第7話



「ね、誉緖くん」

「……明火先生」


 誉緖は我に返って、自分の目を塞いだ人物を振り返った。


「こんばんは。不思議な夜になりましたね」


 内向きのミディアムボブ、白い詰め襟のブラウス、胸元の大きな黒いリボンにタイツ─巧みに骨格や関節を隠したファッションに身を包んだその人物は、青いスカートの端をつまんで気取った挨拶をした。

 その声音は、ビスクドールのような容姿からは想像しがたい、柔らかな低音だ。

 錫屋明火すずやあけび─誉緖は、彼の仕事を詳しく知らない。知っているのは、彼が夏弍の「顧問弁護士」という立場であること、遠い遠い場所から引っ越してきて、「この先ずっと」弥沼に住み続けるということだけだ。


「誉緖ー?」


 弟が着いてきていないことに気が付いた徇助が、早足で戻ってくる。曲がり角の向こうから現れた彼は、明火を見てカメラの重みにつられるような仕草で首を傾げた。


「あれ、明火くん来てたのわ?」

「ええ、スナックのママにお酒を届けてほしいと頼まれたんです。すぐ帰るつもりだったんですが、何だか大変なときに来てしまったようですね」


 どうやら、彼も既に夏弍か璃子と鉢合わせて事の次第を聞いたらしい。しかしその声音はどこか楽しげだ。


「前の弁護士さんからお仕事を引き継いで2年になりますが、こんなことは初めてです。特別なしきたりなんですか?」

「こんなホラゲ感満載のしきたり無い無い。おれたちも初めてだよ」

「おや、徇助くんが知らないとなるとますます興味深いですね。ここはしっかり乗っておきましょう。誉緖くんも、もう窓の外を見てはいけませんよ」


 そこで誉緖は先程の出来事を思い出し、完全にお化け屋敷気分に浸っている明火の腕を掴んだ。


「明火先生、窓、窓の外、雪乃が居た!雪乃の声した!」

「雪乃……さん?ああ、本屋のお嬢さんですか。いらっしゃってるんですか?」

「いやいや、こんな時間にこんなとこ来ねえって」

「明火先生は聞こえねかった?見えねかった?」

「いえ、僕にはまったく。ごめんなさいね」


 興奮気味な誉緖を宥めるように謝罪する。しかし誉緖は、その言葉を信じることが出来なかった。

 すぐ真後ろにいたはずなのに、聞こえないなんてありえない。雪乃はすぐそばにいたのに、気が付かないなんてありえない。

 明火の言葉に、ふつふつと焦りと苛立ちが湧き上がる。


「嘘!ぜったいいた!」

「うーん……僕には聞こえませんでしたね」

「嘘つき!」


 自分でも驚くほどの大声だった。

 すぐに、眉ひとつ動かさないまま、しかし微かに声音に尖った色を乗せて、徇助が彼を制する。


「誉緖、いきなり人に嘘つき呼ばわりはねえべや。謝らい」

「だって!居るのに!絶対居るのに!」


 何かが内側から急き立てる。その怒りと衝動に逆らうことは出来ず、掴んだ腕を引っ張った。その小学生の力は凄まじく、あまり体格の変わらない明火は危うく転びかけた。


「誉……」

「大丈夫ですよ、徇助くん」 


 明火は誉緖と視線を合わせ、柔らかな調子で声を掛ける。


「誉緖くん、雪乃さんがお外に居るんですね?」

「居る。んだから、行かねえと」

「……今は、子どもが外に出ることをおじいさまが禁じているんです」

「でも!」

「ですから」


 腕を掴む手を宥めるようにさすり、明火は窓の外にちらりと視線を向けた。


「僕が先に見に行って来ますよ。君たちはお仕事の続きをしてください。僕が君たちの様子を見て来てくれと仰せつかったように、君たちも何かお仕事があるんでしょう?」


 そこで誉緖はようやく、兄たちに事の次第を知らせてくるよう曽祖父に言われたことを思い出した。 

 するりと手の力が抜ける。ブラウスの袖にはすっかり皺が寄ってしまっていた。


「う、うん、ごめん」

「謝ることはありませんよ。お友達が心配で落ち着かないのは当然ですから」


 俯いた誉緖の肩をさすってやりつつ、明火は徇助に目配せする。ふたりとも、彼の様子がおかしいことには勘づいていた。


「しきたりに水を差すのは申し訳ないですが、事情を説明すれば夏弍さまもお許しくださるでしょう。徇助くん、お願いしますね」

「……若いのは外出んなって言ってたよ」

「ふふ、これでも君たちから見たらおじさんですよ」


 しかし、ふたりは夏弍が語る「お迎えさん」を、単なる古い風習か言い伝えに沿った儀式、ないしは祭事だと思っていた。当然、誉緖の異変とそれが結びつくはずもない。

 それ故に、明火は躊躇なく窓を開け放ち、徇助はそれに軽く手を振って別れた。





 窓枠に足をかけ、ひらりとそれを乗り越えた明火は、そっと窓を閉め直す。タイツ越しに芝の感触が伝わってくるが、庭の石畳を歩きながら雪乃を探す程度ならば、靴を履かなくても問題はないと思った。

