第6話
弥沼町─
広大な農地と、先祖代々この地に根を張る旧家が集まる、弥沼の中でもとりわけ閉鎖的な土地だ。
その中心に建つのは、見事な石垣に囲まれた、武家屋敷のような出で立ちの日本家屋である。渡り廊下で繋がる二棟の白い漆喰と黒い瓦屋根を持つ屋敷、更に作業場や事務所を備えたその敷地の広さは、校庭を含めた弥沼小学校のそれよりも僅かに広い。そして玄関から10メートル以上離れた門扉には、「三島」と彫られた表札が掲げられている。
「誉緖、今日はもう寝っぺし」
障子を閉じ誉緖を振り返るのは、紺の着流しに身を包んだ老人─といっても、その眼差しは鋭く、背は糸で吊られたように伸び、身体には未だ衰えぬ筋肉の張りが見て取れた。
三島家は長らく工務店と材木業を営む弥沼の名士であったが、夏弍の時代で更に大きく拡大した。工務店として町のインフラや住民の生活を支える傍ら、伝統工芸品である「弥沼漆器」「くらき錦」の材料の生産から販売まで一手に引き受け、町の人間を多く雇用し、更に取り扱っている商品は大きな人気を博している。
三島とはまさに弥沼の心臓であり、背骨であり、町そのものであった。
『俺等がこうして生活してられんのは、なんもかんも、三島の爺様のお陰でがす』
毎日のように町の誰かが屋敷を訪れて、夏弍に頭を下げる。町議会の選挙が始まるときも、候補者は皆挨拶に来る。
幼い誉緖にも、夏弍が皆に尊敬される偉大な人物であることは理解できた。彼は、そんな立派な曾祖父が大好きだ。だから言われたことには素直に従い、その意図を問うこともほとんどない。
しかし、座卓に宿題を広げたところで突然寝るように促され、誉緖は目を丸くした。
「でも、宿題やんねえと」
「構わね。学校には爺様が言っといてやっから─
夏弍は妻の名を呼んだ。ややあって、す、す、と床を擦る着物を着た者特有の足音が近づき、廊下と繋がる襖が開く。
光沢のある滑らかな生地がうつくしい「くらき錦」をまとった老年の女性が姿を現した。
「はいはい、大声出さねでも聞こえてますよ」
「お迎えさんや、もう山から降りてきた」
要点を得ない言葉。しかし璃子は明確に顔を青ざめさせ、何故かさっと誉緖に駆け寄ってその肩を抱いた。
「二人一組なって雨戸閉めさせろ、鏡も伏せっか布かけんだ。テレビもや」
「若衆と子どもらはどうします」
「スマホだのゲーム機だの集めさせて、大部屋で寝かすべし」
「なに?なにしたの?」
ふたりのただならぬ様子に不安を感じた誉緖は、璃子にしがみつき、夏弍を見上げた。彼は、眉間の皺を深くして曾孫と相対する。
「誉緖、山からお迎えさんが降りて来てんだ」
「お迎えさん?」
「んだ。お迎えさんは、あんま人間の区別つけんのが上手でねえからな。間違っておめたちが連れてかれっかもしれねから、お迎えさんの仕事が終わるまで隠れねえとなんね」
「……爺様、おれ爺様が言ってっことよく分かんね」
「ほんとに、何も分かんねか?」
膝に手をつき、長身が屈められる。誉緖は夏弍の言葉の中から、なんとか理解できた部分を紡ぎ出した。
「スマホと、ゲーム機は見ちゃだめ。んで、皆と大部屋で寝る。あ、あと鏡もテレビも見ねえ」
「んだ、誉緖は賢えな」
夏弍は朗らかに笑って、誉緖の肩を叩くように撫でる。
「兄貴たちにも伝えてきてけれねか?やんた(嫌だ)って言われたらよ、爺様のご命令やって脅してやらい」
いたずらっぽくそんなことを言う彼に、誉緖は不安と緊張を僅かに緩めて笑い返した。
恐怖に締めつけられた本能が、「この状況は危険なものではない」と都合良く解釈し始める。
きっと、今日は「そういう日」なのだ。
正月に四つ足の生き物を食べてはいけないように。
お盆に精霊馬を作ってご先祖様を待つように。
今日は、祖父が今言ったことをする日なのだろう。
昼間からじわじわと日常を浸食している異変に気が付かないふりをして、誉緖は襖を開こうとする。取っ手に手をかけようとした瞬間、それは反対から開かれた。
ふらり。揺れるレンズと目が合う。そこにいたのは、顔立ちこそ精悍と言って良いが、感情の読めない黒黒とした目が無機物のような印象を与える、鮮やかな梅の刺繍が施された黒シャツ姿の少年が立っていた。
彼は
「はいチーズ」
曽祖父、曾祖母、誉緖の3人だけという組み合わせが珍しかったのだろう。
徇助は何の気なしにカメラを構え、液晶を起動させようとした。
「撮んな!」
夏弍がレンズを掴む。衝撃で徇助の手から離れたカメラは、牛革のベルトによって落下を阻まれ、ゆらゆらと揺れる。
