り出来るが、店側から配慮でもしてもらえたのか、近くの部屋に他の客がいる気配はない。
「それじゃあ何か頼むか」
伊吹がメニューを渡してきた。正直なところ、まだ酒が旨いとは思えない。彩音はカシスオレンジを頼んだ。酒で好きなものが無かったから、単に消去法で選んだだけだった。
「じゃあ、俺はビールにしようかな」
伊吹がタブレットを操作して、彩音のカシスオレンジと一緒に注文を入れる。
彩音がポカーンと伊吹を見ていた。
「……なんだ?」
「ビールなんて、呑むんだ」
「一応、もう成人なんでな」
意外だった。伊吹ならしょっぱなから「ウーロン茶で」と言っても何ら不思議ではないと思っていた。彼でもアルコールを口にすることがあるのか。自分でも伊吹の知らない一面があることに気付いた。
「なんか、意外」
「何が?」
「俺は酒なんか呑まんって言いそうなイメージがあるから」
「正直、そこまで量は飲まないけどな」
「戒律的には大丈夫なの」
「俺はイスラム教徒じゃないぞ」
「モハメド・アリはイスラム教徒なのに?」
「そうなのか」
「そうだよ。改宗する前はカシアス・クレイだったんだから」
「詳しいな」
「うん」
「……」
「……」
「なんだこの会話」
伊吹が笑う。こういう笑い方をする一面も知らなかった。
「なんだか、不思議だね」
「今度は何だ」
「わたしは伊吹君が練習するところとか、試合しているところ以外はあんまり知らないからさ」
「ああ、言われてみればそうかもな」
たしかに高校時代には毎日顔を合わせたが、それは部活動だけでの話だった。ボクシング部員という仮面を付けていない伊吹を見たことはあまり無いのかもしれない。
それでも3年間一緒にいた者同士だ。会話に困ることはさして無く、世間話から近しい友人の近況について情報を交換する。話している間に酒も進んで、それなりに楽しい時間となった。
雑談は楽しかったが、新堂との試合に触れないわけにもいかない。いくらか地雷になる話題だと思いつつも、彩音は次の試合について伊吹の考えを聞いてみようと思った。
「次の試合って、新堂君とやるじゃん」
「ああ、そうだな」
わずかに伊吹の表情が変わる。地雷を踏んだというより、「とうとう来たか」といった思考が透けて見えた。
「その、心境的には、どうなの……?」
「うん、そうだな……」
伊吹はいくらか回答に困る風に言葉を濁した。自分の中で答えをまとめているのか、いくらか虚空を眺めてから続ける。
「正直なところ、半分半分だな。新堂とはずっとライバルだったし、あいつとの試合がプロの舞台で出来るなんて最高だ! っていう俺がいる」
「うん」
「だけど、その一方で俺があいつのキャリアを終わらせる可能性があることを考えると、それもなかなかつらいかも、という気持ちもある。多分、新堂も似たような感じだろう」
「うん」
「だけどな、結局チャンピオンっていうのは一人しかなれないんだ。まあ、現状世界王者は4団体あるわけだけどさ、本来であれば世界王者っていうのは一人であるべきなんだ。だからこそみんななりたがる」
「そうだね」
「幸か不幸か、俺らは同じ階級で同じ時代に世界チャンピオンを目指すことになった。競技の特質上、俺達がぶつかった場合は互いを叩きつぶさないといけない。残酷に聞こえるけど、それが現実だ。新堂との試合が決まった以上、全力であいつを叩きつぶしに行ってやるのが礼儀だと思っている」
「……」
彩音は何も言えなかった。道義で言えば伊吹の言っていることは全く正しい。ボクサーである以上、目の前に出てくる敵は叩きつぶしていくしかない。そういうスポーツだからだ。
だが、高校時代に二人の成長を見守っていた彩音としてはそう簡単に割り切ることも出来ない。
出来たら二人に栄光を掴んで欲しい。なんとかこの試合は回避して、WBAだろうがWBCだろうが、はたまたIBFだろうがWBOだろうが別々の世界王座を奪取してもらい、永遠に交わることなく最後までキャリアを全うしてほしい。それが正直なところだった。
だが、現実はそう甘くない。
世界王座戦はおろか、日本王座でその残酷な試合は決まった。卒業式後に会った時はそれほど現実感が無かったが、いざ伊吹と新堂の試合が決まったとなるとその残酷さに吐き気さえ覚える。
「わたしは……」
彩音はその先を言うかどうか迷い、何度か頭を振った。次に発する言葉が伊吹に変な影響を与えてしまうかもしれない。そう考えるとその先を言うのが怖くなった。
だが、このまま自分の想いを抱えていても仕方がないとも思った。伊吹はそういったことも含めて織り込み済みで彩音を呼んだはずだ。だから続きを話そうと思った。
「正直言うとね、つらいっていう方が大きいかな。だって、どっちかが勝つってことはどっちかが負けるってことでしょう? そう考えると、素直に頑張ってとも言えないというか、なんか、どうにかして両方が勝てるルートがあったらいいのに、とか思ったりするの」
