スパーリング1

 ブザーが鳴ると黒髪と金髪がリング中央で拳を合わせる。それから、相手を警戒するように旋回しはじめた。


 他の部員にとってもこのスパーは娯楽に類するのか、テレビへ食いつくみたいに練習試合の行く末を見守っている。


 彩音は突如始まったスパーリングを、少し離れた場所から眺めていた。


 黒髪の方はガードを上げて、両腕の間からじっと相手を観察している。対して金髪の方はガードこそ上げているものの、黒髪に比べて顔面全てをカバーしている風ではない。


 二人は互いに身体を揺すり、プレッシャーとフェイントをかけ合っている。


「あの黒髪の方が伊吹って奴で、今年入って来たウチのエースね」


 隣に立つ顧問が説明をしはじめる。黙っているのがしんどくなったのだろう。彩音が「はい」とだけ答えると、顧問はそのまま説明を続ける。


「それであの金髪が新堂っていう奴。こいつも1年生で、強いんだけどすぐサボるから伊吹が怒っているってわけ。風紀が乱れるからね」


「それであんなに怒っていたんですね」


「いや、厳密にはそれだけじゃないんだけど……。まあ、要はこの二人はケンカ中ってことだ」


 他にも色々と事情があるみたいだったが、面倒になったのか顧問は説明を打ち切った。


 彩音は視線をリングへと戻した。


 あれだけいがみ合っていた割に、リング上では冷戦のように牽制のし合いが続いている。


 金髪の新堂は右半身が前に出るサウスポースタイルだった。通常の右構えとは違って、サウスポーは攻略方法が異なる。


 右構えの選手は時計回りに回る。その方がジャブを当てやすく、有利な体勢で闘えるからだ。


 サウスポーはその逆だ。右足が前に出ており、得意の左ストレートを打ち込むためには右回りで動く必要がある。


 そのような関係から、右構えとサウスポーが闘った時にはアウトサイドの取り合いが発生する。外側から殴った方が有利だからだ。


 現在の状況としては、互いにプレッシャーをかけながらアウトサイドを取らせないように牽制し合っている段階だった。


 空気が重苦しい。緊張感に息を呑む。


 刹那、黒髪をした伊吹のジャブが襲いかかる。


『速い!』


 彩音は心中で驚く。動画で散々格闘家のパンチは見てきたが、中継で見るような「神の視点」とは違い、目の前で放たれるボクサーのパンチは信じられないほど速かった。


 ジャブは新堂のガード上を叩く。激しい衝突音。喰らえば無事では済まないだろう。


 殺人ジャブでガードを叩かれた割に、金髪の新堂は冷静だった。先ほどの口論ではいかにも軽薄そうな印象の男ではあったが、リングに上がるとそのオーラは別物だった。どちらかといえば、不良よりもアスリートと表現した方が適切に感じる。


 追撃のジャブが何発も放たれるが、新堂は身体を揺すってそのパンチ一つ一つを外していく。


「すごい。あれが見えるっていうの……?」


「半分は見えているだろうが、半分は勘だろうな」


 驚く彩音の独り言に顧問が答えた。


「勘って……」


「打ち出しは見えるだろうけど、あのスピードのパンチを目の前で打たれたらそりゃ見えんさ。だからパンチが出る瞬間にどの方向にどれだけのスピードで、そしてどれだけの伸びてくるかを計算しながら闘うんだ。ほとんど一瞬でね」


 顧問の言葉に彩音が圧倒される。


 確かにあのパンチを目の前で打たれたら見える気がしない。そう考えると勘でよけるしかないというのも分かる気はした。それにしても人間の動きではないようにも見えた。


 スパーは緊張感を持続していた。


 アウトサイドの奪い合い。互いにプレッシャーをかけながら、利き腕のパンチをブチ込む機会を狙っている。


 伊吹がまたジャブを放つ。ふいに、踏み込んで左フックを放った。ガードする新堂。開いたガードの隙間に、伊吹の右ストレートが伸びていく。


 ――速っ……!


 言葉にする間もなく、容赦ないコンビネーションが新堂目がけて放たれた。他の部員から「おおう」と呻き声が漏れる。


 だが、新堂はわずかに頭の位置をずらして右を外した。刹那、そのまま踏み込んで右フックで襲いかかる。


 右フックは浅く伊吹の顔面に当たった。伊吹もこれは見えていたのか、首を捻ってフックの威力を殺している。スリッピングアウェーと呼ばれる高等技術だ。


「ヤベえな」


 部員の一人が唸った。目の前の高校1年生らしからぬ動きに驚いているようだった。


 二人は弾かれたように距離を取る。一度仕切り直すことにしたようだ。


 再び構えたまま身体を揺らす二人。息の詰まるような緊張感が戻ってくる。


 今度はサウスポーの新堂が前に出はじめる。身体を揺らしながら、右側から弧を描くように伊吹の空間を刈り取っていく。


 右ジャブ。ガードの上を軽く叩く。撒き餌だ。すぐにもう一発ジャブを放つと、わずかに踏み込んで自身の立ち位置を修正する。いい角度を確保すると、間髪入れずに左ストレートを放った。


 轟音――一撃KO必至の左拳がガードの上を叩く。伊吹もそれを理解しているのか、強引にはいかずにガードを上げていた。さらにそのガードの外側から右フックが襲いかかる。サウスポーの得意とするコンビネーションだ。


「うおっ」


 部員達が誰にともなく声を上げる。


 それも無理のない話だ。当たればどれも倒される威力のパンチ。その衝撃は重量級のパンチに匹敵するほどに見えた。


 伊吹は冷静に見ていた。左ストレートに続き、右フックも冷静にガードしている。ガードの隙間から、冷静に新堂の動きを観察していた。


 右フックの打ち終わりに、ノーモーションで右ボディーストレートを放つ。腹筋を叩く、強烈な音が室内に響いた。


 みぞおちには当たっていなかったせいか、新堂は表情を変えずに距離を取った。その瞬間に1ラウンド目の終了を告げるブザーが鳴った。


 息を止めていたのか、そこらで緊張感から解放されたような溜め息が聞こえる。


 ブザーが鳴っても二人はリング中央で睨み合っていた。


「ストップだストップ。続きは次のラウンドでやれ」


 ヤバいと思ったのか、顧問が牽制するように声を張り上げる。睨み合う二人は、無言で自陣のコーナーへと戻って行った。


「ヤベえな。こりゃガチで殺す気だな」


 部員の一人が軽口を叩く。


 だが、事実としてリングの上では果し合いのような空気が流れていた。どうしてそこまで憎み合っているのか彩音には知るよしもなかったが、高校生の部活動らしからぬ緊張感が流れていたのは事実だ。


「すごいですね……」


 彩音は圧倒されながら顧問に言った。


「ああ、どっちも中学生の時には全国レベルだったからね」


 顧問は当然のように答える。今では小学生のボクサーも珍しくないらしいが、これほどまでのレベルだとは思いもしなかった。


 なにせ最近では野球少年ですらあまり見なくなっている。どこかで練習はしているんだろうが、公園でのボール遊びが禁止されている所が多いせいか、目につく所でスポーツに励む少年少女をそう見なくなった。


 そのせいもあってか、自分の知らないところでこんなバケモノがすくすくと育っていたのかと思うと不思議な感覚だった。


 各々のコーナーでグローブをしたまま、器用にでかいペットボトルの水を飲んでいる。タイマーの表示するインターバルの数字があっという間に無くなっていく。


「はい、じゃあ2回目!」


 顧問が呼びかけると、第2ラウンドの開始を告げるブザーが鳴った。

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