第44話 湖畔に寄り添う深い森

 真綿に包まれているようなふわふわの感覚。春の花が咲き誇る庭に居るかのように甘い香りの中、絨毯のように広がる草原でやわらかな葉に包まれていた。


 ここは天国だろうか。水のせせらぎまで聞こえてきた。幸福感に満たされて、もうずっとこのまま眠っていたいような──


「っは! 寝てた!?」


 がばっと起き上がったノエは、口からよだれが垂れ落ちる寸前だったことに気が付いた。


「ははは! うちの眠り姫は一度眠るとてこでも動かねぇからな!」


 真正面で座っていたヒッポに笑われてしまう。気が付けばいつもの船の中、隊員たちが集まる食堂で、いつものメンバーと丸いテーブルを囲んでいた。


「先輩、寝顔もとーっても可愛かったですよ」


 メイベルにまで笑われてしまい、ノエは赤くなった顔を両手で隠す。


「もう言わないで~!」


「私は何度か起こしたのだぞ。こんなところで寝ていたらリリエルに襲われるとな」


 いつも通りのハロルド小隊長の声なのに、なぜかとても懐かしく感じて両手を膝の上に戻す。


 じっとハロルド小隊長の眉目秀麗なお顔を覗き込めば、春風のようにふわりと微笑まれ、くしゃりと頭を撫でられた。


 その瞬間、誰かの顔が頭に浮かんだ。ハロルド小隊長の絹糸のようなブロンドヘアーとは似ても似つかない青みがかった黒い髪を揺らしてふわりと微笑む青年の顔を。


「ひでぇな小隊長、ノエはどう見てもまだ十七かそこらだろ。子供にまで手を出さねぇよ」


 彼の微笑みを覚えている。いつもはこうしてリリエルに子供扱いされることを、お兄ちゃんに可愛がられている妹の特権のように感じてノエは自分がまだまだ子供であることを嬉しく思っていた。


 だけど、あたしは子供扱いしないでと彼に噛みついた。


「いや、ノエの胸は今でもヤバいくらいデカい。おそらくEカップ。賭けてもいいぜ」


 余計なことまで知っているハスラーの軽口は、いつもノエを照れさせた。ハロルド小隊長のように出来た人間ではないので、自分を知られることを恥ずかしく思っていたのだ。


 少し低い体温を覚えている。ハロルド小隊長の一度目の死を知っているとあたしが告げたとき、彼は真実を隠した。


 今ならその理由にも気付くことが出来る。レジスタンスを燃やした時も隠し事をしていた。森にいた子供たちを逃がすために悪役を買って出ていたのだと今ならわかる。


 彼は自分を知られることを嫌がった。部下を傷つけたくないからだ。


「こら、ノエが恥ずかしがるだろう。大体、女性の胸の大きさで精神の成長を測るやつがおるか」


「そうですよ、ハスラー先輩さいてー」


「メイベルは細身に見えてBカップ。賭けてもいいぜ」


「がはははは! ハスラーはめげないな! よし、俺がビスケットを賭けてやる! メイベルは底上げのAカップだ!」


「んじゃ、おれもAカップ」


「私の胸で賭けないでくださいよ!!」


 大きな手のひらを覚えている。馬鹿話に花を咲かせる兄たちをいつも楽しく見ていた。ムキになって怒る妹を慰めていた。いつも苦労している母を労わった。


 だけど、あたしを気遣って真実を隠しながら全てを受け止めておどけるあの人を、あたしは身勝手な思いで許せないでいた。


「先輩! ノエ先輩! みんながいじめるんですよ!」


「……メイベル、もし、あたしがメイベルを助けてあげられなかったらどうする?」


 傷付いた表情を浮かべるメイベル。だけど、あの時ほどの絶望とは比べようもない程明るい。


「ええ? 助けてくれないんですか!?」


 まずは誤解を解かないと、話を聞いてもらえない。


「今の話じゃなくてね。みんな、セクハラはいけませんよ。ハスラーはビスケットを口に詰めて黙っててください」


「よっしゃ! おれの勝ちだ!」


 ハスラーは片手を上げて喜び、ヒッポとリリエルからビスケットを取り上げた。


「どうしてバラすんですか!!」


「ははは! いいじゃないか。ノエはちゃんとメイベルを救っただろう?」


 約束通り、ビスケットを口に詰め込んで黙ったハスラーを見てハロルド小隊長は楽しそうに笑った。


 いつもの日常、いつもの我が家の光景。涙が出そうなほど、暖かな雰囲気にいつまでも浸っていたくなるけれど、静かな湖畔の気配がノエを夢の中に閉じ込めておくのを許さなかった。


