憂鬱
彩音は大学へと進学した後、ボクシングとは無縁の生活を送っていた。というのも、ボクシング界は狭く、色々なしがらみがある。
自分の旧友同士が試合となり、どちらを応援したらいいか悩む展開などザラにある。どちらにも勝って欲しいという思いがあっても、それが競技である以上、勝者は一人しか存在出来ない。
特にスポーツ推薦の生徒がひしめく体育会ボクシング部に入れば、のちに伊吹や新堂と試合をする者も出てくるだろう。その時に嫌な思いをしたくなかった。関係者として大学ボクシングに関わらなかった理由はそれだけである。
高校時代とは一転して、彩音は文科系のサークルに複数所属した。音楽に文学、絵画を嗜む程度に関わった。決して人生全てを賭けるほどには没頭しない。
それも伊吹や新堂の試合を追うという使命があったからだった。
スポーツ紙でも取り上げられた二人は順調にキャリアを駆け上がっていった。伊吹は当初日本人の対戦相手が見つからず、インドネシアの東洋ランカーが相手になった。
無名な割に強豪という「おいしくない」相手ではあったものの、粘り強い攻防を発揮して最終回に左フック一発で仕留めた。専門誌に「初戦で選ぶのにはやや無謀な相手では」という指摘があったものの、その懸念をものの見事に払拭した。
いきなり東洋ランカーとなった伊吹は、「力を蓄える前につぶしてやろう」とばかりにぶつけられた強豪選手をことごとく破っていき、あっという間に国内でも上位ランカーとなった。
新堂も負けていない。
アマチュアの厳しいルールでやや抑圧気味であったファイトスタイルがプロの舞台で存分に発揮された。
デビュー戦でキャリア20戦を誇るA級ボクサーと6回戦を行い、2ラウンド目に左ストレート一発で倒すというセンセーショナルな印象を残すと、その後も倒し屋と呼ばれるタイプの選手達と壮絶な打ち合いをしては最終的に殴り倒してきた。
世界チャンピオンになる前のエドウィン・バレロを思わせる好戦的なスタイルは、危うさを感じさせるもののいつもスリリングな展開を繰り広げるため人気が出た。やはりボクシングとは原初的に殴り合いなのである。
時々は手堅く判定勝ちを収める伊吹に対して、新堂は毎回はじめの一歩よろしく豪快に相手を倒して勝ち上がっていった。圧倒的な攻撃力を持ちながらも、明白に未完成である部分も見る者にとってロマンを感じさせた。
二人とも怪我が少なく、試合スパンも短いので出世が早かった。何よりも相手を選ばなかったことがファンの支持を集めた。
慎重過ぎるほどに相手の力量を見極めるボクサーや関係者が増えた中、「さすがに無茶だろう」と言われるような相手ばかりを選んではことごとく撃破していく二人は、ファンや関係者ともに痛快な印象を与えた。
だからこそ2ラウンドで倒れてくれるような東南アジアのボクサーなど選ばずに、本来であれば日本王者が率先して選ぶべき危険なボクサーばかりと闘ってきた。そしてそれに勝つのだから、人気が出ない理由など無かった。
そういった形で、二人はあっという間にそのキャリアを日本のトップボクサーへと駆け上がっていった。
気付けば伊吹はランキング1位となり、2位には新堂がいた。ここまで来るのに、2年かかっていない。強豪と試合を重ねてきた末のスピード出世だった。
ランキングから言えば1位の伊吹が日本王座へ優先的に挑戦する資格がある。だが、ここで想定外の状況が発生した。
伊吹との防衛線に備えてトレーニングを積んでいた日本王者は、試合一ヶ月前になって拳を痛めた。そのため、伊吹と行われるはずであった日本タイトルマッチの試合が中止となった。
その流れで、2位にいた新堂との日本王者決定戦が急遽組まれる運びとなった。新堂にとっては急な話であったが、日本王座が懸かっていれば断る理由など無い。いずれにせよ伊吹とは近々相まみえることになるだろうと、新堂は練習を怠っていなかった。
そのため、高校卒業時に交わした約束は世界戦ではなく、日本王座で実現することとなった。
アマチュア時代には同じ階級でありながら内海瞬というバケモノがいたために、伊吹と新堂が試合という形でぶつかるのは意外にも初めてだった。
ボクシングファンの間でも、伊吹と新堂のどちらが強いのかというのは話題になったことがあり、日本王座決定戦には元々あった試合よりもこちらのマッチメイクの方が相応しいとさえ言われていた。
だが、彩音にとってはこのマッチメイクがひどく残酷なものに映った。
