負け犬

「とは言ったものの、パパとママは許してくれるかな」


 彩音は帰り道で誰にともなく呟く。まだ伊吹と新堂の繰り広げた壮絶なスパーリングの余韻が残っている。


 顧問の菊池から色々と聞いたが、あの二人は超高校生級のスーパールーキーだったらしい。二人はともに小学生時代からプロがバリバリ練習しているジムでボクシング技術の基礎を築き上げ、あらゆる大会で暴れ回るライバル関係にあった。


 力が拮抗していたので互いに勝ったり負けたりだったが、最後の試合は金髪の新堂が疑惑の判定で勝利していた。関係者の間では有名な話だが、専門誌には判定決着としか書かれないので騒ぎにはならない。勝った方の新堂も「え? 俺が勝ちでいいのか?」という顔で写真に収まっている。


 それ自体は「ボクシングあるある」で済まされたものの、推薦入学で彩音と同じ高校へと入学した新堂はいくらか素行不良だった。特段非行に走ったわけでもないが、練習をサボったり仮病で休む回数が増えていた。


 別に珍しい話ではない。どこの世界でも子供の頃は神童と呼ばれて、調子に乗ったまま努力を怠ったがために輝きを失っていった者は枚挙にいとまがない。


 だが、伊吹にとって新堂の態度は看過出来ないものだった。


 入部してすぐの頃は伊吹とともに「目指すは高校9冠です」と宣言していただけに、ライバル関係にあった伊吹からすれば許せなかったのだろう。


 中学時代最後の試合は後味の悪い負け方をしたこともあり、今までの鬱憤が爆発した際、タイミング悪く彩音がボクシング部を訪問してきたとのことだった。


 当然のこと、下手なプロよりもずっと強い高校生ボクサーの二人が全力を出せば、それなりの迫力になる。つぶし合いにほど近い内容のスパーリングを見せられて、今年新入生となったばかりの彩音にとってはいささか刺激が強すぎたのではないかと顧問が懸念するのも無理の無い話だ。


 実際に彩音はリングの上で繰り広げられた闘いに圧倒されたわけだが、だからと言ってそこから去ろうとも思っていなかった。


「あのスパーリング、本当にすごかった」


 それは初めてプロの試合を観た野球少年のように、彩音の心へ強烈な印象を残していた。目の前で闘っていた二人が将来的に世界タイトルマッチに出ていたとしても全く不思議はない。素人ながらに、彩音にそんな確信が生まれた。


 スパーリングを見て選手志望の気持ちはすっかり吹っ飛んだが、動画で目が肥えていたのもあり成功する格闘家が栄光を掴む映像は見える気がした。


 そして、彩音はその瞬間を見てみたいと思った。


 マネージャー希望の話はその場しのぎの出まかせだったが、選手にならずにあの二人の行く末を見守るのであれば、マネージャーという立ち位置は一番自然な形になる。そう考えると、案外咄嗟に吐いた嘘でも役に立つものなのかもしれない。


 マネージャーをやること自体には全く抵抗がなかった。何らかの夢中になれる活動を見つけたかったというのはあったし、それがボクシングという一風変わった題材であっても、取り組んだらそれなりに楽しそうだった。


 問題は親の説得だ。選手ではないとはいえ、箱入り娘として育ってきた彩音にとって両親の了解を得られるかは怪しかった。


 カタブツの両親のことだから、ボクシングに対して偏見を持っていても何ら不思議ではない。そうなると明らかに未来の世界チャンピオンである二人の足跡を見過ごすことになる。それだけは避けたい事態だった。


