扉を開けた先に

「こんにちはー」


 入り口の金属扉を開く。


 重苦しい空気。むせ返るような汗の匂い。それでも彩音はワクワクしていた。


『いいじゃない。これが期待していた世界だよ』


 格闘技の練習がお花畑でなされるはずがない。そこには互いを潰し合う有機体がいて、血と汗の匂いが充満していて然るべきものなのだ。この程度でお嬢様は怯まない。


 ジムの中はどこか殺伐とした空気が漂っていた。


 リングの上では、黒髪の優等生風の男子生徒と金髪の男が睨み合っている。揉め事でも始まったのか互いに凄まじい殺気を放っており、間に別の生徒が並んで壁となり、今にも殴り合いを始めそうな二人を隔離している。


「言って分からないんだったら体で分からせてやるよ。グローブを付けろ」


「上等だ。お前こそ負けてメンタル病んでも知らねえぞ」


 意外にも気性の粗そうな黒髪がすごむと、金髪が軽口でそれに応じる。流れは不明だが、これから不仲の二人がボクシング形式で殴り合いを始めるらしい。


『なにこれ、格闘技の試合前みたいじゃない』


 普通のJKであればビビって逃亡するはずのところだが、彩音は逆に幸運を手に入れたような気分になっていた。日頃から見ている不良同士が闘う格闘技イベントと似たような流れが目の前で起こっているからだ。


「あの、何か?」


 一人で高揚した気分を抱えていると、近くにいた大人に話しかけられた。顧問の教師のようだ。年齢は40手前ぐらいか。細かいシワが顔に刻まれ、いくらか後退気味となった生え際の下には妙な迫力のこもった瞳があった。この教師も昔は選手だったのだろう。


 顧問はいくらか苦虫を噛み潰したような顔をしていた。その顔には「よりにもよってこのタイミングで外部の人間が来たか」という思いがありありと浮かんでいる。


 数秒フリーズした彩音は、ハッと現実へと引き戻された。


「あ、すいません」


 彩音はペコリと頭を下げると、来意を伝える。


「あの、わたし、ボクシングをやってみたくて、ですね……」


「そうなのか。そりゃ素晴らしい」


 棒読みだった。歓迎されているようには思えない。男は続ける。


「来てくれたのは非常に嬉しいんだけど、今、こんな状況でね。悪いんだけど」


 リング上ではなおも殺伐とした空気が漂っていた。他の生徒に離されて、二人の男子生徒が準備を始める。


「殺してやる」


 優等生風に見えた黒髪男子が自分でヘッドギアを着用してからマジックテープ式のスパーリング用グローブを嵌める。その周囲を取り囲む男子生徒の一人がチラリと彩音を一瞥した。今の発言が聞こえていなかったか気にしているのだろう。


 まぎれもなく聞こえていたが、彩音としてはそんなことはどうでもよかった。


 これからボクシングの試合が始まるらしい。


「これから試合なんですか?」


 ずっと居心地の悪そうな顧問に訊くと、頭を掻きながら質問に答える。


「試合というか、試合形式の練習だな。スパーリングっていうんだけどさ」


「すごい! わたし、初めて見ます!」


 彩音はやや興奮気味に答える。


「……見るの?」


「はい。何か問題でも?」


「ああ、そう。まあ、別にいいんだけどさ……」


 顧問は色々なことが起こり過ぎて、脳内の処理が追い付かないようだった。時間差で諦めたように口を開きはじめる。


「一応今の状況を説明するとね、あの金髪の奴がいるでしょう? あれ、ウチの部員なんだけど、簡単に言うと色々とやらかしたせいで黒髪の子が怒ってるの。それでスパーリングで分からせてやるっていう流れになってる」


「わあ、そうなんですね」


 嬉しそうに答える彩音に、顧問は調子を崩したようだった。


 おそらく普通の人間なら関わりたくないと退散するだろうから、真逆の反応をされて調子が狂ったのだろう。しばらく色々考えた後に、「うん、まあ、いいか」と一人で勝手に納得したようだった。


 スパーリングの準備が終わったようで、他の生徒がタイマーを止める。リングの周りを、いかにもヤンチャそうな男子や目つきの鋭い生徒が囲っていく。事情は知らないが、ボクシング部全体でも注目の一戦らしい。


 周囲から野次馬の生徒達の囁きが聞こえてくる。


「どっちが勝つと思う?」


「さすがに伊吹じゃないか?」


「でもさ、新堂もエリートなんだよ?」


「それでも新堂が勝ったらやる気無くすな。あいつ練習に来てねえし」


「たしかに。だけど努力している方が必ず勝つってわけでもないからな」


「分かるけど、それは言うな。悲しくなる」


 部員達は思い思いの言葉を発していく。交わされる言葉から察するに、金髪の生活態度が悪いせいで黒髪の方がブチ切れたようだ。文科系の部活でもよくある話ではあるが、ここではその決着を拳で付けるルールのようだ。そういった点では異質な部活動なのかもしれない。


 リングに上がった両者。二人ともヘッドギアをして、その場でステップを踏みながら軽いシャドウボクシングをしている。漂う殺気――互いにサメみたいな目をしていた。彩音は密かにビビった。


「それじゃあ3分3ラウンドで」


 部員の一人がそう言うと、タイマーのブザーが鳴った。

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