さながら武人のやうに

 一時は懸念された親の説得だが、いざ彩音がボクシング部のマネージャーになる話をすると両親ともに「まあいいんじゃないか」というリアクションだった。


 おそらく彩音が主体性を持って何かをやりたいと言い出すこと自体が珍しかったので、親も嬉しかったのだろう。


 そういった流れで、彩音の入部はあっという間に承認された。


   ◆


 翌日になると、さっそく彩音は新入部員として他の高校生ボクサー達へと紹介された。映画のヒロイン役にそのまま使えそうなビジュアルの彩音は、男子生徒達から大いに歓迎された。


「あー言っとくがなー。日崎がかわいいからって告白しようが付き合おうが知らんが、それで彼女が気まずくなって辞めるような流れを作るのはやめろよ。それをやった奴は殺すからな~」


 顧問の菊池が冗談交じりに釘を刺す。部内恋愛をこじらせてマネージャーが辞めてしまう話は腐るほどある。せっかく入って来た貴重な人材を下らないことで失いたくないというのが本音だろう。菊池は冗談を通じて「やるなら上手くやれ」と暗に示したのだった。


 彩音を歓迎した部員の中には、伊吹の姿もあった。昨日のスパーリングでは恐ろしく鋭い眼つきでパンチを繰り出していたが、練習前の表情は爽やかなイケメンといったところだ。このギャップに多くの女子がやられるんだろう。彩音は冷静に分析していた。


 挨拶もそこそこに練習が始まる。


 ボクシング部のマネージャーとは言っても、かけだしでやれることは雑用に近い。大会出場の申し込み等の事務作業はミスが発生するとシャレにならないので、菊池が自分でやっていた。


 そのため、共用の水を汲んだり、たまに汗まみれになった床をモップで拭く以外はおおよそ見学に近い内容となる。


 練習は準備体操から始まる。身体をほぐすと、ロープスキッピング――縄跳びをする。これを3分3ラウンドやると、リング上でシャドウボクシングが始まる。


 対戦相手の姿を思い浮かべて、見えない敵と闘う練習だ。この練習でどれだけリアルな試合をイメージ出来ているかで練習の成果は全く違ったものになっていく。


 シャドウが終わるとサンドバッグ打ちが始まる。サンドバッグを打ちながら、リング上やリングサイドの空きスペースを使ってミット打ち等のトレーニングが始まる。ミットを持つのは顧問の菊池だ。


 ミットではコンビネーションを放ち、時たまにアドバイスを交えつつ限界まで打たせる。菊池はわざと遠いところにミットを置く。こうすることで選手はより遠くへ踏み込まないといけなくなり、練習のキツさはさらに増すことになる。


 リング上ではマスボクシングという、スパーリングを軽くしたトレーニングが行われる。とはいえ選手同士が熱くなってスパーにほど近い「マスボクシング」が行われることもあり、それなりに激しい練習となる。


「おい真田、手を抜いてるんじゃねえぞ!」


 他の部員のミットを持ちながら、菊池が声を張り上げる。


 檄を飛ばされた選手は「はい!」と大きな声で返事をすると、サンドバッグをさらに強く打ち始める。菊池の後ろにいたはずだが、手を抜くとすぐに分かるようだった。


 ミットが一巡してマスボクシングやサンドバッグ打ちが一通り終わると、地獄のサーキットトレーニングが待っている。


 ここで主軸になるのは通称「バーピー」と呼ばれるバーピージャンプになる。バーピージャンプとは、立っている状態から一度しゃがみ込んで腕立て伏せの体勢になり、そこから立ち上がる動きでジャンプをするトレーニングになる。


 これを20回1セットにして、間に腕立て伏せや腹筋を挟んで何度も行う。全ての回数を合わせると、バーピージャンプだけで200回ほどやることになる。当然のこと、後半になればなるほど大変になってくる。


「うわっ……。これ、キツそう」


 彩音が思わずひとりごちる。はた目に見れば拷問のようなトレーニングだ。日々やっているトレーニングなので慣れてはいるはずだが、選手達の顔も後半になればなるほど苦痛で歪んでいく。