当たり前だが、ボクシングには勝者が一人しかいない。そこには2番や3番があって、誰もがそれなりに喜びを分かち合えるというスポーツでもない。
勝った者は全てを手に入れ、負けた者は全てを失う。だからこそ選手は勝ちに固執し、応援する側も他のスポーツとはまた違う感情を抱くのである。
「なんで、ここで実現しちゃうかな」
スマホに映るスポーツ新聞の記事。彩音は誰にともなく抗議する。日付以外は全部誤報と言われる新聞だったが、他のスポーツ誌を見ても同じ内容の記事が掲載されていた。どうやら本当のことらしい。
彩音はLINEで伊吹、新堂と連絡を取ってみた。
双方ともにいくらか歯切れの悪い返しであったものの、要約すれば「勝負は勝負なので、友人であろうが敬意を持って全力で叩きつぶしにいく」というものだった。時代錯誤の戦国武将のようだった。
彩音は知っている。こうなった二人は何を言っても聞かないと。いや、既にスポンサーの契約やら大会に向けた諸々の準備が進んでいるはずで、何らかのアクシデントでも無い限りはこの王座決定戦が消滅することはありえない。
「はあ……」
思わずため息が出る。
高校時代は内海瞬という共通の「ラスボス」がいた。だからこそ打倒内海を掲げて切磋琢磨してきた経緯がある。結局はその牙城を崩せなかったものの、ライバルでありながら協力者であった伊吹と新堂は良い意味での化学反応を起こしていた。
だが、今回は違う。
かつては互いに高め合った仲間――それが、今度は倒すべき敵へと変わる。
そう簡単に割り切れるものなのだろうか。
わたしなら無理だ――彩音は自分の問いに即答する。
滅多に無いことだが、ボクシングにはリング禍と呼ばれるものがある。それはボクシングの試合で一生残る障害を負ったり、場合によっては命を失うといった悲劇的な結末を迎える事象に付けられた名前だ。
昨今でもリング禍が発生して命を落としたボクサーがいる。現在はストップも早くなったので滅多にない現象ではあるものの、それでもボクシングが人体を壊し合うスポーツである以上、副次的に発生する事故を完全に無くすことは出来ない。
伊吹も新堂も天才に違いはないが、場合によってはどちらも次の試合で壊れる可能性がある。長い時間を彼らと過ごした彩音は、どうしても嫌な方に思考が行ってしまう。
LINEのやり取りでは、二人ともこの試合を楽しみにしていた。選手側からすると、プロの舞台でかつてのライバルと闘えるという別の見方があるのかもしれない。どちらにしても、二人の身を心配する彩音からすれば頭がおかしいと思った。
どうしようもない現象に沈んでいると、ふいにスマホの通知音が流れた。
メッセージを送って来たのは伊吹だった。
「久しぶりにメシでもどうだ?」
珍しく伊吹からの誘いが来た。あの朴念仁が食事の誘いなんて珍しい。
――わたしは、まだ伊吹君を好きなんだろうか?
告白に失敗してから2年以上経過している。まるで歴史上の出来事でもあったかのように、今は他人事だ。
卒業後に新堂や伊吹と会うことはあったが、友人として会っているため何があるというわけでもなく、伊吹についてはストイックな性格から酒を飲まないイメージが強かったのもあり、「邪魔をしてはいけない」とあまり会っていなかった。二人に会うとすれば、それぞれの試合後がほとんどだった。
幸いにも伊吹と新堂はプロに入ってから勝ったことしかなかったので、葬式のようなムードで声をかける機会は無かった。大体は上機嫌なところに労いの言葉をかけて、後は「また次も頑張ってね」で終わっていた。
今では伊吹と会って話しても、胸が締め付けられるような想いになることも無い。当時は「今この想いを伝えないと、わたしは一生後悔を引きずっていくことになる」なんて思っていたが、今はそんな蒼さを振り返るだけで恥ずかしくなる。
とはいえ、あの不愛想な伊吹からせっかく誘いが来たのだから、断る理由などない。姉はすでに大企業の社長と婚約しており、妹の彩音については親もだいぶ規制が緩くなっていた。よほど羽目を外さない限りは伊吹と食事に行ったところで何も咎められるものはない。
「そうだね。こっちも色々話したいことがあるし」
メッセージでそう送ると、簡単に近所の居酒屋で会うこととなった。もしかしたら高級店に呼んでもらえるかと思ったが、世間的には大学2年生ぐらいの年齢だ。あの朴念仁が自分から誘ってきただけで良しとしておこう。彩音は自分にそう言い聞かせた。
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