第2話

***


「……っ」


 尻餅をついたお尻がひりひりして痛い。目を開くと、安井金毘羅宮の本殿はなく、縁切りの悪魔の姿も見えなかった。夜だというところは同じで、スマホの時計を見ると午後十時三十五分を指している。

 先ほどと違っているのは、妙に風が強いということ。目が暗闇に慣れてきて、ようやく自分がいる場所が分かった。


「ここ、高校の屋上……?」


 冷たいアスファルトに手をついて立ち上がり、懐かしい光景に目を細める。

 懐かしい。高校で天文部に入っていた私は学校の屋上の鍵を持っていた。陽向も同じ天文部で、私たちは部活が終わった後も、しょっちゅうここで星を眺めていたっけ。


「陽向……」


 懐かしい人の名前を呼んでみる。夜の闇に溶けたかと思われた次の瞬間に、信じられないものを目の当たりにした。


「月凪」


 はっとして振り返った先にいた、黒髪の男の子。くっきりとした二重が特徴的で、少しクセのある髪の毛が夜風に揺れている。私と同じ25歳であるはずなのに、私より肌が綺麗に感じるのは皮肉だ。

 ああ、変わっていない。私が大好きだった人。全身全霊をかけて愛した人。離れてから、忘れたくてたまらなかった人。

 御崎陽向は、私の目を見て柔らかく微笑んでいた。


「久しぶりだな、月凪」


 陽向の、柔らかくもたくましい声が私の耳にこだまする。七年越しに聴いた彼の声は、私の記憶をすうっと過去へと引き戻した。


「……陽向、久しぶり」


 もしも陽向に再会したら、絶対に気の済むまで詰ってやろうと思っていた。

 どうして突然私を振ったの? 

 結婚しようって誓った言葉は嘘だったの? 

 私たちは学校一幸せなカップルじゃなかったの? 

 絶対に離れないって言ってくれたのも全部冗談だった? 

って。

 ずっと一人きりで、陽向のために温めた恋心が行き場を失って、どうにかなりそうだった。だから再会したら絶対に罵ってやろう、一発殴ってやろうとさえ思っていたのに。

 目の前に現れた最愛だった相手を前に、どんなひどい言葉も出てこなかった。


「月凪、綺麗になった、な。あれから七年経って、大人になった」


 自分から振って別れた女に「綺麗になった」? 一体陽向はどういうつもりで私と会っているのだろうか。そもそも陽向も、私と同じように私との再会を願ってここにいるのか、縁切りの悪魔に引き摺られてやって来たのかわからない。もし後者だとすれば、少々落ち着きすぎてやしないか?


「陽向は変わってないね。爽やかで、まるで高校生のまま、時が止まったみたい」


 私が久しぶりに会った陽向に対する感想を口にすると、彼はどうしてか切なげにふっと笑った。


「ねえ、このまま立って話すのもなんだし、あっちに座らない? ほら、昔よくあそこで星を眺めてただろ?」


 陽向が指差したのは、避雷針が立っているコンクリートの土台だ。ちょうど人が座るのにちょうど良い高さだから、高校時代には屋上に来たらそこに座っていた。


「うん、いいよ」


 本当に久しぶりに、陽向と隣り合わせになって定位置に座る。陽向の、清潔な石鹸のような匂いが懐かしくて胸がツンとした。私、どうしたんだろう。ここに来る前は陽向のことむかついてばかりいたのに、いざ本人を前にすると、心が高校生の時に戻ったみたいだ。


「やっぱりここは星が間近に見えるな。昔、星空を見ながらどっちがたくさん星座を見つけられるか勝負したよな。俺は目が悪くて、いつも月凪に遅れをとってた」


「ふふ、そんなこともあったね。私、星を見つけるのは得意だからさ」


「そうだな。どうだ、今からまたやってみない? どっちが早く、たくさん星座を見

つけられるか勝負」


「いいね、やろう。負けないよ」


 すっかり陽向のペースに乗せられた私は、夏の夜空に浮かぶ星をぐるりと一周見渡すようにして眺める。

 天文部に入っていた頃からだいぶ時間が経ってしまったけれど、星座を見つける目はまだ衰えていないはず……! ほら、あった、あそこに——。


「はい、はくちょう座! ついでにこと座、わし座ももーらいっ」


 初心者でもすぐに見つけられる夏の大三角の星座たちを、陽向が先に口にした。


「あー今私が言おうと思ったのに!」


「残念。ちょっと遅かったな」


 舌を出してけろっと小さく笑う陽向が小憎らしい。


「いいもん。次は絶対私が先に見つけるんだから。あ、ほら、いるか座!」


「おーさすが、早いな。でも俺も負けてないぜ。その隣のこうま座だ」


「うう、なんか陽向、昔よりキレが良くなってる気がする……」


「ははっ。なんでだろうな。高校時代より、星を身近に感じてるからかな」


「星を身近に? 田舎にでも住んでるの?」


「ん、まあそんなもんかな」


 曖昧に頷いた陽向の表情に、少しだけ翳りが見えた。

 私は不思議に思いつつも、その後も星座探しに必死になった。結果は私が五つ、陽向も五つで同点。私たちは最終的に、はあはあ息を切らしながら星座を叫んでいた。

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