「ああ、キツいだろうな。大学生と同じトレーニングだから」


「大学生とですか?」


「ああ、だけど全国レベルになったらどこでもこれぐらいは練習しているよ。その上で天才が勝つんだ。もう才能だけで勝てるほど高校ボクシングは甘い世界じゃないよ」


 菊池はさらりと言ってのけた。たしかに競技全体のレベルが上がったせいで、ごく一部の例外を除いて才能だけで上位に食い込んでくる選手は絶滅危惧種となっている。


 もう小学生からボクシングをやっている生徒も珍しくなくなっている。マンガであるような、不良が喧嘩の延長でボクシングを始めてチャンピオンになる流れは過去の遺物となりつつある。


 それゆえに、練習は過酷さを増していく。そうしないと全国レベルでは勝てないからだ。


 バーピーは続いている。伊吹も含めて多くの選手がかなりキツそうだった。


 あまりのキツさに空気が重くなると、誰となしに「ファイトー!」と叫んで他の部員が「おう!」と応える。どちらかと言えば気持ちが折れそうになった時に自分を鼓舞する意味合いの方が強い場合が多い。


 ようやくサーキットトレーニングが終わると、全員がその場で倒れ込んだ。後は整理体操をしてから流れ解散だ。


「すごいですね……」


 彩音は思わず唸る。


「ああ、これを毎日続けられる奴だけが試合で勝つんだ」


 菊池がニヤリと笑う。


 これだけキツい練習を毎日やったら逃げだしそうな選手が一人ぐらいならいそうなものだが、菊池の笑顔はそんなことを想定もしていないようだった。


 練習が終わった者が順番に冷水器で水をガブ飲みしている。あんなに水を旨そうに飲む人を初めてみた。そんなことを思わせる人間が目の前に何十人もいるのだ。


『わたし、選手になるとか言わなくて良かったな』


 彩音は密かに胸を撫でおろす。こんなに激しい練習をさせられた日には、一日でリタイアする自信がある。他の部活でも、この内容の練習を課されたら逃げ出す者は多数いるだろう。


 全員が引き上げる中、一人だけまたグローブを嵌める者がいた。


 ――伊吹丈二。ボクシング部の1年生でありながらエースでもある男子生徒。その齢はわずか15歳か16歳であろうに、全身から放つ殺気は修羅の道を行く者のようだった。


 鷹のように鋭い眼つきをした伊吹は、右構えのオーソドックススタイルでサンドバッグに対峙した。敵をイメージして、フェイントをかけてから左を突く。部屋中に銃声のような音が響く。ジャブの威力じゃない。


「すごい」


 彩音が小声で呻く。集団で練習していた時は目立たなかったが、伊吹のパンチ力は明らかに重量級のそれに見えた。パンチを打つたびにサンドバッグが悲鳴を上げる。見ていてかわいそうになるほどの威力だった。


 こんなパンチが顔に直撃したら……。


 想像して、彩音の全身に悪寒が走った。きっとタダでは済まないなどというレベルではないのだろう。


「すごいだろ、あのパンチ」


 知らぬ間に隣にいた菊池が口を開いた。菊池は嬉しそうな表情でバッグを打つ伊吹を眺めている。


「ああやって、あいつは人一倍努力をしてきたんだ。それが今のあいつを形作っている」


「なんていうか、ボクサーっていうより武道家っていう感じですね」


「そうだな。ボクシングはスポーツだが、あいつの追い込み方はまるで修行僧だ。そう考えると言い得て妙な表現なんじゃないか」


「どうしてあんなに頑張れるんですか?」


「さて、どうしてだろうな」


 菊池は虚空を見つめる。今まで考えたことは無さそうだった。


「あえて言うなら、究極の自己満足だろうな」


「究極の自己満足?」


 彩音は小首を傾げてオウム返しした。


「ああ、そうだ。どれだけ練習しても、同じぐらい努力していて自分よりも才能のある奴が出てくれば負ける。負ける時はアッサリと負ける。そういうもんだ。だけどな、同じ負けにしても『もう少し頑張っていたら』って思う時があるものなんだ。あえて言うなら、これ以上出来ないってぐらいに自分を追い込むことで、結果はどうあれ受け入れて生きていけるためにやってるんじゃないか」


