第8話 日常から惨劇へ 不思議の扉

「やだ、やめて、そんな声、聞きたくない!」


 断続的に響く爆発音。敵の目の前にあった操縦席は当然、すぐさま炎に呑まれた。


 超感覚を持つノエは地上のステージの上からでも上空で待機していた船の中の様子を耳で聴いていた。


 いつも通りのゲリラライブに異変が起こったのは本当に突然だった。

 緑の国のラスクール飛行場の滑走路をお借りしてステージ上で歌い踊り、観客たちとも、盛り上がる中、それは音もなく突然現れた。


 黄の国の独立空挺死人旅団の船だ。空中で待機していたノエの部隊の船は、突如目の前に現れた敵軍の船から放たれた魔法弾により一瞬で撃ち落された。


 幸福の象徴であった我が家が燃えていく。家族同然だった仲間たちが殺されていき、そのほとんどが憎悪の権化となってノエの心を黒く染めていった。


『痛い、熱い、死にたくない、殺してやる、お前らの方が死ぬべきだ……ころしてやる……!』


 あれほど暖かな光で満ちていた船が、今や黒い雲で覆われ、冷たい雨の降りしきる寂れて荒廃した街のように、不気味な恐怖で満ちていた。


 ノエの持つ能力、超感覚とはその名の通り、『聴覚』、『視覚』、『嗅覚』、『味覚』、シックスセンスと呼ばれる域まで『感覚』という五感全てが通常の人間の数十倍優れているものだ。


 この超感覚は常に発動しているものであり、汗の匂い、目の動き、鼓動の速さ、神経に伝わる血液の流れ、呼吸のリズムまで詳細に判別が可能である。肉体は思った以上に雄弁だ。 


 ノエは人の心情もある程度読み取れるようになってしまった。


 ぐいっと腕を引っ張られ立たされたノエはハロルド小隊長に頬をぶたれた。


「しっかりしろ!! ここで死ぬか!! 生きて戦うか!!」


 正直、戦う気力なんてものはない。だけど、死ぬのも嫌だ。怖い。あんな風に誰かを呪いながら死んでいくのは怖かった。

 小隊長に引っ張られるように駆け出す。観客たちも我先にと逃げ出していた。


 しかし、緑の髪を振り乱す彼らは守られる。敵とみなされたのは緑ではない者たち。

 心音が消えていく。小隊の船の中で二十六名の命が失われたことを感じ取り、ノエは必死に足を動かしながら声を上げて泣いていた。どうして自分は泣いているのかすらわからなかった。


 かろうじて理性が働いたのは後ろから迫りくる銃声と目の前に広がる木立のざわめきが耳に入ったことだった。


「深くまで逃げ込め!!」


 小隊長に背中を押され、ノエは右も左もわからない森の奥深くまで駆けていく。

 しばらく走ると膝ががくがくと震え、倒れ込むようにゆっくりとその場でしゃがみこんだ。

 激しいダンスを踊った後で体力も残っていなかった。体は丁度木の間に隠れるように隙間にはまっていた。


 震える体をかき集めるように抱きしめながら耳を澄ました。戦車のキャタピラが土を削りながら侵攻してくる音が聴こえた。


「民間人は避難させろ!! 黄色と黒白は撃ち落とせ!!」


「一人も逃がすな!! 平和を乱す敵は殲滅だ!!」


 今ようやく思い出す。ラスクール飛行場には緑の国の軍隊がパレードのために集結していた。


 緑の国は黒の国も敵とみなした。ここでは黒も白も黄も民間人を狙う敵になる。

 この森の周りには敵軍が、少なくとも緑の国の装甲部隊が一つ、上空には黄の国の空挺旅団大隊が待ち構えている。


 空にも地上にも逃げ場がない。『死人』は捕虜にならない。情報を持っていないからだ。

 団長クラスにはたまに任務遂行をスムーズに行えるようにと、軍の機密が伝えられることもあると小隊長から聞いていた。


 しかし、小隊に所属する単なる偵察兵に過ぎないノエは軍の機密なんか知りえない。

 待ち構えているのは死ではなく、凌辱され、辱められ、命尽きるまで男たちの慰み者になる未来。

 この時点でノエに残されたのは自害か、恥辱に耐えながら助けを待つかの二択しかなかった。

 使い方も知らない拳銃を腰のホルダーから取り出した。


 ここは小さな森のようだったが、近くまで硬質な足音が近付いてきている。


「来ないで、来ないで来ないで来ないで……!」


 カタカタと震える両手で拳銃を握りしめる。心の中に渦巻くのは最悪な未来だ。

 やがて銃声が聞こえた。銃声に反応して銃剣突撃を仕掛けたのは小隊長だ。

 彼女は武器に毒を付与させる能力持ちだ。弾丸にも毒を込められるが、お世辞にも射撃能力が高いとは言えない。


 本人にもそれはわかっているし、木々に阻まれたゲリラ戦の専門知識など小隊の中で知っている者はいない。大体、よその国で地の利もないのだ。ならば銃剣突撃で確実に近接戦闘に持ち込んだ方が、生存率も上がるというもの。