 璃子が女衆を集めて窓の雨戸をすべて閉めると言っていたので、戻るときは叱られるのを覚悟で玄関に向かわなければならないだろう。


「はあ、蚊が……」


 多い─と言おうとして、明火はさっそく違和感を覚えた。

 丸く刈られた庭木から、夏弍の盆栽から、璃子が育てている花壇の花々から、庭のあちこちから声をあげる虫の気配が、まったく感じられないのだ。そればかりか、手足にまとわりつくはずの藪蚊や虻も、夜の帳が下りると悲しげに鳴くトラツグミも、今夜はひとつ残らず消えてしまったようだった。





 親戚付き合いも近所付き合いもない家庭に生まれ、郊外とはいえ住宅街で育った明火にとって、弥沼での生活は、20年も30年も昔にタイムスリップしたような感覚を覚えるものだった。

 特に三島家は、一族郎党と住み込みの職人が同じ敷地に暮らし、家長である夏弍の見送りや出迎えには住人が総出で集まる。一族の子どもたちは、都会の若者なら大学も卒業していないような年で結婚する者が多く、夏弍は60代の頃には玄孫に恵まれていた。

 文化に優劣は無い。文化は土地と歴史の中で生まれ、育まれる。余所者が見たら奇異な習わしだとしても、その土地に必要とされる形で育ったものだからこそ、長きに渡って受け継がれるのである。

 明火のそういった考えは、彼に「似合うから」というシンプルな理由で女装を始めさせ、「条件が良いから」というこれまたシンプルな動機で弥沼での就職を決めさせた。

 



 「お迎えさん」は、恐らく弥沼の古い風習のひとつである。だから、それはきっと意味があるもので、尊重されるべきだ。しかし、少女の身の安全より優先すべきことではない。

 明火は、そう判断して、夜の闇に身を躍らせてしまった。


「雪乃さーん?」


 夜闇に向けて声を張り上げた。


「錫屋明火です。わかりますか?三島さんのところの弁護士です」


 闇の中から突然自分を呼ぶ男の声がしては恐ろしかろうと、矢継ぎ早に名乗る。


「もう真っ暗ですし、もしいらっしゃるなら出てきてください」


 すべての音と気配が消え去ってしまった庭に薄ら寒さを感じながら、明火はもう一度呼びかける。


「ご家族には一緒に説明しますから、帰りましょう?」

「─帰る?」


 塀と庭木の隙間から囁くような声がして、明火は弾かれるように振り返った。肩から下げていたスマホポーチの紐を引き寄せ、ライトを点灯させたそれを構える。

 柔い灯りは夜闇を僅かに退けたが、少女の姿を捉えることはなかった。


「お嬢さん、怖がらないで。ほら、一緒に帰りましょう?」

「……本当に、一緒に帰るの?」


 返事をしようとして、寸前で呑み込む。無視できない違和感が、頭に警報を鳴らした。

 少女の言葉には、この町の訛りが一欠片も混ざっていないのだ。


「きみ……」


 ライトを構えたまま、一歩進む。闇が一歩退く。それでも少女の姿は見えない。


─そういえば本屋って娘さん3人いましたっけ。


「きみ、どちらのお嬢さんですか」


 面識が少ない故に混同されていた記憶が、ようやく正しく結びつく。

 高橋雪乃は、高橋書店の三姉妹の長女。特別支援学級に通う、車椅子の少女だ。

 塀は、もう手が届く距離に迫っていた。庭の闇が追い立てられ、庭木の根元に僅かに溜まっている。当然、四肢を動かすことが困難な少女が、明火の追跡を振り切れるはずもない。


「帰らないの?」


 それでも、暗く影が落ちる木の根から声がした。ふと、懐かしいものが胸を満たす。子どもの頃に住んでいたアパートの匂いだ。黴と、タバコが混ざった、薄汚れた懐かしさだ。


「帰ってきてるべや」


 刹那、ぐっと腕を引かれてたたらを踏む。


「夏弍さん?」


 振り返った先に紺の着流しを見つけ、名前を呼んだ。


「こいつは、もう帰ってきてる。この先ずっと、死ぬまで、その先も、此処のモンだ」


 呪文めいた言葉を夏弍が口にした途端、足元で鈴虫が鳴く。それを皮切りに、庭の中を生き物の気配が満たしていった。


「ったく、外出んなっつったべや」

「……す、すみません、つい」

「なして靴も履かねで」


 夏弍は何も説明することなく、明火の手首を引っ張って屋敷を目指しながら問うた。70を迎えてなお己よりもずっと大きい上背を見上げ、明火は恐る恐る口を開く。


「誉緖くんが不安がっていたんです。庭から雪乃さんの声がした、外にいるんじゃないかと」

「雪乃?」

「本屋の一番上のお嬢さんです。ほら、誉緖くんのクラスメイトで……」


 夏弍がさっと振り返る。


「誉緖が、んなこと言ったのか?」

「ええ」

「……有り得ねえな」

「どうして?」

「今高橋の店主から電話が来たとこや。雪乃が車椅子置いて、煙みてえに消えたってよ」


 そのとき、明火のスマホが震えた。

 液晶に電話をかけてきた相手の名が表示される。それは、年齢が近いこともあって、友人と言っていい関係を築いている男の名だった。


「生島くんから電話が─」

「遅かった」


 夏弍が、眉間に皺を寄せた。


「帰って来るべきもんが、帰ってこねえせいだ」





 

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