忘れたい人
葉方萌生
第1話
ひゅう、ひゅう、という夏の夜風に当たりながら鳥居を潜ったとき、何か神聖な力を身に纏ったような気がして、私はすっと身を引き締めた。
お付き合いしていた恋人と別れた。しかも、たった三ヶ月で。振ったのは私のほうだ。それなのに、身体中から湧き起こる怒りが火を吹くように全身を煮えたぎらせている。怒りたいのはたった三ヶ月で自分を振った元彼の方だろう。でも私の方がきっと何倍も怒っている。振ったばかりの元彼に対してではない。七年前、突然恋人の私を捨てた、高校三年生だった彼に対して、だ。
原因は……分からない。
ある日突然、何の前触れもなくただ「別れよう」と言われたっきりだ。その時の私の人生はまさに、天国から地獄に落ちたかのよう。まさに青天の霹靂で、私はその日から、本気の恋ができなくなった。
今朝別れたばかりの元彼は、職場の後輩だった。とても礼儀正しくて、誠実で、いい子だった。彼と話すうちにこの人とならいけるかもしれないと思って。告白された時には、「絶対好きになれる」と信じてOKした。でも、どうしても気持ちが恋に発展しない。彼は私のことを本気で好きでいてくれているのに。そんなちぐはぐな関係に耐えられなくなった私が、今朝彼を振ったのだ。
こんなことが今までに通算五回はあった。その度に、自分の恋が上手くいかないのは、陽向のせいだと思うようになった。だから今日、夜もかなり深まった午後十時なんていうおかしな時間に、縁切り神社として有名な、京都の
神社の鳥居を潜り、本殿へと向かう。本殿の前で手を合わせて、ひたすら祈った。
どうか、御崎陽向のことを完全に忘れさせてくださああぁぁい!!
彼のことを忘れて、新たな恋の道に進ませてっ!
陽向と別れてから願い続けてきたことを、強い念と共に送る。すると、閉じたまぶたの向こうでぱっと明るい光がストロボのように弾けた。まぶしくて、咄嗟に眉を顰める。やがて光が消えると、恐る恐る両目を開けた。
「え?」
私の目に、信じられないものが映った。
「狛犬……?」
そう。よく神社やお寺に建てられている石像で目にする狛犬が、お賽銭箱の横に座っていたのだ。
顔はむっつりとしていて目は釣り上がっている。全身白い毛並みが夏の夜風に揺れて、それが生きている動物だと悟った。え、え、どういうこと? 狛犬って実在するの!? あれって想像上の生き物じゃ——混乱する私の前に、狛犬はぴょんと前足をあげて飛び出した。
「あーあ、君、僕のこと呼んじゃったんだ」
「え、えーっ!?」
なんと、狛犬が普通に言葉を発してるっ!
もはや、現実とは思えない。そうか、これは夢なのか。私、どこかで眠りこけているんだわ。でも、どこで? 神社で寝るところなんてないし。というか、神社に来たところから夢だったりする……?
「おい」
「……」
狛犬に呼びかけられても、反応できない私。狛犬は「はあ」と大きなため息をついて、もう一度口を開いた。
「おい、聞いているのか
「は……」
狛犬の口から出て来た私の名前に、はっと心臓が止まりそうになった。
どうして私の名前を知っているの? もう、本当にどういうこと!?
「どうしてお前の名前を知っているのかって? それは僕が神様——いや、どちらかというと悪魔だからだな」
「悪魔?」
「そう。縁切りの悪魔。ここで他人との縁を切ることを強く望んでいる人の前にだけ現れるのさ。君はまったく運がいいね。僕が来たからには、君の願いを叶えてやろう」
尻尾を左右に大きく振りながら、ニヒルな笑みを浮かべる“縁切りの悪魔”。
「願いを叶えてくれるって、本当に?」
「ああ、僕は嘘はつかないよ。君は高校時代に恋人だった御崎陽向のことを忘れたいんだろう?」
「う、うん」
「だったら、そうだな。まずはそいつに会わせてやろう。今から日付が変わる夜中の十二時まで。そして、夜中の十二時になると君はここに戻ってくる。その時君は、御崎陽向の記憶をすべて忘れる——これでどうだ?」
「陽向に会って……忘れる」
信じられない話が続いているが、もはや縁切りの悪魔の存在自体信じがたいものだ。今更どんなことを言われてもひるまない。
「ああ。いい条件だろ? 君は望み通り、その男のことを綺麗さっぱり忘れることができるんだから。パソコンのデータを、デリートキーで削除するみたいにね」
七年間、ひたすら忘れられなくて、忘れたいと思っていた陽向のことを、自動的に忘れることができる。
額から一筋の汗が落ちて、心臓が早鐘のように鳴る。
夏の夜風が、私の頬を撫でて、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……やる。その話に、乗りたい! あいつに会って忘れられるならなんでもいいっ。縁切りの悪魔さん、私と陽向の縁を切って!」
自分でもびっくりするほど大きな声で叫ぶと、縁切りの悪魔は再びニヤリと口の端を持ち上げた。
「いいだろう。では、今から十二時まで一時間半ぐらいだが、御崎陽向に会わせてやる。ほら、行ってこい!」
悪魔がそう口にした途端、私は自分の身体がふわりと持ち上がるような感覚がした。驚きの声を上げる間もなく、まばゆい光に包まれる。心の準備をする間もなく、視界はホワイトアウトした。
忘れたい人 葉方萌生 @moeri_185515
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