誉緖は身を強張らせて、咄嗟に璃子へと抱き着いた。
対して、表情を変えないまま、しかしぱちぱちと瞬きを繰り返す徇助に、夏弍は一言謝ったあと、先ほどと同じことを語り始める。
「お迎えさん?なにそれ。カメラ関係ある?」
「細けえことは後で話してやっから、とにかく若衆とガキ全員大広間さ集めらい。
東西に並んだ二棟、東は夏弍の長男筋の、西は次男筋である誉緖たち一家の居住スペースだ。更に離れには、住み込みで働く若い職人たちが寝泊まりしている。
「ガキって何歳まで?おれ入ってんの?」
「決まってっぺや馬鹿このっ、文句言ってねで声掛けて来い。カメラも、窓の外も、鏡も見んでねえど」
「ふうん」
徇助の声に喜色が滲む。明らかに非日常を面白がっているその頭を、夏弍は思い切り叩いた。
「いって!」
「ニヤニヤすんでねえ、わらわら(急いで)走れ!ほら!」
「わーったよもう。ほら誉緖、行くべし」
徇助に促され、誉緖は廊下を出た。
すると曾祖母も後に続いて、ふたりの横を足早に通り過ぎる。彼女はあちこちの襖を開けて「お迎えさんや!」と祖父母や両親に伝えて回っているようだった。
「徇助、お迎えさんってなに?」
「さあ。なんだべな」
徇助はレンズにカバーを装着すると、カメラからパッと手を離した。黒に映える柄シャツの前で、カメラは振り子のような軌道を描く。
それに連動するように、そして何かを窺うように、徇助の真っ黒な瞳も左右を彷徨った。
「……」
「徇助?」
「なにや」
「ちゃんと爺様の言いつけ守ってよ」
徇助は、中学校を卒業してすぐに三島家が経営する会社のひとつ、「三島林業」に就職した社会人だ。それと同時に、動画投稿を趣味としている。動画の内容は民間伝承、都市伝説の紹介や考察といった民俗学的なものが中心である。
突然静かな日常を破った曽祖父の言葉、「お迎えさん」という、まったく姿かたちの想像がつかない「何か」。それらは、徇助の下世話な好奇心を駆り立てるらしかった。
「分かってるよ」
徇助は心此処にあらずと言った様子で呟くと、「さっさと行くべし」と誉緖を促し、先を歩き始めた。その背中は、数メートルいったところで廊下の角の奥へ消えていく。
遠くの方では、璃子が家の大人たちに慌ただしく何かを指示していた。しかし、誉緖が立つ長廊下は酷く静かだ。
普段は襖から漏れ聞こえるテレビの音も、4番目の兄が自分を呼びつける声も、2番目の兄が大音量で流す音楽も、いとこや甥姪たちの喧嘩、泣き声、酔った父や叔父の機嫌良さげな話し声─この屋敷に詰め込まれているはずの日常が、昼間の熱の名残と共に失われてしまったように思えた。
─つめたい。
初夏だというのに、そう思った。それは、昼間に千種から電話が届いたとき、雪乃が奇妙な行動を取ったときの感覚と、よく似ていた。
板張りの廊下が痛いように冷たくて、足が上手く動かない。寒い。冷たい。
こんこん、と軽く何かを叩くような音がして、ふと顔を上げる。外は既に暗く、庭に面する硝子窓には、誉緖の姿が写っていた。窓の鏡のような反射によって隠されてしまった庭から、その音は聞こえている。
─窓は見ちゃだめ。
誉緖は夏弍の言葉を思い出し、すぐに視線を下げようとした。しかし─
「誉緖」
それは、毎日教室で聞き慣れた少女の声だった。間違いなく、雪乃だった。
「誉緖、帰るべし」
普段の溌剌とした調子とは全く違う、震えるような、囁くような声音だ。
「ねえ」
がたがたと窓が揺れる。声の主は、窓を開けることが出来ないようだ。
誉緖は吸い寄せられるように窓へと歩みだした。
「開けて」
そう、帰らなければならない。
あの子が待っている、ふるさとに。
華やぐ街も、喉を焼く酒も、重い財布も、羨望の眼差しも、何もかも捨てて、帰らなければならない。
なぜ、ずっと気が付かなかったのだろう。あの子のことを忘れて、ふるさとを忘れて、どうして生きていけると思ったのだろう。
「お願い」
ざんばらに切った髪に、赤い飾りが揺れる。
「寒いよ」
誉緖は窓に手を伸ばし─
「こら」
その両目を、骨ばった細い指が覆った。熱いほどの体温を持つそれが肌に触れ、我に返った誉緖は振り返る。彼よりも数センチだけ高い場所に、グレー系のアイシャドウで彩られた目と視線が交わった。
「いけませんよ、おじいさまの言いつけは守らないと」
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