それ、ハラスメントですよ。

永久保セツナ

それ、ハラスメントですよ。(1話読切)

「あーっ、課長、今ため息つきましたね! それ、タメハラっていうんですよ!」


「ため息つきたくもなるわ、ハラスメントハラスメントうるさいな! じゃあそういうお前は欠伸をしたな! アクハラだ、アクハラ!」


「ちょっと眠かっただけなのに、それはないでしょう!」


 今日も朝から新入社員の金子と、課長の田村が言い争っている。

 その口喧嘩はなかなか終わりそうにない。

 ここ、原田商事の総務課はギスギスした険悪な雰囲気になっていた。


「金子くんと田村課長、相変わらず仲が悪いね」


 隣の席でキーボードを打っていた清川さんがこそっと俺に話しかけてくる。

 この光景は原田商事の総務課では、すでに日常茶飯事だ。

 俺は苦笑いをしながら、椅子の背もたれに背中を預けた。


「どうかな。まあ、喧嘩するほどっていうし、ある意味、仲がいいんじゃないの」


 ――金子と田村課長の因縁は、四月、金子が総務部に配属されることになったことから始まる。


「金子と言います! これからよろしくお願いします!」


 彼はとても元気な青年だった。やる気に満ち溢れており、ハキハキとした口調で自己紹介をする、明るくて感じの良い新入社員。おそらく、総務部のほとんどの人間がそう思ったのではないだろうか。

 総務部の面々は「これからよろしく」と拍手を送り、温かく金子を迎え入れた。


 問題はこのあとである。

 金子の挨拶が済んで、田村課長が軽口を叩いたのだ。


「金子くんは元気でとてもいいね。その調子でしゃかりきに働いて、我が社に貢献してくれると嬉しい!」


 俺達総務部は、そのセリフに関しては、課長が金子に気合のエールを送ったのだと受け取っていた。

 ただひとり、金子だけが、課長の言うことが気に入らなかったのか、ムッとした顔をしたのである。


「課長。それ、ハラスメントですよ」


 いきなりそう告げられて、課長は「えっ」と固まってしまった。


「それ、僕に社畜になれってことですよね。そういうの、どうかと思います」


 総務部の空気が凍りついたような錯覚を覚える。

 不機嫌そうな金子を見て、総務部はシンと静まった。


 課長は自分の失言で空気が悪くなったのを察して、「ああ、すまんすまん。そんなつもりじゃなかったんだ」と素直に謝罪する。それでその場はおさまったはずだった。


 それ以来、総務部での金子の評価は「彼は少し気むずかしい」程度の印象にとどまる。

 しかし、彼はだんだん言動がエスカレートしていった。


 金子は事あるごとに、課長の一挙手一投足を「それもハラスメントですよ」と指摘し、課長を困らせたのだ。


 課長も最初のうちは「お、すまんな」と温厚な態度だったが、それを繰り返されたら、さすがに腹も立つだろう。

 やがて、金子の姿を見るだけで苦い顔をするようになったが、金子は「それもハラスメントですよ。社員には平等に接してください」と注意し、課長はとうとう「俺はいったいどうしたらいいんだ!」と激昂した。