 小隊長の目論見通り、潔く躊躇いなく飛び出した小隊長の銃剣は敵の肩を貫いた。即座に敵兵の体に毒が回り、体が麻痺した。小隊長は一度剣を抜くと、すかさず心臓へ一突き。敵兵を絶命させると次の敵を探しながら森の中を進んでいく。


 ノエはその頃、リスの後を追って森の中をちょろちょろと逃げていた。リスが木に登ると、ねずみの後を追いかける。動物たちは本能的に危険な場所から遠ざかる。

 本来であれば動物より感覚の優れているノエの方が安全な場所を把握できるのだが、戦場に渦巻く殺意、憎しみ、悲しみ、苦しみ、あるいは狂気に呑まれ錯乱した人間たちの心の声を聞いているうちに、ノエの方もパニック状態に陥った。


 まともな判断ができず、誰かに縋りたい一心で動物たちの姿を追いかけたのだ。小銃はいつの間にか手放していた。


「ぶっ殺せ!!」

「子供たちを守れ!!」


 今や自分たちが悪。緑の国の兵士は善。

 ぐるりぐるりと善意と悪意が入れ替わる。

 交互に顔を出す悪魔と天使がメリーゴーラウンドのように戦場を地獄へ変えていく。


 ただ自分たちはライブを行っていただけだ。戦争を始めようというわけではない。されど、ライブ会場が炎に呑まれた今となっては黄の国の部隊に攻撃されただけという事情など口に出しても殺される状況だ。


