第4話
「骨髄性白血病……」
陽向の口から出て来たまさかの病名に、足元から全身がぶるりと震えた。そんな、陽向が病気……? 私と付き合ってるとき、元気すぎて、雨の日にプールにダイブしても風邪を引かないくらいだったのに。その陽向が、白血病だったなんて……。
あまりに衝撃が大きすぎて、私は何も気の利いた言葉を発することができなくなった。陽向は、私に構わず話を続けた。
「本当、信じられないでしょ? 俺も、同じ気持ちだった。しかもさ、言われたんだよ。病気が発覚した日にさ、俺の余命。あと、ニ年くらいだろうって」
「余命、ニ年」
さすがに、何かの冗談だろうと思った。
でも、隣で静かに言葉を紡いでいく陽向の声は、冷静なのにどこか震えていて。私にどうしようもないほどの現実を突きつける。
「そう、ニ年。その時に思ったんだよね。このまま月凪と付き合い続けたら、近い将来に俺が先に死んで、月凪を深い絶望の淵に突き落とすことになってしまう。それは、それだけは嫌だった。俺は月凪に、俺のことで悲しい思いを、させたくなかったから」
ポツ、ポツ、と膝の上で握りしめていた拳に水が落ちる。雨だ、と思ったけど、自分の涙だと気づいた。
あれ……私、どうして……。どうして泣いてなんか……。
陽向は七年前、私を突然振って、私は文字通り地獄に突き落とされた。陽向が憎い。許せない。こんなに私を苦しめた陽向のこと、忘れたい。
そう思いながら、生きてきたのに。
「自分の選択が、間違ってるかもしれないって考えたこともあった。でも結果的に俺は、月凪を俺の死で苦しめることはなかった。だから俺は後悔していない。月凪のこと、死ぬまでずっと好きだった。好きなまま、この人生の終わりを迎えることができて良かったって、思ってる」
どくん、どくん、と心臓の音は今日一番に大きく鳴って、身体の内側から私の皮膚を痛めつける。
いま、陽向はなんて言った……?
人生の終わりを迎えることができた?
一体、何を言っているのだろうか。
「俺さ、元クラスメイトのやつらに、俺が死んでも月凪には言わないでほしいって、伝えてたんだ。だから、月凪は知らないと思う。俺が——二十歳の夏に死んだこと」
「は……死んだ……? 陽向は、死んだの……?」
「そう。残念だけど、だめだったんだ。何度も治療して、今度こそ治るかもって思ったこともあったけど、結局先に俺の方が力尽きちまった。だから今ここにいる俺は、いわゆる幽霊みたいなもん。月凪、最初俺を見た時、変わってないって言ったよね。それは俺の時間が二十歳で止まってるからだよ」
「そんな……」
なにもかも分からなかった。
突然陽向の口から死んだとか、幽霊だとか、訳の分からない呪文のような言葉を聞かされている気分で、吐き気が込み上げる。うえぇぇ、とその場でえずいてしまった私の背中を、陽向がそっとさすってくれた。
あの縁切りの悪魔は、陽向がもうこの世にいないことを知っていただろう。
この世のものではないからこそ、こうして私を陽向と会わせることができたのだ。
どうしてそんな残酷なことができるの——そう心の中で叫んだけれど、陽向と再会して、陽向のことをきれいさっぱり忘れたいと願ったのは他でもない私だ。
私はこの七年間、陽向のことを何一つ知らなかった。ただ自分が辛かったことだけを友達に吐露したり、陽向の存在そのものを否定したり……もう何もかも忘れてしまいたいと願ったり。ひどいことばかり思って、生きてきたんだ——……。
「月凪、七年前、突然別れようだなんて言って本当に悪かった。傷ついたよね。ごめんな。俺、月凪のこと大好きだった。いや、今でも好きだ。大好きなんだ。でもだからこそ、あの時はああするしかなかった。月凪にもっと苦しい思いをさせるのが辛くて。逃げたのかもしれないな……。俺のこと、なじってもいい。恨んでもいい。それでどうか、今日を最後に俺のことを忘れてくれっ。俺を忘れて、別の誰かと、どうか幸せになって」
涙に滲む陽向の声を、私は初めて耳にした。
高校時代、二人でいる時には一度だって陽向が泣いたところを見たことがなかった。私は感情の波が激しいタイプで、嫌なことがあるとすぐに落ち込んでしまうタイプだったから、喧嘩して涙を流したことは一度や二度ではない。でも陽向はずっと強かった。大好きなお母さんが亡くなった時も、一切弱音を吐かないで、笑顔でいてくれた。その笑顔に、私はいつも救われていたんだ。
ああ、そうだ。私、どうして忘れていたんだろう。
陽向の優しさと温もりを、どうして忘れてしまってたの……。
「忘れたく……ないよぉっ」
気がつけば、口から漏れていたのはこれまで陽向に対して抱いていた気持ちと、大きく矛盾するものだった。
「私、忘れたくないっ。陽向のこと、いつまでも覚えていたい……。私だって、私だってね、陽向のこと大好きだった。ううん、今でも、たった一人の愛する人なの。誰と恋人になっても、陽向のことが頭から離れなかった。私はこんなにも、陽向のことを好きだったのっ。たとえ今日が終わって朝が来ても、一年後も十年後も、覚えていたいよ……! ねえ、神様っ。縁切りの悪魔! いるんでしょう? 陽向のこと、私に忘れさせないで! なんでもするから……ねえ、いいでしょ。そんな奇跡があったって、罰は当たらないじゃない」
うう、うわああああああん、と、全身が慟哭する声が屋上に響き渡る。
もう戻れない。きっと私は陽向のことを忘れてしまう。あの悪魔が私の願いを聞き入れてくれるとは思えないから。
スマホの時計が、午後十一時五十八分を示していた。
すっと、身体が温かいもので包み込まれた。陽向だ。お日様みたいに温かで、干したてのお布団みたいな匂いがする陽向。陽向の肩をびしょびしょに濡らしながら、私はこの一瞬を噛み締める。
「忘れない。俺は忘れないから。だから安心して、元の世界に戻って。月凪、俺を愛してくれて、本当にありがとう」
消えていく、彼の言葉の端っこが、私の耳元で余韻を残した。
「私も、忘れないっ。頭では忘れちゃっても、絶対に心は覚えてるからっ……私の方こそ、陽向の苦しみに気づいてあげられなくてごめんね。たくさんの愛をくれて、ありがとう……大好き」
聞こえないはずの秒針のカチッという音が聞こえたような気がして、全身がまたまぶしいくらいの光に包まれる。最後に見た陽向の残像は、私を見てお日様みたいに明るく笑っていた。
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