「そうか」
「別に、伊吹君に負けてほしいとか、新堂君に負けてほしいとか思っていないよ? なんていうか、わたしは二人をずっと傍で見守ってきたわけじゃん? そう考えると、どっちかを選べなんて言われても……ってところかな」
「まあ、そうだろうな」
伊吹は微妙な表情で遠くを見ていた。地雷を踏んだか。彩音は自らの発言を顧みて心配になった。
伊吹が続ける。
「たしかにそうだよな。俺も、正直新堂の夢を壊してもいいのかなって思うことがあるし。確かに昔、あいつをシメたことはあったけど、それとこれとは別だからな」
「なんか、嫌だよね」
思わず本音が出て、彩音は「しまった」と思った。そんなつもりは無かったが、伊吹の士気を下げるような発言をしてしまった。
「ゴメン」
「いや、いいんだ」
謝罪する彩音を、伊吹は手で制する。
「日崎から見たらそうだろうなと思っていたよ。いつも試合に来てくれるからさ、俺も日崎がどう思っているのかが気になっていたんだ」
伊吹はビールのジョッキに口を付ける。いくらか考えながら次の言葉を発した。
「唐突なんだけどさ」
伊吹はいくらか苦しそうな表情をしてから、またジョッキに口を付ける。下戸なのか、苦悶に見える表情がいくらか心配を誘った。
「新堂との試合に勝ったら、付き合ってくれないか?」
「は?」
予想外の言葉に彩音がフリーズする。
なに? 今この人なんて言ったの?
付き合う? 付き合うって誰が? 彼が? 誰と? わたしと? え? わたしと?
彩音は一人静かにパニックになった。
「いや、別に、嫌なら別にいいんだけど?」
伊吹が嫌な汗をかきながらフォローする。元々フられる覚悟は出来ていたのか、伊吹の方が落ち着いていた。
「なんで、わたし……?」
思わず片言の外国人みたいになる。伊吹のことを好きだった時代もあったが、いざその想い人から告白されると現実感が無かった。
「なんでだろうな」
伊吹は虚空を眺めて考える。
「まあ、3年間一緒にいたし?」
「それだけ?」
「まあ、あとは見た目もかわいいし」
「かわっ……」
伊吹からは永遠に出ることがないだろうと思っていた容姿への賞賛を聞き、彩音はパニックをこじらせた。
「そんな……伊吹君って、わたしのことをそんな風に見ていたの?」
思わず昭和みたいなセリフが出てくる。
「ん、ダメなのか?」
伊吹はいくらか戸惑い気味だった。彩音の容姿は校内でも有名だったので、むしろ彩音を好きでない者の方が少ないぐらいだった。
「まあ、嫌なら別に……」
「ちょちょちょちょちょちょちょっと待って!」
「どうした」
伊吹は彩音の慌てぶりに引いていた。彼の中にあった彩音の幻想がいくらか壊れたかもしれない。
「そんな、ダメだなんて言ってないでしょう?」
彩音は息をぜえぜえと切らせた。どうして酸欠になったのかは分からない。
「じゃあOKなのか?」
「いや、そんなに簡単じゃなくて……」
彩音は「ちょっと待って」とばかりに手で制して、荒れた呼吸を整える。あまりにも色々なことが起き過ぎて、脳がキャパシティを超えていた。
心臓の鼓動が聞こえる。普段は意識していないのに、バクバクと脈打っているのが分かる。まるで全力疾走で長い距離を走った後のようだった。
「あの、どうしよう。何て答えていいか分からない」
「……」
かつて好きだった伊吹から予期せぬ告白があり、彩音の脳内は完全にパニックだった。考えてみればそうおかしな話ではない。高校時代の同期とはいえ、男女でサシ呑みをするのだ。そういう展開を全く考えていない方が不自然だった。
「日崎、正直に言ってもらっていいぞ。ダメならダメで、俺は大して傷付きやしないから」
そうは言うものの、失恋で傷付かない人間などいない。自分がそうだったから、彩音には余計どんなリアクションをするのが正解なのか分からなかった。
ようやく落ち着いてきたので、自分の思考をまとめながら話す。
「ありがとう。わたしのことを、そんな風に思ってくれていたんだね。それは素直に嬉しい」
「ああ」
「結論から言うとね、わたしはその告白に答えることが出来ない」
「……」
「だって、ここで『はい』って言ったら、それは新堂君じゃなくて、明白に伊吹君に勝ってほしいと思うってことでしょう?」
「まあ、そうかもな」
「一応ね、元マネージャーっていう立場もあったからさ、今回はどちらかに肩入れした状態で試合を観たくないの。っていうか、ゴメン。もしこの試合が無くなってくれたら、わたしはどれだけ楽になれるんだろうって思っているぐらいなの」
不意に涙が出てきた。彩音は一筋の涙を拭くと、そのまま続ける。