 さて、どうやって両親を説得するか。


 そう考えて帰っているところ、バス停に見覚えのある顔がいた。夕闇の中でうなだれる影。よく見ると、先ほど壮絶なスパーリングを見せられた新堂だった。


「あ」


 思わず声を出すと、新堂がこちらを見た。「しまった」とは思ったが、引っ込みがつかなくなった。


「さっきは、お疲れ様でした」


「……誰だっけ?」


「わたし、1年生の日崎彩音って言います」


「日崎……?」


「ああ、分かんなくても仕方ないよね。君がスパーリングをやる直前に来たから」


「ああ、そうか……」


 それだけ言うと、新堂は俯いて無言になった。自分が倒されるところを見られたと落ち込んでいるのかもしれない。


 沈黙。気まずい。初めての会話が何やら気まずいものになった。


 どうにかカバーしないと。彩音はなぜかそう思った。


「さっきの、すごかった、よ……?」


「スパーのことか。見事なまでにブチのめされたけどな」


「わたし、格闘技とかよく好きで見ていたんだけど、あんなに迫力のあるものだなんて知らなかった。本当にすごいなって」


「……」


「……」


 再び沈黙が訪れる。夕暮れの中で気まずさがMAXになっていた。


「あのさ」


 耐えきれなくなった彩音が口を開く。


「あれだけすごい闘いが出来るなら、きっと世界チャンピオンなんて夢じゃないよ」


 ただのヨイショではなく、本音だった。あれだけの動きが高1で出来るなら控え目に評してもバケモノだ。相手の伊吹はそれ以上のバケモノだったわけだが。


 だが、依然として新堂の気落ちした様子は収まらなかった。


「そうか。だったら全国には未来の世界チャンピオンだらけだろうな」


 井上尚弥がそうだったように、明らかにモンスター予備軍のキッズボクサー人口は増えている。日本全体のボクシングレベルが上がったというのもあるだろうが、ボクシングも野球やサッカーのように小学生から始めないと成功するのが難しいスポーツになりつつある。


「でも、中学最後の試合は君が勝ったんでしょ?」


「ああ、疑惑の判定でな。審判は寝ていたんだろう」


 新堂の自虐が止まらない。


「それに、さっきので伊吹もスッキリしただろう。あれで伊吹の方が俺よりも強いってハッキリしたんだから」


「君は悔しくないの?」


「ああ、負ける時は負ける。どうせ諦めるんだったら早い方がいいだろう」


「じゃあ辞めるの?」


「……」


 新堂は再び無言になった。


 今の一言は胸に突き刺さったようだった。


「このままやってもな……。まあ、お前には俺の気持ちなんて分からないだろうけど」


 最後の一言にはいくらか険があった。スポーツ推薦で入学した新堂にとって、その競技で居場所が無くなるということは高校へ行く理由を失うようなものだ。その重圧はその立場になった者にしか分からない。


「たしかにわたしには君がどんな気持ちかは分からないよ。でも、本気で取り組んで負けたわけでもないんでしょう?」


 菊池から新堂が練習をサボりがちであったことは聞いていた。


「本気でやったら勝てる。そんなことを言い続けて、これからもずっと本気では取り組まないんでしょ?」


「なんでお前にそんなことを終われなきゃいけないんだよ!」


 新堂が声を張り上げた。


 半分は言葉通りだが、半分は図星だったからだ。事実として新堂はダメになるスポーツ推薦枠の人間を地で行っていた。


 才能で言えばむしろ新堂の方があったかもしれない。ただ、努力を継続したのは伊吹の方だった。それがそのままスパーの結果に出ただけの話だ。


「やり返そうとか、思わないの?」


「うるせえよ……」


 彩音の質問に、新堂がトーンダウンする。


「わたし、ボクシング部のマネージャーになるから。明日から待ってるからね、新堂君」


 彩音は返事を待たずにバス停を後にした。


 新堂は呆然とした顔で、去り行く彩音の背中を眺めていた。


 歩きながら、彩音は一人後悔していた。


『なんであんなこと言っちゃったんだろう』


 自分でもキツい一言だとは思ったが、一度口から出ると引っ込みがつかなくなった。


 どうあれ、明日からボクシング部のマネージャーになる。新堂が来るかどうかは分からない。来なければ、その程度の男だったというだけの話だ。


 それよりも親の説得だ。これだけ啖呵を切っておいて「親が入部を認めませんでした」では示しがつかない。いたずらに新堂を傷付けただけの最悪な女として記憶されることになる。それは御免だった。


「でも、きっと戻って来るでしょう」


 彩音は誰にともなく呟く。


 新堂は必ず戻って来る。どうしてか、そういった確信があった。


 夕日が沈んでいく。夕焼けの空を飛んで行く鳥達を、これといった意味もなく眺めていた。

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