「はあ……」


 分かるような、分からないような。彩音はどうリアクションすればいいか困っていた。


「ボクシングっていうのはな、残酷なスポーツだ。『え? この選手が?』っていうのが世界チャンピオンになることもあれば、『この天才でも届かないのか』って場合もある。それは多分に運の要素ってやつを含んでいる」


「ええ……」


「そんな時に慰めになるのがな、『自分はどれだけ本気でやったか』っていう要素だ。アホみたいな話だが、最後にはこれがモノを言う。マジで全力を出して取り組んだ奴は自分のやってきたことを誇りに思うだろう。だけどな、そうじゃない奴にはそのまんま逆の現象が起きる」


「……」


「後者の方はな、まあ、惨めなもんだ。誰だってゴールは笑顔で迎えたい。『あの時もっと頑張っていたら』なんて思って残りの人生を送りたくない。伊吹はそれを本能で理解しているんだろうさ」


「はあ、そういうものなんですか……」


 伊吹は依然として全力のサンドバッグ打ちを続けている。まるで彩音達の存在が知覚出来ないかのように、自分の世界に入り込んでいた。


 彼にでも菊池の言うような想いがあるのだろうか。


 正直なところ、よく分からなかった。伊吹はどう見ても目の前の試合に勝つこと以外は頭に無いように見えたし、少なくとも数年先になるであろう引退後のことなど考えているようには思えなかった。


「あいつもこれぐらい気合を入れてくれりゃあいいんだけどな」


 ふいに菊池が顔をしかめる。


 あいつ――きっと、新堂のことだろう。


 練習に対する態度はともかくとして、新堂の持つ才能がずば抜けているのは素人の彩音にもはっきりと分かった。それだけに、菊池がそれを惜しむ気持ちも分かる気がする。


「新堂君なら、きっと戻ってくると思いますよ」


 菊池が「ん」と言って彩音の顔を凝視する。その発言の真意を確かめたいのだろう。


「昨日、帰りで偶然、新堂君と会いました。軽く会話した程度ですけど、多分戻って来ると思います」


 自分が新堂をたきつけたことは黙っていた。


「そうか。戻って来たら説経でもしてやるか」


「そうですね。二度と練習をサボろうなんて思わないぐらい、徹底的に絞った方がいいと思います」


 菊池を密かに煽った。彩音はこの前の会話にムカついていた。あの男は一度根性を叩き直す必要がある。


 どうあれ、あの感じだと新堂は戻ってくる。腐っているくせに『本気を出せば俺の方が上』という心理が透けて見えた。彩音の嫌いなタイプだった。


「明日からも色々と頼む。出来たら選手の精神的なサポートも出来たらいいなと思っている」


「はい。そんな大役がわたしに務まるかも分かりませんけど」


「大丈夫さ。君の場合はいれば全員の士気が上がるからさ」


 容姿については言及しなかったが、彩音は自分がかわいいことぐらい知っている。


「はい。そうなれたらいいですね」


「ああ、ただ、部員と付き合う時は隠れて付き合えよ。揉めるから」


 菊池は冗談半分の口調では言うが、きっと本気で言っているのだろう。彩音もそれは気を付けないといけないと思っていた。部員を助けるマネージャーが部活クラッシャーになってはシャレにならない。


 伊吹はまだ鬼の形相でサンドバッグを打っている。いつまでやるつもりだ。リングを降りた時のキャラは爽やかなイケメンでも、これだけすごい顔で闘う男を好きになるのは難しいように感じた。まあ、惚れることは無いだろう。


 ――この人、ストイックを通り越してちょっとサイコだよね……。


 脳裏に響く独り言。


「まあ、惚れることは無いのかなあ……」


 誰にともなく呟く。


「そうか。まあ、別にいいんだ」


 聞こえたのか、菊池が苦笑いする。彩音はしまったとは思いつつも、伊吹の練習を見続けていた。


 惚れることは無いにしても、この男が未来の世界戦線で闘っているのは少しも想像に難くなかった。

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