運命のゴング
――試合の日はあっという間にやってきた。
彩音は大学の授業へ行ったが、気が気でないせいか全く内容が頭に入ってこなかった。
ネットニュースやSNSでは伊吹と新堂の試合が話題に挙がっていた。誰もが待っていた試合に相当するのだろうが、彩音からすれば複雑な心境だった。
二人に激励のLINEでも送ろうかと思ったが、時間差でやめた。自分のしたことによって、どのような影響が及ぶ状況も発生してほしくなかった。
会場となる後楽園ホールへ行くと自分の席へ着いた。チケットはあえてリングサイドではなく、中ほどの位置にしていた。極力どちらの側にも付かないで観たかったことと、つらくなった時にすぐ逃げられる位置でもあるからだ。
興業が始まる。4回戦の試合から始まった興行は、6回戦を1試合と、8回戦を2試合挟んでからメインに入る。
4回戦ボーイの選手達が元気いっぱいにリングで闘い、ノックアウトで試合が終わった。無名の選手とはいえ、良い試合をすれば後楽園ホールの観客は比較的温かい拍手を送ってくれる。
「はあ」
試合が始まってからというものの、彩音はずっと溜め息を吐いていた。大会が進めば進むほど気持ちが沈んでいく。
気付けばあっという間にメイン戦前の試合が終わっていた。豪快なKO勝ちを収めて、スキンヘッドの選手が自分の胸を叩きながら己を誇示していた。
番狂わせでもあったせいか、他の観客も興奮していた。だが、その熱さえも今の彩音には届かない。下手をすればマニアに匹敵するだけの知識を持っているわけだが。
メイン戦前に休憩時間となった。観客はこの間にトイレを済ませて、人によっては売店に寄ってくる。
メイン戦を控えているのもあり、辺りは王座戦を待つ人々で賑わっていた。各々がこれからの試合展開に思いを馳せ、どちらかが日本王者となるか意見を戦わせている。
「はあ……」
もう何度目になるかも分からない溜め息。人生で一番溜め息を吐いた日になるだろう。
周囲の人々が、時々訝し気な目を向ける。きっと「どうしてこの女はずっと溜め息ばかり吐いているのだろう?」と思っているはず。だが、一人一人に事情を説明出来るはずもなく、場違いなどんよりとした空気を漂わせる。
そうこうしている内にメインイベントの開始が告げられる。あちこちから歓声が沸く。リングへ連なる幟が縦に揺れる。どうあれ、運命の時が来た。
「お願い。どちらも無事でいて」
彩音は祈りを捧げる。両選手の入場が始まった。
はじめに入場してきたのは新堂零だった。日本のラップ曲に乗りながら、シャドウしつつ花道を歩いてくる。あちこちから黄色い声が飛ぶ。女性ファンの人気もあるようだった。
髪こそ金髪に染め上げているが、その眼はアイラインでも引いたかのように鋭かった。彼自身、この日に向けてかなりの練習を積んできたのだろう。
リングインした新堂は、対戦相手もいないのに全速力のシャドウを披露した。あまりのパンチの速さに、シャドウボクシングだけで会場が沸いた。
次に入場したのは伊吹だった。この前に食事へ行った時は素の顔だったが、リングへと歩いてくる伊吹の顔貌も、とてもではないが成人になったばかりの人間には見えなかった。
まるでタイムスリップでもしてきた武将かのように険しい目。そこには相手が親友だろうが容赦はしないと決意が書かれているかのようだった。
リングに上がると、伊吹と新堂は嬉しそうに睨み合った。大歓声がさらに二人の闘志を後押しする。
彩音はずっと息をするのを忘れていたのに気付いた。酸素が欠乏して、たかだか入場を眺めていただけで息切れしている。この程度のことで息切れしているのであれば本番が始まったらどうなるのか、先が思いやられる。
入場の音楽が消えても、会場からはいまだに歓声が鳴りやまなかった。世界戦でもない一戦でここまでの盛り上がるのが珍しい。それだけ観客がこの試合を楽しみにしていたことを意味する。
「ただ今より、日本フェザー級タイトルマッチを行います」
リングアナが告げると、それだけで観客達が盛大に歓声を上げた。
選手の紹介がリングアナによってなされると、双方の応援が相手側の歓声に負けないよう、これでもかと声を張り上げた。
選手コールが終わると両者はリング中央へと集められ、レフリーから諸注意を受ける。
握手と言われ、両者がグローブを合わせる。どちらも気負いの無い、いい顔をしていた。
彩音が前のめりになる。もう逃げてはいられない。泣こうが喚こうが、二人の試合は始まる。
「ラウンド1」
大歓声が響く中、試合開始を告げるゴングが鳴った。
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