 唇を嚙み締め、ノエは罪を告白する。


「……違います。あたしはメイベルの窮地に気付けず救えなかったひどい女なんです」


 みんなは、ノエの様子を見てポカンとしていた。


「なんか落ち込んでるぞ? メイベル、ノエになんかされたのか?」


 ビスケットを頬張るハスラーがノエを指差して心配した。


椅子に座り直したメイベルはノエの顔を覗き込む。メイベルも様子のおかしいノエを心配しているようだった。


 いつも通りだった。何もかも。普段から甘えているようで、メイベルは誰よりも仲間のことを心配している。


「今のことはともかく、私、窮地に陥ったことなんてありませんよ」


 そうなんだろう。きっと、今の段階ではノエの方がおかしいのだ。


「……あなたは覚えていないのよ」


 俯いた顔は上げられない。明るい世界で慰められることがこんなに辛いとは思わなかった。


「よくわからないですけど、もしノエ先輩に見捨てられても、私には心強いハロルド小隊長がいるので大丈夫ですよ!」


 メイベルの言葉を聞いて思い出す。あの人はただそばにいてくれた。何も言わず、真実を隠したのは、ノエをどんな状況からも責めないため。


 自分に責任を感じないように、あの人はノエの殺意に気付きながら、復讐をやらせようとしたのだと今ならわかる。


「ひでぇなぁ、俺たちも頼りになるお兄ちゃんだぜ」


「リリエル先輩からは下心しか見えませんよ」


「バレたか!」


 今さら、その優しさに気が付いたって遅いのに!


「安心しろノエ。私はお前たちを置いて倒れたりしない」


「おっちゃんもいるからな。ノエやメイベルのちびっ子たちは守ってるから安心しろ」


 泣いちゃダメだ。そう思うほど、胸が熱くなる。膝の上でスカートをぎゅっと掴んだ。


 爪が白くなるほど強く、こみ上げてくる涙を封じ込めた。


「……ハロルド、小隊長は……」


 だけど、やっぱり夢の中で優しさに包まれたままでは眠れない。


「どうした?」


 この人たちと、家族と一緒に眠る資格があたしにはない。


「ヒッポ、最後まで、あたしは……」


 戦わなかったのよ。家族が倒れていく中で、一人臆病に震えていたの。


「おいおいどうしたんだよノエ。これはあれだな酒が足りねぇんだ」


「もう、しょうがないですね。ノエ先輩に飲ませるのは一杯だけですよ」


 お酒に酔ってしまえば、この辛さや苦しみから解放されるのだろうか。


「……メイベル、あたし、ここに居ていいのかな……?」


 解放されていいの? 地獄に行くべきじゃないの。忘れようとしても忘れられない。今も首元に下げられた過去に存在しないはずの言葉が忘れられない瞬間を鮮明に思い出させてくれるから。


「どうしたノエ? 気分が悪いのか? 私の部屋で横になるか?」


 ハロルド小隊長のように、ただ優しかっただけのあの人から向けられた眼差しを何度振り払っただろう。


「嫌ですよぅ、先輩! まだ一緒に居ましょうよ!」


「でも、あたし……」


 何度も何度も目を吊り上げて、口汚い言葉ばかりを投げつけるあたしを最後まで受け止めてくれた人。何度も何度もあたしを救って守ってくれた人。


 ノエは顔を上げ、我が家を見渡し、家族の顔を目に焼き付けると、自分の声に耳を澄まして口を開いた。



「──深い森を覚えているの」



 瞬間、景色が変わった。そこは森の中だ。強い風がノエの長い髪をさらっていく。小隊が逃げ込んだラスクール飛行場近くの森だった。


 戦車のキャタピラが地面の土を削りながら近付いて来る音が聞こえる。兵士たちの硬質な足音がいくつも近づいて来ていた。


 空は雪の舞い散る美しい白さで輝いていた。ノエの小隊が乗っていた船は白い空を汚すように黒い煙を上げて空中に浮かんでいた。


 ノエは土にまみれながら木の根元でへたり込んでいた。胸に押し寄せる恐怖と絶望も蘇ってきた。拳銃はいつの間にか失くしており、自害も叶わない。いや、今なら戦えるだろうか。


 しかし、ノエが腰を持ち上げようとした、その瞬間──


「先輩! 先輩やっと見つけた!」


 木立の陰から飛び込んできたのはメイベルの姿だった。ノエの顔は一気に青ざめた。


 上空からは猛烈な勢いで火炎の爆破魔法弾がメイベルに向かって放たれていた。

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