「い、いやだ、いやだいやだ、怖い……! 怖いよ、誰か、誰か……!」


 誰かを呼んでどうするのかは頭の中にない。助かりたい気持ちはあるが、それを言葉にできるほどノエに冷静さは残されていなかった。



 痛いほどに感じるのは襲い来る殺意。ノエを吞み込もうとする黒い大海から吹き荒ぶ憎悪と怒りの嵐だった。泥まみれの細い手先は震え、必死に隠れられる場所を探した。


 森にたどり着いた小隊の隊員はわずか六名だった。気が動転していたのか、戦車が待ち構えている滑走路のど真ん中に着陸してしまった隊員もいた。

 一名はそこで射殺された。小隊の人数は四十名だ。二十六名は船の中で死んだ。六名は森の中にいる。残りの七名は空中で留まっていた。しかし、空中は最も危険な戦場だった。


 空で待機する能力者たち。銃を構えていれば弾丸が飛び出してくるとわかる。だが、『死人』の能力者たちは誰がどんな能力を持っているのかなど、見た目でわかる要素が無い。


 結果、旅団の船から降りてきた『死人』の大隊に追いかけ回された隊員たちは、溺死、感電死、窒息死、圧迫死など、あらゆる方法で命を散らし、生き残った者はいなかった。


 心音が消えていくほどにノエの小さな唇は凍えたように歯をカチカチと嚙み鳴らしながら震えていた。言葉にならない、ひゅっと息を吸って吐く悲鳴だけが口から零れ落ちる。


 恐怖によりわが身可愛さの悲しみと絶望が瞳の端から粒にならない雫となり滴り流れた。


 がくがくと震える膝で四つ這いになりながら、森の中をあてもなくさまよい歩く。


 しかし、森の中も徐々に敵兵に囲まれ、一旦敵兵が森から退いたかと思いきや、そこからがまさに地獄の始まりだった。


 森を囲んだ戦車から怒涛の勢いで砲弾が発射される。自分たちの国であろうが、ここに憎き敵兵が潜んでいるのならば、この森は敵国の領地だと言わんばかりの激烈な攻撃だ。


「っひ、ぃいい……!」


 爆音に怯えて両耳をふさいだ。ノエには理解ができない。否、理解してしまうのが怖かった。


 緑の国の兵士たちは誰も彼もが祖国のためにと戦っている。

 祖国に仇名す黒の国、及び白の国、上空にいる黄の国も敵国の国民は皆悪魔だと言いたげな歪んだ正義感。


 しかし、それはおそらく味方である黒の国も白の国の国民も同じ感情で戦っているのだ。


 砲撃は二十分間も続けられた。ノエはただ耳をふさいでしゃがんでいた。


 木々はだいぶ折られ、見晴らしがよくなったということは、いよいよ隠れる場所もなくなったということだ。


「あ、ああ、ああああ……」


 絶望と恐怖と悲しみは、もはや意味のある言葉にならなかった。

 震えるだけの口から漏れるのは叫びにならなかった慟哭だけ。


 ノエたちは緑の国の要請を受け、ライブを行っただけだった。自ら戦火を運んだわけではないというのに、戦争という状況が人々を狂わせていた。



 おうちに帰りたい。ノエにとって暖かな我が家とは小隊と過ごした船の中だ。

 みんなの元に帰りたい。早く帰って焼きたてのアップルパイをメイベルに振る舞おう。

 きっとあの子は大げさに喜んで船の中で飛び跳ねるだろう。

 それを見たハロルド小隊長は大好きな紅茶を片手に、落ち着けと苦笑いを浮かべながらメイベルを窘める。少し舌を出したメイベルが謝ると、みんなはわっと笑うのだ。



 幹の折れた大木の下で膝を抱えてうずくまるノエは想像の中で幸せだった。

 浸っていたかった。妄想の中に、夢の中に、明るい幸福で満たされた過去の記憶に。


 しかし、現実に引き戻される。すぐ近くから最も頼もしい声が響いたからだ。


「私の仲間たちを死なせはしないっ!!」


 木の陰から飛び出したのはハロルド小隊長だ。

 砲兵部隊の真正面に銃剣を構えて勇猛果敢に突き進んだ。


「……小隊長?」


 ノエは呆然と顔を上げた。数十発の銃声が森の木立をかき分けて響き渡る。


「ハロルド……小隊長……」


 心音が消えた。絶えず戦場においてもひときわ強く脈打っていた鼓動が鳴り止んだ。


「小隊長に続け!!」


「吹き飛べグリーンデビル!!」


 次々に、隊員たちが森から飛び出し特攻を仕掛けた。


 直後に爆発音が響き渡る。四つの心音が消えた。ノエの体は激しく震えだす。ひきつけを起こしそうなほど、体全体から恐怖を叫んでいた。それでも。


 まだ、まだ二人。あと二人は生きている。潰えぬ希望は生に縋りつく残滓となる。


「ちくしょおおお! ちくしょおおおお! 死んでたまるかよおおお!!」


 直後に森の反対側から隊員の怒声にも近い叫び声が耳に届いた。

 撃ち合う銃声の響きは、隊員の心音が完全に消えてなくなるまで続けられた。


「もういないか?」


「油断するな。敵は『死人』だ。これより掃討作戦に移行する。森に火を放て!」


 無情な敵兵の判断。最早この場にしゃがみこんでいても、炎に呑まれるだけとなった。


 空に飛び立とうが敵旅団が待ち構えている。


 こうして、何も知らないまま死ぬのは二度目だ。

 けれどもう、呪いの声に押し潰されるよりかはずっといい。死んだ方がずっといい。


 そうして心が穏やかになった瞬間には死んだ隊員たちの最期の声が頭の中で蘇る。

 嫌だ、死にたくない。怖い悪魔になりたくない。どっちも嫌だ。黒の神と白の神のようにはなれない。自分は鉾にも盾にもなりえない。


 ノエの精神は生も死も受け入れられず混迷を極めていた。


 上空から火炎弾を撃ち込まれた。森を焼くのは旅団の目的でもあるらしい。

 黄の国の攻撃に巻き込まれまいと緑の国の装甲部隊も砲兵部隊も遠ざかっていく。


 もはや助かる道もない。森から飛び出しても撃たれるだけだ。今にも炎は目の前まで迫ってきているのだろう。そう思って顔を上げた。


 一瞬、脳みそがバグでも起こしたのかと思った。


 瞬きを繰り返す。しかし、目の前の光景はブレることもなく、むしろ悠然とそこにあった。


「な、なんで、どこ、どこの、扉……?」


 そう扉だ。なんの変哲もない家の扉が森の中に突如現れた。


 木製の扉で真鍮のドアノブがついている。森の中にポツンと扉が一枚建つ。異様な光景だ。


 しかし、ノエは立ち上がった。ありえないとはわかっている。しかし、この場所以上の地獄などあるものか。


 つまり、あるものなら扉の先へ逃げ込みたい。その一心でノエはドアノブを回す。


 簡単に扉は開いた。扉の後ろは森のはずなのに扉の中には廊下が見える。


 ノエは迷わず廊下に飛び込んだ。辺りを見渡した。廊下には等間隔で窓もある。

 しかし、雨が降っているようで外の様子は見ることができない。


 後ろはどうなっているのかと振り返ったとき、そこに在ったはずの扉はなかった。


 代わりに廊下の奥の方から、ぺたぺたと裸足で廊下を歩いてくる音とずるずると何かを引きずる音が聞こえてくる。


 ノエにとって不気味なのが、足音とものを引きずる音以外聴こえないことだ。


 呼吸音、血液の流れ、心拍、脈拍、筋肉の動き、何も聴こえないのに、それは動いてこちらにやってくる。


「や、やだ、来ないで!!」


 危険を感じたノエは咄嗟に走り出した。どこに繋がっているのかもわからない反対側の廊下の奥へ。


 だが、走り出した瞬間に気が付いた。裸足の足音はから聴こえる。


(嘘嘘嘘!? どういうこと!? 瞬間移動!? だってさっきまであんなに距離が!?)


 ノエは走りながら再びパニックに陥る。本当に距離があったかどうかも判断ができない。


 足音と何かを引きずる音以外に何も音がしないのだ。もはや向こうが歩いているのか走っているのかさえわからない。


 ただどれだけ走っても振りほどけない。距離は開かない。それどころか圧迫感が背中に迫り、気付けば濡れた手がノエの肩を掴んだ。



『──おいでよ』



 声ではない。脳に直接響くような、いや、脳にシミのように広がり反響するような言葉だった。


「っひぃ!」




☆☆☆

後半から新エピソードです!!


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