 やがて、金子と課長は、お互いの行動を逐一監視するようになる。

 そして、事あるごとにその言動に「それはハラスメントだ!」とお互いを訴えて言い争いをするようになった。


 ため息をつけば「タメハラ」、欠伸をすれば「アクハラ」、ハラスメントだと主張することそのものを「ハラスメントハラスメントだ!」と叫ぶようになる。


 総務部の空気は最悪になり、ギスギスしていて、なんだか居心地が悪い。


 総務部の人間は朝から晩まで、仕事もせずに言い争いをしているこの雰囲気に慣れかけていたが、他の部署の人間が口喧嘩を見ると、皆驚いた顔をしている。それはそうだろう。


 清川さんが他の部署の社員に「ごめんなさい、いつものことなので気にしないでください」とペコペコ頭を下げていた。


 俺は「清川さんが悪いわけじゃないのになあ」と、なんだか申し訳ない気分である。


「それにしても、困ったね」


 清川さんは金子と田村課長を見てため息をついていた。

 総務部は慣れているとはいっても空気は常にピリピリと張り詰めている。

 さらに、二人が言い争いをしている間は彼らに近寄ることすらできない。

 特に、課長に話しかけられないのは問題だ。彼の承認を得なければならない仕事や、報告したい業務などもあるのに。総務部の面々は非常に困っていた。

 そこで金子と田村課長を除いたメンバーで「なんとかしなければ」と話し合うことに。


「なんとか、金子くんと課長を仲直りさせられない?」


 清川さんの提案に、「じゃあ、どうしようか」と他の社員も策を練る。

 俺は「余計なことはしないほうが……」と思いつつ、様子を見ることにした。

 ……のだが、清川さんに頼まれて、居酒屋での飲み会をセッティングすることになってしまったのだ。

 正直気は進まないが、清川さんに頼まれては断れない。

 俺は内心、ため息をつきながら居酒屋に予約の電話を入れた。


 そして、居酒屋での飲み会。

 呼ばれた金子も田村課長も、ぶすっとした顔でグラスを持っている。


「僕は本当はこんなとこ来たくなかったんです。絶対課長がいると思ったから」


「俺だって嫌だったよ。お前と飲むくらいなら家でひとりでビール缶開けてたほうがマシだっての」


 剣呑な雰囲気を、他の社員が「まあまあ」となだめた。


「それじゃ、かんぱーい」


 幹事の俺が気の抜けたような声で乾杯の音頭を取って、飲み会は始まる。

 しかし、思った通り、金子がまた「ハラスメントだ!」と騒ぎ出した。


「僕、アルコール飲めないのに、課長が僕のテーブルにビール瓶を置いた! アルハラだ!」


「テーブルが狭いから一旦置いただけだろ、うるせえな! ハラハラハラハラって、よくもまあ飽きないもんだよ!」


 課長もブチギレて、飲み会は最悪の空気になる。


「いい加減にしろ、君たち!」


 そこへ二人を一喝したのは、総務部の澤村部長だった。


「飲み会の和気あいあいとした雰囲気をぶち壊して、君たちは何がしたいのかね? 楽しめないなら、今すぐここを出て帰りたまえ!」


「ぶ、部長、怒鳴るのはパワハラですよ……」


 金子が蛮勇にも部長にまでハラスメントを持ち出して抗議したが、「無茶苦茶なハラスメントを主張して、職場の空気を乱すのは他の社員へのハラスメントにはならないのかね?」と睨みつけると、金子も課長も小さく縮こまってしまう。


 二人が落ち着いたところで、部長は「君たちの言い分を聞かせてほしい。どうしてこんなことになってしまったのかね?」と一転、優しい口調で理由を聞いた。


「僕は安藤さんに『課長が君にしていることはハラスメントじゃないか、もっと強く主張したほうがいい』と言われて……」


「えっ? 俺も安藤に『ハラスメントにはハラスメントで対抗すべき』とアドバイスされて……」


 そこで、飲み会にいた面々は驚愕の表情で、一斉に安藤――俺の方を向いた。


 実は、俺は金子が自己紹介の挨拶のときに「それ、ハラスメントですよ」と言い出したときから、彼に目をつけていたのだ。

 彼と、課長の二人を焚き付けて、お互いをハラスメントで訴えるように操作していたというわけ。


「安藤くん、これはいったいどういうことかね?」


 澤村部長は険しい顔つきで俺を問いただした。

 俺は真っ直ぐに彼を見据える。


「実は、この会社に蔓延しているハラスメント文化に、一石を投じたかったんです」


 俺は、清川さんが有田係長からセクハラを受けていたことを知っていた。

 この原田商事のハラスメント文化に改革を起こすために、俺は金子と田村課長を利用することにしたのである。

 ハラスメント文化の根本的な解決のためには、わざとハラスメント問題を大きくして、会社を揺さぶる必要があった。それにより、経営陣に改革を促そうとしたのだ。


「そのために、金子と課長の対立を煽ったのは俺です」


 飲み会に参加していた有田係長は、俺の告発に脂汗をかいてうつむいていた。

 金子と課長のハラスメント合戦の間は、セクハラをせずにおとなしくしていたのは、おおかた自分もハラスメントをしていると思われたくないためだろう。


 その後、俺は部長から「会社を混乱に陥れた」と厳重注意され、三ヶ月の減給処分を受けた。

 だが、会社にハラスメント対策チームが設立され、以前よりもハラスメント問題への警戒が強化されることになったのである。


 清川さんが係長からセクハラを受けることもなくなった。

 彼女は俺に感謝と謝罪を述べたが、彼女は何も悪いことはしていない。

 俺は「自分が勝手にやったことだから気にしないでほしい」とだけ告げた。


 すべては俺の計画通りに運んだ。

 俺は清川さんを守りたいという想いを貫いて、ハラスメントを根絶させることに成功したのである。


〈了〉

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