「高校時代はね、本当に伊吹君も新堂君も優勝してほしくて、それこそ二人で決勝を争ってほしいぐらいの勢いで応援してきた。だけど、今となって一度の負けがあまりにも大きなプロの世界で、わたしの応援してきた二人が闘おうとしている。ファンは嬉しいと思うよ? でも、わたしは? わたしはどうそれを見たらいいの? どっちかが勝ってほしいって肩入れするの? そんなの出来ないよ。だって、二人とも世界チャンピオンになってほしいし、歴史に残るような選手になってほしいから」
伊吹は真剣な顔で、彩音の言葉に耳を傾けていた。
「どこかでこんな日が来るんだろうなって覚悟していた。覚悟してはいたけど、そんな簡単には割り切れないの。きっと菊池先生だってそうだよ。他の部員だってそう。好き嫌いはあれ、二人いたら二人とも成功してほしいっていうのが普通だよ。でも、今回はそれが叶わない。どちらかが世界に近付いて、どちらかが大きく後退する。それだけならいいけど、場合によっては……」
場合によっては――
ふいに涙が溢れてきた。それ以上は言えなかった。
「そうか。そうだったな。俺は自分のことしか考えていなかった。すまんな」
伊吹が本当に申し訳なさそうに言った。
彩音はしばらくその場で泣いていた。伊吹はしばらく、彩音が言葉を発するのを待った。
「うん……いや、いいの」
涙を拭う。化粧が崩れている。後で治さないと。
それはそうとして、彩音は涙声で続けた。
「ごめんね。だから、今はその言葉には答えられないの。この試合が終わったら、もう一度訊いてくれるかな。その時に伊吹君の気持ちが変わらないなら」
「分かった。どうもありがとう」
「ちょっと化粧直してくるね」
彩音は席を立った。ボロ泣きしたせいで、化粧は盛大に崩れていた。
トイレで鏡をみると、目が真っ赤になっていた。あんな風に人前で泣いたのは初めてだった。
個室から出てきた女性が彩音を一瞥だけして去って行く。内心で何を思っているかは分からない。
化粧を直したら個室へと戻った。
伊吹は焦点の合わない目で天井を眺めていた。
「……お待たせ」
「ああ、いいんだ……」
席へ着くと、微妙な沈黙が流れた。崩れた化粧は直っても、壊れた空気は戻らない。
しばらく嫌な沈黙が続いた。
「……そうだな」
ふいに伊吹が納得したような声を上げる。
「確かに、ここで勝ったら付き合おうってなったらおかしくなるよな」
「……うん」
「じゃあ、言われた通りに勝ったらまた話すわ。それでいいだろ?」
「うん。そう、だね」
「よし、じゃあ俺は絶対に勝つからな。応援はしなくていい。いや、しなくていいってわけじゃないけど、新堂と平等に応援してくれ。奴を倒したらまた声をかけるからさ」
そう言うと、伊吹は呑みを切り上げた。
いくらか微妙な空気にはなったが、無理矢理明るい感じで終わらせた。
店を出ると、駅まで伊吹が送っていった。別れ際に軽く言葉を交わす。
「それじゃあ、今度は試合で会うことになるかな」
「そう、だね……」
「さっきのは忘れてくれ。とりあえず俺は目の前の試合に集中する。話は勝ってからだ」
そう言う伊吹の顔は、自身の勝利を少しも疑っていないようだった。
その顔を見て、彩音は少しだけ安心した。今日の出来事が伊吹の試合に悪影響を及ぼすことは無さそうだった。
「なんか、ごめんね」
「いや、いいんだ。いきなり言い出した俺も悪いんだから。そりゃ驚いたよな」
「うん。ちょっと、びっくりしたかも」
卒業式の日、自分の方が告白しようとしていたことはついぞ言わなかった。
「一個だけ約束してもらえるか」
ふいに伊吹が真剣な顔になる。
「何?」
「新堂との試合が終わったら、結果がどうあれ俺達は友達でいよう。いや、これから付き合ってほしい人にそれを言うのはおかしいか」
「分かるよ」
彩音はクスリと笑った。伊吹の微妙な反応が面白かった。
「うん、まあそういうことだ。別に俺と新堂は殺し合うわけじゃない。それだけは分かってくれ。きっと新堂も同じ気持ちのはずだ」
「……そうだね」
今頃は新堂もタイトルマッチへ向けて日々の練習で血ヘドを吐くほどの努力をしているはず。
きっとどれだけ時が経っても、どれだけ離れた場所に住んでいても新堂と伊吹はライバルであり友人なのだ。
「正直つらいところだけど、わたしも試合は観に行くよ」
「そうか。ありがとう」
二人は改札で別れた。階段を上がって振り返ると、伊吹がまだ見守っていた。手を振ると、向こうもそれを返した。
「遅いんだよなあ……」
彩音の独り言は電車のアナウンスに掻き消される。
たまたま新堂が出てきたせいでぶち壊しになった告白。あの時にもっと早く好きだと伝えていれば、もっと違う未来が待っていたのかもしれない。
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